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critique  古谷利裕

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〔アニメ評〕反復という呪い、永遠という呪い、キャラクターという呪い/新・旧「エヴァ」について

〔アニメ評〕反復という呪い、永遠という呪い、キャラクターという呪い/新・旧「エヴァ」について

※このテキストは、2009年「エヴァ破」公開時に、ある雑誌の「エヴァンゲリオン」特集のために書かれたのですが、事情により特集そのものがなくなってしまったため未発表となったものです。その後、ブログ「偽日記」にて、2009年10月01日から3日にかけて、三回に分けて掲載しました。

古谷利裕

キャラクターは歳を取らない

 アニメのキャラクターは歳をとらない。のび太もカツオもまる子も、永遠に小学生だ

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〔美術評〕フィリップス・コレクション展/三菱一号館美術館

〔美術評〕フィリップス・コレクション展/三菱一号館美術館

古谷利裕

※以下は、2018年10月17日~2019年2月11日まで、三菱一号館美術館で行われた「フィリップス・コレクション展」のレビューです。

 
 派手さはないが、質の高い作品が並ぶ。十九世紀から二十世紀半ばにかけ、ヨーロッパという土壌で育まれた近代美術のエッセンスが、作品それぞれが固有の花である小さな花壇の連なりによって体感できるようにしつらえられた庭のような展示だ。これらの作品のほとん

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〔劇評〕パンとパン屑(全体を想定しない全体)について / 『うららかとルポルタージュ』(Dr. Holiday Laboratory)

〔劇評〕パンとパン屑(全体を想定しない全体)について / 『うららかとルポルタージュ』(Dr. Holiday Laboratory)

古谷利裕

*以下は、2021年11月24日~28日に、東京のBUoYで行われた、Dr. Holiday Laboratory旗揚げ公演「うららかとルポルタージュ」のレビューです。

初出「うららかとルポルタージュ」記録集

  はじまってすぐ、この上演が、たかだか一度きり上演に立ち会う一観客に全体像を把握できるはずないだろうという姿勢でつくられているとわかったので、「重要なところを見逃してはなら

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〔書評〕子供たちの産まれる場所 / 『一一一一一』(福永信)

〔書評〕子供たちの産まれる場所 / 『一一一一一』(福永信)

古谷利裕

 「二」からはじまる。二人の人物がいる。《二つに分かれ》た道を前に《二の足を踏》む誰かに、別の誰かが声をかけた。《どちらか一方を選ぶ》ことが出来ず《一歩たりとも》前進できなくなっているのでは、と。つまり「二」の次に「一」がくる。その後しばらく、「二」は完全に姿を消すわけではないがやや後退し、「一」が圧倒的に前景化する。「刻一刻」「一時停止」「一期一会」等々。そして二〇頁まで進んではじめ

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〔書評〕「わたし」たち/『星よりひそかに』(柴崎友香)

〔書評〕「わたし」たち/『星よりひそかに』(柴崎友香)

古谷利裕

1.「わたし」たち

 「わたし」たち、について書かれた小説だと読める。「わたしたち」ではなく、「わたし」たち、である。「わたし」たちは、みんな「わたし」であり、それぞれ個別の「わたし」である。

 小説の登場人物である「わたし」は読者である「わたし」とは違う。ではなぜ、わたしでない「わたし」を内側からわたしとして語る(生きる)一人称の小説を読者はすんなり受け入れられるのか。もしそれが

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〔書評〕「そこ」にいる「わたし」/『わたしがいなかった街で』(柴崎友香)

〔書評〕「そこ」にいる「わたし」/『わたしがいなかった街で』(柴崎友香)

古谷利裕

 アメリカ大陸発見から数年後、スペイン人たちは原住民にも自分たちと同じ「魂」があるのかを調べるために調査団を送った。一方原住民たちは、スペイン人が自分たちと同じ「身体」をもつのかどうか調べるため、彼らを溺れさせて死体の腐敗を確かめた。西洋人にとって身体(物理、自然)の共通性は自明であり、一方、原住民にとって「魂」の共通性は自明であった。原住民たちは、人間たちも動物も精霊も、すべての存在

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〔評論〕わたし・小説・フィクション/『ビリジアン』(柴崎友香)と、いくつかの「わたし」たち

〔評論〕わたし・小説・フィクション/『ビリジアン』(柴崎友香)と、いくつかの「わたし」たち

古谷利裕

1.話者と登場人物

 一人称の視点を用いて書かれたとしても、話者と登場人物との間にズレが生じることは、多少なりとも小説という形式に自覚的である人なら知っている。極めて常識的な一人称視点の小説において、語る「わたし」は、語られるわたしよりも時間的に後に位置することになるだろう。その時わたしは深い緑色の水面を見ていた、と語る「わたし」は、水面を見ているわたしより未来に位置していて、水面を

