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第二回 魯迅『吶喊』まとめ

「インテリゲンチャのための読書クラブ」、第二回を開催しました。
魯迅『吶喊』。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42933_31543.html

今回は、前回に比べてかなり活発な意見交換ができました!
wikiに魯迅の生涯についてわかりやすくまとめられているので、
あわせてご参照いただければ!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E8%BF%85

魯迅の思想の変遷でたどる『吶喊』

『吶喊』は短いながらも様々な見方ができるエッセーです。
ここでは「魯迅が小説を書くまでの思想の変遷」を軸に、
あらすじをたどっていきます。

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(1)子どもの頃:無邪気に儒学と漢方を信じていた
貧しい家庭に生まれた魯迅。病気の父のために幼い魯迅は質屋に通い、漢方医にいわれるまま、高い薬を買って必死で看病します。しかし、父は甲斐なく亡くなります。

(2)洋学を学びはじめる:医学で中国を変えようと志す
貧しい魯迅は王道の出世ルートを諦めます。科挙に合格して国の中枢に入るのではなく、ニッチな「洋学」を学ぶという戦略でした。洋学を通して魯迅は中国医学のイカサマに気づきます。また、日本の近代化は医学の西洋化がきっかけだったらしいと気づきます。中国を近代化するためにはフィジカルから革新を起こそうと、魯迅は医者を志すのです。

(3)仙台にて:医学→文学への転向
日本に留学しているとき、魯迅は衝撃的な映像を見ます。中国人が日本人に処刑されようというのに、周りの中国人たちは、ぼやっとしているか、にやにやしているか。
「彼らは見た目はマッチョで健康そうだ。だが、精神がダメダメだったら、健康でも長生きしても意味ないわ」
そう感じた魯迅は文学によって自国民の「精神を改造する」ために、文学の道を志すのです。

(4)挫折:おれは特別な人間ではなかった
しかし、文学者としての魯迅は好スタートを切ったわけではありません。仲間と同人誌を作るものの、何人か逃げるわ売れないわで心が折れてしまいます。彼自身、貧しい境遇ながら「おれはできる」という自負もあったからここまでやってこれたのでしょう。「おれは英雄ではない」。挫折した魯迅は隠居のような生活をはじめてしまいます。

(5)魯迅は希望に向かって叫びはじめる:使命を認識する
無気力な生活を送る魯迅に昔の友人が訪れます。

「また文学をやらないか。お前才能あるしさ」と訪問者。
「やめとくよ。この国はもう終わってる」いじける魯迅。
「今度こそ時代が来たんだ。仲間も何人か立ち上がっている。こっから先はお前がいないと先に進めないんだ」しつこい友人。

魯迅は「<書く意味がない>という証明はできないから結局小説を書いてみた」ツンツンと述べていますが、内心は相当嬉しかったのではと想像します。かつては孤独を感じた、でも今はおれを認めてくれる仲間がいる、と。
「文学による精神の改造」という目的自体は「同人誌出版の失敗」という挫折の前と変化しているわけではありません。
でもモチベーションは大きく変わりました。「認められたい」エゴは引っ込んで魯迅そのものは透明になり、大将の命令で声を張り上げるだけの役割だ、という認識に変わっています。その「大将・命令者」とはだれを指すのでしょうか?これは「時代の要請」と呼ぶべきものです。「はるかに大きいものに命じられている」これは使命感です。父の死以来の「中国を変えたい」と願った魯迅は、まず手段(医学→文学)を変え、次に世界に対する己自身の認識(英雄→吶喊の使徒)を変え、このようにいくつもの思想の転換を迎えたのでした。

読書クラブでのテーマ①:思想の転換って人間的にOK?

ここからが本日話し合った内容です。ひとつめのテーマは「思想の転換はアリかナシか」。
個人的には仕事や旅行とかでも「状況が変われば戦略も変わって当たり前だろう」と堂々たる「変節推し」だったのです。そもそも「夢は語り続ければ必ず叶う」「有言実行」は苦手ワードです。「言質とられたら心中しろってことなのか?」と。下手なことは言えない社会になりかねんぞ、と。

そんな「変節漢」に対し、ユニークなコメント。「クーラー買っても3年保証でしょ。あんまコロコロ意見変えるのも周りに対する配慮ないんじゃない?」うーん、たしかに社会はそういう信頼システムで動いてる部分もあるよなあ、あんま露悪的に思想を変えるのも、周りの迷惑だし、当人にとっても結局ソンではあるまいか。というのが当読書クラブの見解です。まあ、思想とかイデオロギーとかあんま日常会話で出しすぎると引かれるしね(笑)←「インテリゲンチャのための読書クラブ」では「変節」バリバリOK、めんそーれですが!

読書クラブでのテーマ②:純粋な芸術ってなんぞや?

魯迅は「おれの小説は芸術じゃないのでは」と謙遜(?)してます。してみると、芸術とは何なのでありましょう。魯迅の意味するところとしては「精神を変えるだとか若者に孤独を味あわせたくないから小説を書く」という姿勢が芸術的でないそうなのです。つまり「芸術の先に目的が」あり、「芸術そのものが目的」ではないからということなのでしょう。

では芸術そのものが目的、とはどういう状況でしょうか?本日は中学生も参加してくれていたので、クラスに譬え話を持っていきながら、ケンケンガクガクいたしました。
ここにひとつの学級があります。学級崩壊といえないまでも、生徒たちは動物園のごとく本能のままに行動しております。風紀は地に堕ち、結果としてゴミは錯乱、部活動は軒並み活動停止、男子生徒は生傷が絶えず、偏差値は測定不能、気のせいか教室には酒の匂いが漂っています。

Aくんという生徒は絵がうまい。「レンブラントの再来」と美術教師が称えるほどの腕前。彼はクラスを再生させるべく、立ち上がります。委員長に立候補し、識字率の低いクラスで、誰にでも理解できるよう、イラストを交えたクラス運営のルールを徹底させます。同時に冊子を配布します。これは一種のプロパガンダで、「他人に迷惑をかける人間の行く末」を描いた漫画本です。旧約聖書のようでもあり、ベネ●セのダイレクトメールについてくるマンガを思い浮かべるとよいでしょう。Aくんは自分の絵画の才能を生かして、(精神に訴えかける種類の)恐怖政治を行い、みごとクラスを立ち直らせたのでした。
一方、Bくん。彼は美術教師には評価されないまでも、たいへんユニークな絵を描きます。じっさい、彼は自身の絵に評価を求めていません。授業も聞かず、Aくんが辣腕を揮うのを尻目に、ニヤニヤしながらノートに怪しげな絵を描き続けます。彼はそれで満足なのです。

Aくんのモデルは魯迅、Bくんはゴッホといったところでしょうか。
たしかに、ゴッホのほうが「より純粋な芸術家」というイメージかもしれません。しかし、一方で魯迅がいかに「芸術の先の目的」を持っていようと、彼の作品の価値は減じるものではないと考えます。魯迅もまた、まごうことなき芸術家である、と。

クラスでの譬え話だったので、魯迅は「陽キャ」、ゴッホは「陰キャ」みたいになりましたが、たしかに彼らの生涯を見ると、そんな一面もあるかもしれない...です。

以上です。
次回は改めて読書の効用を考えてみましょう!
西田幾多郎『読書』です!お愉しみに!

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