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自分探しと someone の話。

「自分探しの旅」

とかそういうことを言うと、プークスクスと笑われるようなシーンを最近ではよく見かけるような気がします。

私自身、その「自分探し」ってのがよく分かっていないですけど、もし私が急に「自分探しの旅に出ます」と言ったら周りの人はどういう反応するのかなと想像します。

もう40を手前にしながらまだ自分のことが分かっていないのかと笑われることもあるでしょうし、旅に出るって言ったってその間の生活費とか家のこととかそういうのはどうするんだと心配されるかもしれません。

でも、青臭いことを承知で言わせてもらうなら、「本当の自分は何者なのか」なんて漠然とした問いは、中高生ならではの特権ではなく、オッサンになってもその答えは分からないまま抱えて生きていますよ。

そしてそれは、正直この今の生活に納得いかない部分があるから、その改善のためにより良い何かを求めているってことなんじゃないかと思うのです。

だからと言って、そのために仕事を辞めて海外放浪するとかそういうことではなくて。

その探す対象が「自分」なのであれば、別に他所へ行く必要も無いのではと思うわけです。だって、どこに行ったって自分は自分ですから。

何か遠い国に行ったからって、自分は変わらない。
仮に脱サラして今とは全然違う仕事を始めても、自分は変わらない。

悲しいほど、変わらないと思うんです。

所詮、旅行に出て見つかるのはせいぜい自分のそれまでの生活の振る舞いや思考様式の違いくらい。旅先だからちょっと大胆になってみたり、ちょっと勇気を出してみたり。「お?今までの自分とちょっと違うぞ」と少し感じる程度。そしてそれは旅から帰ってきた途端に、きっと元通りに戻ります。

逆に言うと、今の自分を見つめ直すことは、どんな環境であってもできることなんじゃないかと思います。いや、むしろ今この環境の中で、自分がどう感じてどう考えて、どういう信念に基づいて、あるいはどういう事象にどう反応して、どう行動するか。

そういうのは、幾らでも「自分」として認識できる機会があるわけです。ああ、これが自分なんだ。こんなことができるんだ。逆に、こんなことしかできないんだ。と。

具体的に考えてみると、私の場合は、今の仕事においてです。

私は企業の情報システム部門で働いているのですが、できることなら社内のアプリケーションをひたすらゴリゴリと開発していたいのです。

でもそうもいかない。
苦手な作業だったり、嫌だなと思うことも山ほどあります。

たとえば、人と人との調整ごと。私はいちいち気にしてしまうタチなのか、他人の言動(それはメールやチャットの文面も然り)一つ一つに敏感に反応してしまうのです。「こういうことを言ったから怒っているのかな」「こんなお願いをしたら嫌だろうなぁ」そういうことを勝手に想像して苦しくなって、変に抱え込んでパフォーマンスが激落ちくんになります。

他にも、偉い人からいきなり急ぎの仕事がドカッと降りてくることがあります。それはしょうがないんでしょうけれど、大抵そういうことをしてくる人ってその頼み方が横柄なんですよね。「やっといて」みたいな。「いや簡単に言うけどさぁ、こっちだって他にも優先度の高い作業があるんだよなぁ・・」みたいにハラワタ煮えくり返るのを必死に抑えて二つ返事で「承知しました!」と答えますけれど。

そういう時に、「はぁ~~~~~~~~~~~~~~」と、思いっきりでっかいため息をつきたくなるものです。仕事って、楽しいことばかりじゃない。そうして色々なことに絶望したくなってしまいます。

ですが、よくよく考えてみますと、それは私の性格とか気質によって、仕事そのものの捉え方が変わってくるのだろうとも思うわけです。

どういうことかというと、人と人との間に立って折衝なり交渉事をするような仕事は、別に全世界の人間が苦手というわけではないと思うのです。私は苦手ですけど、きっと得意な人も居る。むしろそういうことを生業にしている人も居るはずです。そういう人と何が違うかとか優れている劣っているなどの判断は、ちょっと小脇にどけておくとして。単にそういう事実があるということを認識しておきます。

