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【創作】憂鬱の行方

 物心ついた頃から、相川志乃はいつも憂鬱だった。
 それはいわゆる気質であり、どうすることもできないものだと思っていた。

 週の始まり。月曜日。とりわけ憂鬱な朝だ。
 電車は定刻どおり会社の最寄り駅へ到着した。降り立った志乃は、改札を通過する前に、まずは駅のトイレに入る。出社前に気持ちを落ち着けるための、儀式のようなものだ。
 洗面台の鏡に映った自分を見つめて、大きく深呼吸。吐き出される息はどんよりとしていて、深呼吸というよりはため息に近い。
 ふいに後ろに気配がよぎり、一人の女性が隣の洗面台で手を洗い始めた。志乃はひどく驚き、「うわっ」と声をあげてしまった。
「驚かせてすみません」女性は恐縮した様子で謝った。
「いえ、私がぼんやりしていただけなので」
 グレーのパンツスーツ姿。派手すぎないメイクに、明るすぎない髪色。すっきりとしたショートボブは、志乃もこれくらい短くしたいと思いながらも踏み切れずにいる髪型だ。
 全体として落ち着いた雰囲気だが、かといって地味というほどでもない。良くも悪くも印象に残らない。印象に残らないことが個性であるような、そんな雰囲気をまとっている。年齢はおそらく三十代前半。志乃とあまり変わらないだろう。スーツが身体によく馴染み、なにかの営業の仕事をしている人に見える。それを証明するかのように、彼女が口を開いた。
「わたくし、サカキと申します。少しだけお時間よろしいでしょうか」
「いや、ちょっと。これから仕事に行かなくちゃいけないので」
「五分だけでかまいません。ただいまこちらの商品をサンプルとしてお配りしておりまして」
 逃げ腰の志乃にはかまわぬ様子で、サカキと名乗った女性は肩にかけた黒いビジネスバッグから何かを取り出した。
 小瓶だ。高さは五センチくらいで、手のひらにすっぽりとおさまるくらいの大きさ。ガラスは茶色で、何もラベルは貼られていない。中身は空のようだ。
「ふたを、あけてみてください」
 手渡された小瓶のふたをそっとあける。
「えっ……なんですか、これ」
 中が光っている。白い光で満たされていて、底が見えない。
「憂鬱の小瓶です」サカキが言った。
「憂鬱の小瓶」よくわからないまま、志乃は復唱する。
「はい。憂鬱な気分を吸い込んでくれる小瓶です。瓶の口にため息を吹き込んでください」
 これは怪しい。一刻も早くこの場を離れなければ。そう思うのに体は動かず、言葉も出てこない。サカキは説明を続けた。
 ため息を吹き込むたびに中の光が弱まってくること、光が完全に消えて真っ暗になったら、もう中身が満杯なので使用できないこと、どれくらいの期間で満杯になるかは含まれる憂鬱の量によって変わるので一概には言えないこと。
「そちらはサンプルですので差し上げます。どうぞ、ご自愛ください」
 ぼんやりしていたのだろうか。いつの間にかサカキはいなくなっていた。
一人残された志乃は、洗面台の鏡をじっと見つめた。小瓶を手にした、顔色の悪い一人の女。ネガティブな空気をまとっていると、変なものを引き寄せてしまうのだろうか。気をつけなければと思いながら、足早に会社へと向かった。
 その日は仕事上のトラブルが立て続けに起こり、夜九時近くまで残業するはめになった。帰宅したときには疲れきっていて、シャワーを浴びてすぐに寝た。小瓶のことを思い出したのは、翌朝のことだ。
 前日のトラブル処理の続きが残っていることもあって、いつも以上に辛い寝覚めだった。身体が重くて動かない。心の重みに、身体が圧倒されてしまう。枕に顔をうずめてウンウン唸っていると、急にサカキの顔が思い浮かんだ。這うようにしてベッドからおり、バッグに手を伸ばして中から小瓶を取り出す。
 憂鬱を吸い込んでくれる小瓶。
 藁にもすがる思い、というのはこのことだろう。ふたを開けて、白い光に誘われるように、瓶の口を自分の口元へ近づける。大きくため息をついた。最初の勢いそのままに吐き出されたそれは、思っていた以上に長かった。
手にした小瓶が震え、熱をおびてくる。割れるのではと恐怖を感じたが、手を離すことができない。やがて振動はとまり、熱も冷めて、静かで冷たい元の小瓶に戻った。中の光は先ほどよりも少し弱まっている。
 そして、志乃の憂鬱な気分は、きれいさっぱり無くなっていた。

