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秋幸は(ほとんど)存在しない—「岬」(中上健次) について(1)

古谷利裕

1.語り手と登場人物との関係の歪み

0.はじめに

「岬」を読んでいて強く感じられるのは、秋幸という登場人物の徹底した受動性であろう。彼はあまりにも過保護であり、あらゆる事に関して人任せであり、自ら進んで能動的に行為を起こそうとすることがない。確かに、彼をとりまく関係はあまりに複雑であり、彼の住む土地(世間)はあまりに狭い。彼は、その複雑に絡み合う関係の濃度こそが自分自身を縛っていると感じているし、読者もそう感じる。しかし、たんにそうであるならば、多くの者が(そして中上健次の初期の登場人物が)そうしているように、その全てを捨てて、大阪にでも東京にでも出てゆけばよいはずだ。そこにはまったく別の空間と関係とが開かれている。秋幸の母の三番目の夫は、義理の息子のその程度のわがままを許すだけの経済力は充分あるはずだ。

そうであるにもかかわらずそれをしないのは、それが出来ない理由があるはずなのだ。彼は「その場所」に把捉されていて動くことが出来ないのだ。彼の能動性の欠如は、その場所から動けないことによって生じている。それは何故なのか。「岬」という小説は、秋幸の動け無さの理由を、彼がそこにがんじからめになってしまっているその有り様を、濃密な息苦しさとともに精密に描き出していると考える。本稿のとりあえずの目的は、その理由を説き明かしてゆくことにある。何故ならば、秋幸の能動性の欠如は、決して他人ごとではないからだ。中上健次の生んだ竹原秋幸という人物は、決して過去の歴史的一時期に結びつけられる存在ではないし、ある特殊な地域にだけ根拠をもつ人物でもない。むしろ彼はありふれていて、ある種の「男の子」のプロトタイプだとさえ言える。だから彼は私たちのきわめて近くにいる。この点も、次第に明らかにされるはずである。

「岬」の世界は基本的に双数的に分裂している。その分裂は徹底していて、律儀だとも図式的だとも言いたくなるほどである。それが本稿の出発点だ。そして、この双数的分裂の有り様を探ってゆくことこそが、主人公の秋幸を縛り、苛立たせ、その能動性を奪っている原因を探ることにつながるように思われる。まずこの前提から出発したい。

1.語り手と登場人物との一関係

未だ竹原という姓を持つには至らないが、この後、『枯木灘』『地の果て至上の時』と書き継がれる、中上健次の小説の特権的な登場人物である秋幸という名は、「岬」ではじめて、次のように登場する。

「酒はあかんのやよ」と、姉は、七輪の横に皿を置く。姉は菅さんにでなく、コップ一杯のビールで顔を赧らめ、大きな体をまるめ、熱い息を吐いている彼の顔を見つめ、教えるように、「酒飲むと、頭が悪りなる血筋やから、恐ろしくて、よう飲まんの。弟の秋幸が飲んでるのみても、心配になるん」と言った。べそをかくように姉は笑をつくる。

仕事の後で七輪を囲み酒を飲む人夫たちの接待をする親方の妻である《姉》に対して、人夫の《菅さん》が奥さんも一杯どうかと酒を勧める。《姉》は、《菅さん》の勧めを断る理由を述べるというより、夫の組の人夫の一員で一緒に酒を飲んでいる弟の秋幸をたしなめるように、《酒飲むと、頭が悪りなる血筋》だと言う。《姉》が口にする不吉なこの言葉は、後に《姉》自身へと還ってくることになるのだが、それはともかく、ここで、地の文の語りによって《顔を赧らめ、大きな体をまるめ、熱い息を吐いている》と描写される《彼》が、《姉》の口から《弟の秋幸》と名指されることで、「秋幸」という名をもつ存在として改めて規定し直される。しかしこの登場の仕方はひねりがくわえられている。というより、ある混乱が仕込まれている。これより前の小説の冒頭部分で、《彼》は《夜の、冷えた土のにおい》を思う者として次のように登場していた。

