第二十八回 岸田國士『既往文化と新文化』

芸術と政治の関係はどうあるべきか?

かつて魯迅は『吶喊』で、「時代の号令を受けて」小説を書き始めた
自身のルーツを振り返りました。

こんな風に説明すると、芸術に対するわたしのこの小説の距離の遠さがよくわかる。

「中国を変えなくてはならない」
使命感に突き動かされた魯迅の小説は疑いようもなく政治的です。
魯迅本人はそれを芸術としては「不純」と捉えています。

岸田國士の意見はよりアグレッシブです。
文化人や芸術家は<政治的に>健全な文化を創造しないといけない、と
説きます。

ではその健全な文化とはどのようなものか?
ざっくりまとめると以下の3つになりそうです。

(1)中央集中というより分散
(2)物質的ではなく精神的
(3)いたずらに複雑難解ではなく普遍的な

(1)中央集中というより分散

このテキストは岸田國士が大政翼賛会の文化部長に就任(1940〜)してからの
談話がもとになっているようです。
ちなみに就任後2年で退任しており、そこのところの経緯は詳しくないのですが、
この談話における理想と、
大政翼賛会の現実に生まれたギャップで揉めたのでは?と推察します。

欲しがりません勝つまでは
に始まる戦時中のスローガンは、
まさに中央集権的というか全体主義の極みですが、
1941年当時の岸田文化部長は
「地方に固有の文化があるのがよい」とか
「自分の興味ある研究をつきつめるのが良い教師だ」とか
「仕事はいちいち監視せずその人に任せてしまえ」だとか。
個々人が「思考」することを大いに推奨しています。

(2)物質的ではなく精神的

今まで、偉い人間といふのは、なんとなく勲章を沢山つけた人とか、自動車を乗り廻す人とかいふ風に考へられがちだつた。

こういう当時の拝金主義をダメ出しし、

一勤労者が公のために、目立たないがこれだけの仕事をしてゐるといふことを少くとも知つてゐる人間が敬意を表して

職に貴賤はない、と説きます。
ここはかなり社会主義/共産主義に近い主張ですね。

(3)いたずらに複雑難解ではなく普遍的な

文化人が内輪でワイワイやってるようなペダンチックな内容じゃ、
一般人はそっぽを向いてしまう。
ある程度、伝え方を工夫すべきである、と説きます。

しかし、一方で
「わかりやすい」ことが「普遍的」なのではない、
と「甘え」も許さない姿勢です。

普遍性をもつといふことは、俗衆とか愚衆とか云はれる種類の大衆に受容れられることぢやない。さういふ大衆は、本当にものを読んでわかるんでなくて、知つてゐることを云はれるのを一番楽しむんだ。

やっぱりマスで受けるものって直感的で、わかりやすいんだよなーと。
解説とかの理解たすける系の情報もニーズあるんだろなと推察します。

Amazonプライムビデオも個人的に嫌なのが、
レビューの星の数が見えちゃうところ。
「ああ、おれ今から星4つのまあまあおもしろい映画見るのね」
と体験の上限と下限の線が引かれるのでドキドキが減退します。
たまにはクソ映画見て後悔するのもいいんですよ。

なんの話でしたっけ。
「愚衆」の対義語が「インテリゲンチャ」だとするならば。
レビューに頼らず、自身を投げ出す「自己破壊の快感」を
知るのが手っ取り早いのかもしれません。
たぶんクソ映画を見るたびに人は多くを学びとります。
一見、人生をただ消費したようにその時は思えても。

そこにひとさじの怒りはあるか


では芸術が政治的であるか否か?
の判定についてはどうでしょう。
つきつめると、そこに「怒り」があるか、
ではないでしょうか。

「怒り」はその作品のなかで
政治的主張を放ちます。
そういう意味ではほとんどの作品が、
それどころか人間の多くの行動が政治的だ、
といってもいいのかもしれません。
(じっさい、そのような政治学の主張もあります)

むしろ政治的でないものをあげるならば、
ちょうど先日読んだ『堀辰雄集』。
1930年代のきな臭い時代にも関わらず、
ただひたすら「美」を追求する作風です。
戦争の気配はありません。

解説においても(名文です)、
堀辰雄は俳人のように、
うまく世間から距離を置く工夫をしていた、
とありました。
たしかに堀辰雄にも芭蕉にも「怒り」は感じられません。

店主に温泉での交流のエピソードを聞きました。
「裸の付き合い」は浮世のあれこれを取っ払って、
ふだん肩を強張らせていた「怒り」も忘れさせて、
「俳味」をさずけてくれるのかもしれません。

以上です。
次回はゆるめに。人を食ったような佐藤春夫『好き友』で。



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