 最初は信じていなかった。光ったり、震えたり、熱をおびたり。不思議な小瓶に驚き、一時的に気が紛れているだけだと。実際、翌朝にはいつもどおり憂鬱だった。だから、再び小瓶にため息を吹き込んだ。やはり、憂鬱はどこかへ消え去った。
 それからは、憂鬱から解放された日々を送った。
 別の人間に生まれ変わった気分だ。身体が軽い。ごはんがおいしい。頭の回転も良くなって仕事がはかどり、残業が減った。ときにはミスをして周囲に迷惑をかけることもあるが、そのことを引きずらなかった。「相川さん、最近変わったね」と、同僚からも好意的に受け止められた。

 しかし一週間もすると、小瓶を使い切ってしまった。ため息の途中で中が真っ暗になってしまったのだ。部屋の明かりにかざしてみても、まったく光がささない。怖くなって、すぐにふたを閉め、闇を塞いだ。
 サカキの連絡先は聞いていない。どうしようと不安に駆られながら家を出た。外は土砂降りの雨で、志乃の暗い気持ちにさらに拍車をかけた。
 会社の最寄り駅。うつむきがちに電車を降りる。水分を含んだ空気はいつもより重い。地上のものに雨があたる音、人の足音、車の走行音。雨の日は、外の世界のあらゆる音がいつもより大きく感じられて、志乃はそれだけで気が滅入ってしまう。晴れの日にはしない、湿気たにおいも苦手だった。
 ふと視線を感じて顔を上げると、ホームのベンチにサカキの姿があった。小走りで彼女のもとへ駆け寄る。
「サカキさん、あの……」
 ベンチの中央に座っていたサカキが場所を少し移動し、空いたスペースに手をかざして「どうぞ」というジェスチャーをしたので、隣に座らせてもらった。
「おはようございます。憂鬱の小瓶、いかがでしたか?」
「お、おはようございます。あの、小瓶をもう一つ欲しいんです。気持ちがすごく楽になりました」
「前回差し上げたのは無料サンプルなので、今回は同じ物をお買い上げいただく形になりますがよろしいですか?」
「……おいくらでしょうか?」
 おそるおそる尋ねた。高価な物であれば諦めるしかない。
「五百円です」
「五百円⁉ すいぶん安いですね。買います」
 志乃から五百円玉を受け取り、小瓶を手渡しながらサカキが説明を始める。
「お買い上げいただいた小瓶につきましては、使用済みのものをこちらで買い取ることもできます。買取価格は五百円です」
「でも、それだと儲けが出ないですよね?」
「お金を儲けることが私たちの目的ではありません」
 お金を儲けることが目的ではない商売などあるだろうか。商売ではなく、新手の宗教の勧誘かもしれない。でも、あの小瓶に不思議な力があるのは事実なのだ。
 釈然としないものを感じたが、始業時間がせまっていたこともあり、サカキに小瓶のお礼を言ってその場を後にした。 

