第二十九回 佐藤春夫『好き友』
「すき友」って読むと、今っぽい感じですが(「ずっ友」みたいな、古いか)、
「よき友」です。
個人的に佐藤春夫は読んだことなかったのですが、
丸谷才一の『文章読本』の第二章「名文を読め」にて
これまで十回以上は読んでゐると思ふが、わたしはこの機会に読み返して、今度もまたすつかりいい気持になつた。
と絶賛しています。
さらにこれがなぜ名文なのか?その理由を大きく3つあげています。
(1)論理的でわかりやすい文章である
→構造は単純なようで込み入っているにも関わらず整然としている
(2)イメージがくっきり浮かぶ文章である
→しかも無駄な描写がない
(3)言葉の選び方が適切である
→気品と読みやすさの絶妙なバランス感覚
言葉遣いがクラシックですが、「読みやすかった」という意見が多く聞かれました。
文才にものを言わせた悪ふざけ(?)
のっけから「友達はいない」と書きますが、
青空文庫をちらっと覗くだけで、豪華な交友関係あるじゃないですか...
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1763.html
俗説によると、当時谷崎潤一郎との友情が気まずい感じになったので、
作中の学生時代のシチュエーション同様、
「谷崎のほうが俺の名前書いてなかったらヤダな」
と、このように茶を濁したのではと言われています。
それはそれとして
「子どもにするような質問してくるんじゃないよ」
「余計なお世話だ」
という思いもあったのではないか、と推察されます。
まあ「論点のすり替え」なのですけど、
「内容がおもしろければ正義」という、
腕っぷしも痛快といえば痛快。
「答えづらい質問されたときのハウツー」として、
安易に真似するのは危険な高等テクニックですね。
友情とはなにか?
かなり時間をかけて(1時間半くらい)議論した内容ですが、
結論としては、
(1)友情は「感情」によって判定される
→個々の基準がある
(2)恋愛とちがって、双方の合意は必要ないのではないか
→「うちら友達だよね」と確認しなくても、
一方的に友達、と名乗ることもアリっちゃアリ
※恋愛は合意がないと色々やばいプロセスが...
(1)については、結局感情論なので、そのひとが「友達」と言っちゃえば、
論理的な反駁はできないのかな、と。
参加者のひとりに教えてもらいましたが、
友情を感じる度合いは一緒にいた時間に比例するとか。
そういえば営業のテクニックでも、接触回数を増やせば信頼関係が芽生える、というのがありました。
これらも人間関係は「感情」によって大きく左右されるという証左ではないでしょうか。
ちなみにわたし自身の友人判定としては、
「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。」
つまりその人物から「今度そっちに行くから空港まで迎えに来て!」
と言われて楽しみにするのか、めんどくせえ、と思うのか、
という基準です。空港まで往復1時間で、
しかも3日くらい行動をともにする、
となると、結構シビアでリアルな指標かと思います。笑
(2)については友情が「独占されるものではない」という前提にたってます。作中のシチュエーションのように「席に限りがある」場合は気まずいですし、「第一の親友」などはどちらかというと恋愛感情なのでは?と思います。
友達いないアピールは何なのか?
一方、巷には「友達いない」アピールをするひともいるようで。
はたから見ると決して孤立しているように見えないにもかかわらず。
「悲劇のヒロイン/ヒーロー感を演出」、「内面を見せたくない」、「傲慢さ」など、いろいろな意見がでましたが、
根本的原因として、過剰な自意識が見え隠れします。
「友情」という定義が曖昧というか各々のさじ加減次第な事柄に関して、
あまり頑なにならないのが大人、なのかもしれません。
男女の友情は成立するのか?
この議題も盛り上がりましたが、今回うまくまとめられませんでした。
また別の機会にでも。
以上です。
今回は参加者のみなさんが「現象学」的なアプローチ、
個々人の経験や内面を分析されての、深い議論でした。
わたし自身、この回だけでメタな思考が鍛えられた感触です。
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