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おとぎ話が跳ねる経験とレトロ未来『ハレルヤ』(保坂和志)書評


古谷利裕

 最初の蛙は神に「あなたはわたしを跳びはねさせました」と言った、とG・K・チェスタトンは書いている。

 神は蛙を跳びはねるものとして創った。蛙はこの事実の不思議にびっくりして跳びはねた。ただ驚いただけでなく、喜びのあまり跳びはねたのだ、と(『正統とは何か』)。これが書かれているのは「おとぎの国の倫理学」という章で、そこには、おとぎ話でリンゴが金色なのは、リンゴが赤いのをはじめて発見した驚きを思い出させるためであり、川にブドウ酒が流れているのは、川に水が流れていることのみずみずしい感じを再発見させるためなのだ、とも書かれている。

 おとぎ話のなかで金のリンゴに出会った時、私たちは、まるで最初の蛙が「跳びはねる」という事実の不思議さに驚いて思わず跳びはねたその瞬間を思い出すようにして、リンゴの赤さに改めて驚くのだ、と。そしてその驚きは何度も繰り返される。子供が「もう一度」「もう一度」と同じ行為を執拗に繰り返すように。しかしこの驚きの再来(反復)は、必然や法則によるのではなく、そのつど例外として起こる奇跡でもある。起こらないこともあるにもかかわらず起こった、ことなのだ。精神とは、そのようにして忘れていた驚きを思い出す働きである、と。

 最初の蛙は、跳びはねることができるという事実そのものに驚き、その驚きによって喜びとともに跳びはねたのだ、というイメージには、こちらの内側の何かを揺さぶり、跳ねさせる力がある。最初の蛙が跳びはねた現場に居合わせたことなどないし、まして、蛙として内側からそれを経験したことなどないのに(そもそもそのような過去は存在せず、フィクションであるのに)、このイメージは私の内側を波立たせ、何かが跳ねる感覚を思い出させる。

 しかしここで「思い出す」という心の動きは、ただ過去という方向にのみ向かうものなのだろうか。「最初の蛙が跳びはねる」という、経験したこともない過去を思い出すことができるのならば、未だ経験していない未来を思い出すことも可能ではないか。本書に収録されている「十三夜のコインランドリー」には、帰省した実家の自分の部屋で本を読んでいる時に《いつか両親がいなくなったこの家で私はひとりで今と同じように本を読んでいるんだな》という感興を得る女性のエピソードが語られている。この時女性は、リンゴの赤さに触れるようにして未来に触れ、ある内的な波立ちを経験している。そして、この話を聞いた小説の話者も、そして読者も、それによって未来に触れる。女性が自身の未来に触れたというエピソードを通じて自らも未来に触れて波立つ。

 表題作「ハレルヤ」には、《花ちゃんは時に、私たちの気持ちを使って自分の気持ちをあらわすようなことをしていた》と書かれている。フィクションである「最初の蛙のジャンプ」が「私の記憶」であるかのように内部に作用して私を波立たせるように、おとぎ話的経験は非人称的に伝播する。そしてここには、おとぎ話のように猫が喋り出すかのような描写もある。

 「こことよそ」で話者は、過去(二十代の頃)の自分の明るさと暗さに触れている。若くあることそれ自体の圧倒的な明るさと、小説家志望でありながら未だ小説家ではないことによる屈折だ。しかし、未だ小説家ではないという暗さは、既に小説家であるしかない現在時の話者にとって、(ジュネにとってのフェダイーンの少年たちのように)それ自体が輝くような確定されない可能性の放射でもある。現在時にいる話者はそのような過去に触れる出来事を経験し、改めて驚き、跳びはね、喜んでいる。この小説を読むということは、読者が自らの過去ではないそれらの事柄をおとぎ話のように思い出して驚き喜ぶことだ。

 「こことよそ」の現在時の話者は、過去に触れているだけでなく、過去の自分が現在の自分と出会う場面を想定しもする。しかし可能性の放射としてある過去の自分は、未来(現在)の自分に触れても響くものがない。この非対称性は、現在時の話者が過去の自分の無数の可能性のうちの一つの姿でしかないことを示している。

 本書の最後には一九九九年に書かれた「生きる歓び」が、最初には二〇一八年に書かれた「ハレルヤ」が置かれている。前者は子猫の花ちゃんを拾う経緯の話で、後者は花ちゃんを看取る経緯の話だ。本書に織り込まれた時間差は花ちゃんの生きた時間とほぼ重なる。

 フランスの哲学者エリー・デューリングは「レトロ未来」という概念を提出している。難解な概念だが、乱暴に要約すれば、「未来」は実現されることを待機している出来事、私たちの前に広がる時間の領野といったものではなく、現在と並行して共存し、現在のなかで活動している潜在的なものとしてあるという考えだ。

 「現在」は、「過去からみた未来」と二重化されている。ならば現在は、過去から伸びた未来の無数の可能性がそのまま潜在的に共存している場だということになる。未来は前にあるのではなく、潜在的な並行世界として横にある。「こことよそ」の二十代の話者のもっていた放射する可能性は、話者が既に小説家となった(小説家であることが確定した)現在において消えてしまったのではなく、過去の時点から複数の可能性のまま進展していて、レトロ未来として、現在と並行し潜在的に共存しているということだ。

 過去の時点では(その過去の)現在と見分けのつかなかった「過去の未来(可能性)」から繋がって進展するものを、現在まで延長して「現在と共存する未来」において感じること。一九九九年の「生きる歓び」のなかの現在と共存していた未来から延びて、二〇一八年の「ハレルヤ」のなかの現在と共存する未来へと繋がる複数の諸経路を感じること。そのためにまず、「ハレルヤ」から遡行することで「生きる歓び」のなかに埋め込まれていた未来への幾つもの線を探り出すことが必要だろう。「ハレルヤ」から「生きる歓び」への遡行、また「生きる歓び」から「ハレルヤ」への投影と、対照し反映し合う未来の線のなかで花ちゃんが何度も跳びはねている。

 そして、過去から送られた未来の一つに触れるとき、各々の精神(パースペクティブ)もそのつど跳ねる。

初出 「群像」2018年11月号


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