『グリーンブック』と『レイトオータム』、異なるキャラクター、道連れの行方

※話は大いに脱線。しかし少なからず、そして唐突にネタバレを含んでおります。

スウィート・サレンダー

今年最高の一本は『グリーンブック』で間違いない。
正直3本くらいしか映画館で見ていないにも関わらずこう断言できるのは、
この映画が「映画の粋」「ロードムービーの醍醐味」を詰め込んだ、
完璧な一本だからです。この完成度は数十年にひとつ、くらいではないでしょうか。

小倉の昭和館にてふらっと鑑賞したのですが、あまり期待値は高くありませんでした。
ポスターがね、もうコテコテの「あ〜このおっちゃんふたりが最悪の出会いから、いがみあいつつアレして、コレして結局泣かせに来るヤツね」
要するに定期的にアカデミー賞レースに人類皆兄弟的に滑りこんでくる、よく見るブラザー映画だと高を括っていたわけです。エンドクレジットでアクビしつつ「泣かなかったからオレの勝ちだからね」と無益に涙は流さん精神で頑張るアレ。「水分節約系ムービー」の一派かと。

騙されました。いや、当初の予想通りの「アレして、コレ」という大枠のプロット自体はまさにそのまんまのものを出してくる。しかし、おかしい泣かされる。嵌められた。ポスターからして罠であった。オレのような自称・映画通の鼻持ちならんヤツをおびき寄せ、しかし捕食はせず、キャッチアンドリリース。「もう少し素直に映画を楽しめヨ」と映画の神サマに叱られほだされ破門を解かれ心身ともに毛一本はえてはおらぬ赤子になって地上に還された心地。敗北です。アルマゲドンです。しかしここまで完膚なきまでにやられちまうと心地よさが残るのみです。sweet surrender とはこのことでしょうか。
誰にでもオススメできる傑作ですが、上級者(自称含む)にこそ見て欲しい一本です。

珍道中の行方

『グリーンブック』の素敵なポイントを逐一述べようという試みは、
たいへん長くなりますし、他にいくらでも語られているでしょう。
そこで異なるキャラクターが一緒に旅をする「異種ロードムービー」の魅力について一考してみます。
これは映画に限らず古くから使用されまくっている王道中の王道です。ぱっと思いつくのは『スターウォーズ』シリーズのC3POとR2D2ですかね。
もちろん似たもの同士が道連れの「同種ロードムービー」もあるにはありますが、異種モノのほうが話がつくりやすそうです。
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①キャラクター同士の衝突と和解のプロセスは鉄板。それだけでドラマになる
②第三者(観客や読者)が置いてきぼりにならず、感情移入しやすい
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上記2点が大きなポイントだと考えます。
物語の冒頭においては、キャラクター同士の考えや行動が互いに理解できず「ツッコミ」の応酬が生まれます。キャラクター性が極端であればあるほど、キャラクター同士の距離が遠ければ遠いほど「コメディ度」は高まるし、カタルシスも大きくなりやすい。つまり和解(共感)のシーンこそが最も泣ける場所として設定してあるケースが多いのです。(こう進めていくとC3POとR2-D2のエピソードはもっと盛り上げられたのでは、と考えてしまいます...)。

こんな「珍道中」を考察すると、一本の映画が記憶の縁に浮かび上がります。
『レイトオータム』。
『ラストコーション』のタン・ウェイが見れる貴重な映画です。タン・ウェイが出てますが韓国映画です。たぶん中国映画界から締め出されていた時期なのかな。
と、この映画を見た個人的動機は上記のようにタンウェイです。当代随一の女優です。この映画のなかのタン・ウェイの魅力について語るだけで十数枚を費やすと危惧されるので「英語のセリフがハスキーでキリッとしてて素敵」と述べるに留めます。とりあえず今のところは。

このれっきとした恋愛映画に「珍道中」という言葉を用いるのは適切か否か。少なくとも鑑賞直後の余韻に浸るわたし自身にそんなことを言うとぶん殴られるでしょうね。しかし、上記の「異種ロードムービー」のプロットはばっちり抑えているのです。だから重いテーマのなかにも「おかしみ」がある。それでいてロマンチックさは損なわれない。『プリティ・ウーマン』にも当てはまる構図なのです。

それぞれの対岸

では『グリーンブック』と『レイトオータム』それぞれのキャラクターとプロットを分解してみます。

【キャラクターについて】
①『グリーンブック』の「おっさんふたり」
  「教養」と「粗野」、「黒人」と「白人」
(※他にも対照はあります。ストーリーに関わる重要な伏線はあえて外してみました)


②『レイトオータム』の「女と男」
  人生の「重さ」と「軽さ」、「不自由」と「自由」、「中国人」と「韓国人」

【プロットについて】
 和解と共感の物語の重要な転換点。それぞれのベストシーンは
①『グリーンブック』の「ケンタッキーフライドチキン」
②『レイトオータム』の「遊園地でのアテレコ」
 ※それぞれ見れば共感してもらえる、はず!

邪推

『レイトオータム』は間違いなく上級者(自称含む)向けの映画でしょう。
王道からあえて「外し」にくることしばしば。『グリーンブック』はその「外し」が「ハモリ」となってひたすらに心地よいのですが、『レイトオータム』は意図的に不協和音をぶち込んできます。一筋縄ではいかせない、という強い意思。映画の神サマに洗礼を受けたキレイな心も、こうした上物を出されたら、またムラムラと劣情を催してしまいます。すなわち「映画をナナメに見たい」という欲望を刺激されるのです。
わたしの邪推、下世話は『レイトオータム』に隠されたプロットを嗅ぎつけました。ほとんど妄想なのですが。
迷妄は監督をwikiで検索したところから始まります。「ほかにどんな映画を撮っているんだろう」という好意的かつ無邪気な好奇心によるものです。
ところが!カントク、なんとタン・ウェイと結婚している!
たしかに映画のなかのタン・ウェイを追う視点(カメラ)には執拗なものを感じました(個人的なベストショットはコーヒー持って走り回るところ)。けれどもこの「恋」の成果は「魅力的なタン・ウェイ」を写すことに終わっていないと思えるのです。

物語の終盤、とても怖い人物が現れます。伏線は張ってあったにせよ、唐突な出現。しかし、取ってつけたような印象はない。単なる舞台装置という雰囲気ではない。妙なリアリティがあるのです。ストーリーではなく、絵としての説得力。
そもそもなぜ女は不幸な過去を抱えたか。
物語の根底には「男の嫉妬」があることを、映画全体を「男の醜さ」が支配していることに思い当たるのです。
この嫉妬と醜さの手触り、リアリティはどうしたことでしょう。誰のものなのでしょう。これは監督自身のものなのではないか、というのがわたしの見解です。
映画監督という地位、美しい恋人。彼が何を恐れるのか。恋敵。いつか美しい恋人(妻)を奪っていくような男。女にとって理想的な。その男は言葉を介さずに女を理解する。男女のあいだの大いなる神秘をやすやすと超えていく。その「仮想敵」が映画における主人公(男)の本質なのではないでしょうか。
この『レイトオータム』にも映画の神サマは宿っているように思えます。それは制作者、演者の才気と努力に対してはもちろん、ひとりの男の「弱さ」と「醜さ」を惜しげもなく晒しだし、芸術に昇華された奇跡への報酬に思えるのです。


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