 次にサカキに会ったのは、それから半年後のことだ。
 定時で仕事を切り上げ、駅へ向かって歩いた。空気が澄んで、夕焼けがとても綺麗だ。会社と駅の中間ぐらいの場所に公園がある。遊具はブランコと鉄棒だけで、あとは大きなイチョウの木があるだけの、こじんまりとした公園だ。
 サカキはその公園の真ん中あたりに立って、空を見上げていた。夕日を浴びて姿勢よく立つ姿は、とても綺麗だ。まるで、この世のものではないみたいに。
 サカキさん、と声をかけると彼女はゆっくり振り向いた。
「お久しぶりです。お元気そうですね」
「はい、おかげさまで」
 二人でベンチに座り、話をすることにした。
「あなたは、この世の人では、ないのですね」
 志乃の言葉にサカキは一瞬目を見開いたが、すぐに元の穏やかな表情へと戻った。
「どうして、分かったのですか?」
「最初から、なんとなく気づいていました」
 そう。最初から、予感はあった。
 初めて会った駅のトイレ。洗面台の鏡にサカキは映っていなかった。だから志乃は、突然真横に現れた彼女にひどく驚き、思わず声をあげてしまったのだ。
 次に会った駅のホーム。あの日は朝から大雨だった。それなのに彼女は傘を持っておらず、髪もスーツもカバンも足元も、すべてが綺麗すぎた。さらりとしていて、雨の気配がどこにもなかった。
 そして今。目の前にいるサカキには、影がない。夕日に照らされているにもかかわらず。志乃の足元に伸びている黒く長い影が、彼女の足元には無いのだ。陰影を持たぬがゆえに、全身むらなく夕日の色に染められて、その場にくっきりと浮かび上がって見える。あまりに綺麗すぎて、天使みたいだ。どこからともなく、花のような甘い香りが漂ってくる。
「お会いするのは、今日で最後になるかもしれませんね」サカキが、少し寂しそうに言った。
「私が、サカキさんの正体に気づいてしまったからですか?」
「違います。もう、必要ないのではありませんか?」
 小瓶のことだと、すぐに分かった。最近はほとんど使っていない。最初の小瓶は一週間で使い切ってしまったが、五百円で購入した二つ目は半年経ってもまだ少し余裕がある。有料だから瓶の容量自体が大きいのかとも思ったが、そうではないと気づいた。おそらく、志乃の憂鬱の量が減っているのだ。
 志乃はバッグから小瓶を取り出し、ふたをあけて息を吹き込んだ。瓶の中は、真夜中に明かりが消えたときのように、プツンと真っ暗になった。ふたをしめてサカキに差し出す。
「これ、買い取っていただけますか?」
「はい。もちろんです」
 サカキから五百円玉を受け取り、志乃はずっと気になっていたことを尋ねた。
「サカキさんのお仕事は、どんなものなのですか?」
 前に会った時に、お金を儲けることが目的ではないと言っていた。
「一言で説明するなら、気分の再配分、ですね」
「再配分ということは、瓶に詰めた私の憂鬱な気分が、誰か別の人に配分されるということでしょうか」
「そうです」
「でも、わざわざ憂鬱な気分を欲しがる人などいるでしょうか」
「欲しがる、といいますか、必要としている方はおられます」
「はぁ」
 憂鬱な気分が必要とされるシチュエーションを想像してみる。たとえば、ものすごく嫌いな奴がいたとする。それはもう殺してやりたいくらいに憎い奴だ。そいつに向かって、大量の「憂鬱」を噴霧する。するとそいつは、あまりの憂鬱さに耐えかねて自ら命を……。
「お預かりした気分から、特殊な方法によって、ある成分を抽出します。私は担当外なのであまり詳しくないのですが、その成分は鎮静剤のような効果を持つのだそうです」
「あぁ、なるほど」
 志乃のたくましい想像は、サカキの説明によってストップした。自分が生み出した憂鬱が、ネガティブな状態のまま使用されるわけではなさそうなので、少し安心もした。もう一つ気になっていることを聞いてみることにした。
「サカキさんは人間の姿をされていますけど、それは、こちらの世界で仕事をするための仮の姿なのですか?」
「生前の姿です」
「あ……つまり、亡くなられてから今のお仕事に」
「ええ」
「死んでからも、働かなくちゃいけないんですか。大変ですねえ」
「いえ。死後の労働に従事するのは、条件を満たす一部の人間だけです」
「条件?」
「はい。いくつかあるようです」
「ちなみに、サカキさんはどうして?」
 志乃の質問に、サカキは一瞬口をつぐんだ。
 甘い香りが鼻をくすぐる。この公園に入った時から、ずっと、ほのかに香っている。金木犀の香りに、少しだけ柑橘系の香りを足したような。懐かしさと新鮮さが同居しているような、不思議な香りだ。たしかめるように志乃が鼻から大きく息を吸い込んだところで、サカキが口を開いた。