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〔美術評〕「動植綵絵」(伊藤若冲)を観る複数の時間

〔美術評〕「動植綵絵」(伊藤若冲)を観る複数の時間

古谷利裕

色彩の過剰な表現性

 踏切の警報機の音がして、赤いランプが点滅し、遮断機が下りはじめる。偶然だが、ランプの点滅に同調したかのように、まっすぐ伸びる道の手前からずっと先まで、見える限りの信号がすべて赤に変わった。そのとたんに、目の前にある風景が、赤いものの散らばりとして、新たに編成し直される。赤ランプと赤信号だけでなく、道行く人のもつ鞄の赤、商店の看板やのぼりの赤、消火栓の赤、自動車の

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〔エッセイ〕記憶と動き、色彩と線描

〔エッセイ〕記憶と動き、色彩と線描

古谷利裕

ドローイングを描く意識

 ドローイングを描くのは、それが、言葉には出来ず、感覚としてもはっきりとは意識化出来ないものを保存し、その反復を可能にしてくれるからだ。それが把握するのは、手の動きであり、手の逡巡であり、手を動かすことによって掴もうとする空間の感触であり、それによって掴まえたものであり、掴まえ損ねたものでもある。

 それは、掴もうとしている空間のあり様の写しであるのと同時に

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〔書評〕媒介が思考し、関係が対話する/『ウエストウイング』津村記久子

〔書評〕媒介が思考し、関係が対話する/『ウエストウイング』津村記久子

古谷利裕

 カーナビや携帯電話に利用されるGPSによる位置測定には、地上二万メートルにある複数のGPS衛星に搭載された原子時計との時間の照合が必要だという。だが衛星は秒速四キロメートルを超える高速で軌道上を移動しているため、特殊相対性理論により地上に比べて時間が遅く進む。ややこしいことに、高度二万メートルにある衛星は重力の影響が地上よりも少ないため、今度は一般相対性理論によって地上よりも時間がは

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〔書評〕関係のなかで関係が考える/『とにかくうちに帰ります』津村記久子

〔書評〕関係のなかで関係が考える/『とにかくうちに帰ります』津村記久子

古谷利裕

 「風景が私のなかで考える」、正確に引用すれば《風景は、私のなかで反射し、人間的になり、自らを思考する》。これはガスケによって書きとめられたセザンヌの言葉だ(『セザンヌ』ガスケ)。私が考えるのではなく、私のなかへと反射された風景そのものが、自らを思考する。思考するのは私ではなく風景であり、私は、風景の思考を反射する感光板であり、私のメチエはその翻訳である。セザンヌはそう言っている。

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〔美術評〕パウル・クレー「おわらないアトリエ」/東京国立近代美術館

〔美術評〕パウル・クレー「おわらないアトリエ」/東京国立近代美術館

古谷利裕

*以下は、2011年5月31日~7月31日に、東京国立近代美術館で行われた、「パウル・クレー/おわらないアトリエ」」展のレビューです。

 
 名前は広く知られているにもかかわらず、クレーには不思議な掴みづらさがある。例えばゴッホやマティスであれば、他の誰とも違う独自の作風があり、誰も真似することの出来ない独自の達成がある。明確な美術史上の位置づけも可能だ。代表作と言える傑作があり、そ

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〔美術評〕「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」/東京国立近代美術館

〔美術評〕「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」/東京国立近代美術館

古谷利裕

*以下は、2012年2月10日~5月6日に、東京国立近代美術館で行われた、「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」展のレビューです。

 ジャクソン・ポロックは、戦後ニューヨークを中心に起こったアメリカの新しい絵画運動の代表的な画家であり、本展は生誕百年を記念して開催された日本初の大規模な展覧会である。彼は、ネイティブ・アメリカンの美術から強い精神的影響を受ける一方、ピカソやミロといっ

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〔美術評〕親しいもののよそよそしさと、未知のものの親しさ/福居伸宏「アステリズム」(小山登美夫ギャラリー)

〔美術評〕親しいもののよそよそしさと、未知のものの親しさ/福居伸宏「アステリズム」(小山登美夫ギャラリー)

古谷利裕

*以下は、2010年8月7日~9月4日に、小山登美夫ギャラリーで行われた福居伸宏「アステリズム」展のレビューです。

 
 身近にあって、よく知っているはずなのに、はじめて出会ったかのように目の前に現れてくるもの。逆に、知らないはずなのに、どこかで見たことがあるかのように現れるもの。親しいのによそよそしい、よそよそしいのに親しい。福居伸宏の撮る風景は、この二つの感覚が行き来する、その振

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