私はエンジニア職に就いていますが、遠い昔、営業的な業務を担当していたことがあります。当時は、もちろん今とは全く業務内容も違っていて、人と話してナンボと言いますか、とにかく会って説明して要求を聞いて提案してそれで契約してもらえたらやっと成果に繋がって、という世界でした。

そのことを思い返すと、あの頃は必死でしたし辛いこともありましたけど、今「嫌だなぁ」と思っている仕事と何が違うんだっけ?という気にもなります。

苦手だ苦手だ、と思っているのは、勝手に私の性格がそうしているわけで、その性格をどうこうして直せというわけではないですけど、まさにそれこそが「自分」だと思うんです。

好きなことがある。得意なことがある。それが「自分」だ。
そういう考えも分かりますけど、きっとその逆もある。

嫌いだな。苦手だな。腹が立つな。落ち込むな。
そういう負の感情を抱いてしまうのも「自分」であって。

どちらの面も私は持っているんだぞと。それを嫌いか好きかの感情の判断は一旦置いておいて、単にそういう役割を演じていると言いますか。上手くやろうが下手をここうが、たまたま今、そういう機会が目の前にあるだけ。色んなことをやれるチャンスがあって、もし失敗してもその経験を積むだけだよと。そういうことを受け入れてあげるところから、前に進む一歩が踏み出せるような気もします。生きるための一歩。

そうすると、ほら、別にどこか遠い国に旅に出なくたって、同じ場所に居たって生活の中だって「自分」は見つかるわけです。っていうか最初から居ますし、ここに。「自分」って。

もちろんそれで全て「自分」が分かるかというと、そうではないでしょう。でも少なくとも、以前とは違った目線で自分を見つめることができる。俯瞰と言いますか。自分が幽体離脱してもう一人の自分がその自分を取り巻く状況を眺めているわけです。「あーあー、こんなことでネガティブになっちゃって」「へえ、こういうことをやっているのが楽しいんだね」って。

決して「ここには無い、ここではない、何処かに居る特別な自分」に会うためではなくて。今までこうして積み重ねてきて、どれがどうしようもなく無駄なプロセスだったり、後悔だらけだったり、泥臭かったりみっともなかったり、だらしないものだったとしても、今生きているこの瞬間まで日々を繋いできたこと。これが「自分」なんだと思います。

他の誰にも代替できない存在。自分が、そういう someone (重要な、特別な人物)ではないことはとっくに分かっています。幼い頃はそういうふうに思っていた人も多いんじゃないでしょうか。「自分はみんなとは違う、スゴイ人間なんだ」って。でも成長していくと段々と分かってくる。平凡で、いやむしろポンコツなほうの人間なんじゃないかって。その反面、なかなかそれを諦めきれない、認めたくない自分も居るわけです。

私自身も、それに気付いています。someone にはなれない。

だとしても、もがいてもがいて、今よりもっと良い日常を探すことは、決して悪いことじゃない。そう私は信じます。また、そのことで笑われるというのもおかしいことだとも思っています。

論語で言うところの「不惑」という言葉がありますが、私はまだまだ迷います。そして思い悩むでしょう。note で色々えらそうなことも書きますが、結局そんなに成長もできていません。大人げないけれど、やっぱり嫌なものは嫌だし、逃げたいことはたくさんある。

でもそういうのに向き合って、ああでもないこうでもないとかやりながら乗り切ったり、寝かせてみたり、自分を無にしてひたすら耐え続けたり、それでも辛ければやっぱり逃げたり、そうやって日々を過ごしていくしかないのかなとも思うわけです。

何者にもなれない。でも何者かにもなる必要もない。
だってこの色々な面を全部ひっくるめて自分だから。

思い悩むこともフラフラしちゃうこともまだまだたくさんありますけど、決して人生に絶望はせず「自分探し」はやっていけたらと思っています。それに、逆に「『自分』は全部探し終えました!」ってなっちゃったらそれはそれでちょっと何かつまんなそうだし。まだ人生楽しみたいので。おわり。

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