「自殺をしました」
「えっ?」ふいをつかれた志乃は、吸い込んだままの香りを鼻の奥にとどめたまま、吐き出すことができない。
「私は自ら命を絶ちました。この仕事を与えられたのは、償いのためだと思っています」
「つぐない……」ゆっくり、少しずつ、息を吐き出す。甘さだけが、鼻の奥に残った。
「与えられた命を、粗末にしたことに対する償いです」
 理由はわからないけれど、サカキはきっと、生きていることがどうしようもなく苦しくなってしまったのだ。だから、自分で人生の幕引きをした。それは、悪いことだろうか。償わなければいけない、罪だろうか。
「あの、もしかして、私に声をかけたのは、自殺しそうに見えたからですか?」
「……どうでしょう。ただ、毎日、とてもお辛そうに見えました」
「そうですか」
 志乃は、自殺をしようと思ったことはない。本当だ。
小さな頃から、憂鬱であることが普通の状態だった。いつも胸のあたりが重く、ジンジンと疼いていた。みんなそうなのだと思っていた。生きている状態というのは、そういうものなのだと思っていた。
 でも、小学校の高学年くらいになると、それは違うということに気づいた。自分は、他の子どもとくらべて神経が過敏なのだということが分かってきた。自分の感じ方と、他人の感じ方は違う。その当たり前の事実に、ひどく打ちのめされた。感じ方が違うということは、分かり合えないということだ。自分はひとりぼっちなのだと、生まれて初めて「孤独」というものを体感した。
「余計なお世話だったかもしれませんが、声をかけずにはいられませんでした」
「余計なお世話だなんて、とんでもない。サカキさんには感謝しています。サカキさんに出会えて、本当に良かったです」
「そう言っていただけると、光栄です」
「私、諦めていました。自分は変わらない、変われない、って」
 志乃は自殺を考えたことはなかったが、少しだけ、生きることに疲れていた。自分はまだ若く、先の人生は長い。まだゴールは見えない。憂鬱を抱えたままの状態で、果たして歩き続けることができるのか、ゴールできるのか、自信がなかった。
「でも、あなたは変わった」
「はい。おかげさまで」
 サカキは、静かに微笑んでいる。彼女はもう、生きていない。でも、いま志乃の目の前にいて、微笑んでいる。悲しいという感情とは少し違う、なにかもっと別の感情がこみあげてきて、いつのまにか志乃は泣いていた。
「志乃さん」
「はい」
「私も、志乃さんに出会えて良かったです」
 サカキに名前を呼ばれるのは初めてだと、ぼんやりする頭で志乃は思った。ぼんやりするのは、泣いたせいだろうか。さきほどから甘い香りが強くなっていることも気になる。
「サカキさん。この、甘い香りは、なんでしょうか」
「これですね」サカキの手には、憂鬱の小瓶とは違う、小さな筒状の容器が握られている。全体の長さの半分くらいが蓋になっていて、黒い。もう半分のガラス部分はオレンジがかった色味だ。
「香水、ですか?」
「ええ。これも、人間の気分から抽出した成分を使用しているものです。試してみますか?」そう言いながら、サカキは黒い蓋をはずした。アトマイザーというのだろうか、スプレータイプの容器らしい。
 サカキは志乃の手を取り、手首に香水を軽く一吹きした。強烈な香りが漂ったが、不思議とむせたり気分が悪くなったりはしない。ただ、頭がぼんやりとして、あまり現実味がなかった。ぼやけた頭で志乃は尋ねた。
「あの、サカキさん。この香水にも、なにか効果があるんですか? 先ほどおっしゃっていた、鎮静効果、とか」
「はい。鎮静ではなく、記憶の消去です」

 志乃は公園のベンチで目覚めた。横になって眠ってしまったらしい。ゆっくりと起き上がり、目の前の景色を見た。
 仕事帰りにこの公園に立ち寄ったことは、ぼんやりと記憶している。誰かと一緒だったような気がするのだが、思い出せない。まだ日が沈み切っていないので、さほど時間は経過していないはずだ。こんなところで眠ってしまうなんて、疲れているのだろうか。でもそれにしては身体が軽い。心も、軽い。
 足元には、真っ黒な影が伸びている。
 志乃はひとりベンチに座ったまま、日が沈むまでずっと、その影を見つめ続けた。
                                (了)

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