地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを思った。

この冒頭部分での《彼》は、ほとんど地の文の主語と一致していて、未分化であるように読める。冒頭の短い文の畳みかけで、地虫の声を《耳をそばだてて》聞き、それが耳鳴りのように《思えた》のは、この小説の語り手であるのか、それとも語り手から分離した《彼》と呼ばれる別の誰かであるのかははっきりしない。あるいは、自他未分化な音のひろがりのなかから、《彼》という呼び名によってある存在の萌芽がぼんやりと浮かびあがると言うべきか。

そして引用部分の後で段落が変えられ、《姉が、肉の入った大皿をもってきた》と書かれる。ここで、固有名でもなく、一般的な呼称(例えば「女が」等)でもない、「姉」という関係をあらわす呼称が使われることで、読者は少し混乱する。この女性が《姉》と呼ばれるということは、小説の語り手は超越的な視点ではなく、彼女を姉とする特定の関係のなかに、つまりこの語りによって語られる世界の中にいるということになってしまうではないか、と。

そこで再び、先に引用した文を読むと、そのおかしさがはっきりする。《姉は菅さんにでなく、コップ一杯のビールで顔を赧らめ、大きな体をまるめ、熱い息を吐いている彼の顔を見つめ、教えるように「(…)」と言った》。これでは、姉の視線を追うように《彼》の《大きな体》を見て、姉の語りを聞いている語り手と、姉によって弟として語られている《彼》=秋幸の二人が、別々に「この場」にいるように感じられてしまう。語り手は、姉の眼差しを追って秋幸の《顔を赧らめ、大きな体をまるめ、熱い息を吐いている》姿を、虚構の外の視点からではなく、その傍らで見ているかのようである。しかし、読み進んでゆけば、この場に彼女を《姉》とする人物は《弟の秋幸》と名指される《彼》一人しかいないことが分かる。

この部分を、通常は一人称の「わたし(ぼく、俺)」とされるべきところが「彼」と言い換えられているに過ぎない(三人称一視点)と言うこともできる。ここでは、秋幸は冒頭から「彼と呼ばれるわたし」という形の分裂を含んでいる。だが、たんに語る人物と語られる人物との分離であれば、一人称の語りにもあらかじめ埋め込まれているものだ。それは、自分が思い出している場面にも自分が存在している、というようなことだ。「わたし」が「彼」と呼ばれるのは、自分を語る時にもともと存在する「語るわたし」と「語られるわたし」との不可避の分離を意識的に明確化しているだけではないか。

しかしここで起きているのは、後に美恵という固有名が示される秋幸の姉である人物が、秋幸と同様に語り手からも《姉》と呼ばれてしまうことで、メタレベルにいる語り手と、語られる世界の内部に存在する《彼》との関係の安定が崩れてしまうという事態だ。もしここで《姉》が、語り手から例えば「彼の姉」と呼ばれていれば、この混乱は生じないだろう。しかし、語るわたし=語り手と、語られるわたし=《彼》という位相の異なる二つの存在が、一人の同一の人物を《姉》として等距離に置いてしまう。姉という近親者の、その存在のあらわれの「近さ」が、語り手に、語られる者との距離-関係に混乱を起こさせてしまう。語り手は、わざわざ「わたし」を「彼」と呼び換えて、語る者と語られる世界との距離を確保しようとしているにもかかわらず、姉を「彼の姉」として相対化することが出来ない。語り手にとっても《姉》という言葉は一般的な関係を表す呼称ではありえず、《姉》と発語したとたんに特定の人物と結びつく、固有名として機能してしまうような強さをもっているのだ。

だから「岬」では、冒頭から既に、わたしを彼と呼び換える語り手の分離-相対化の戦略が失効している。「岬」という小説において主人公の彼=秋幸のもつ存在論的なあやうさとは、まずは語り手と登場人物との意識的な分離が成立していないという点にあり、だからこそ語られる彼=秋幸はその存在の基底において(語りと対象とが混同されるという)分裂をはらむ。

このことの特異性は、「岬」の直前に書かれた「火宅」や「浄徳寺ツアー」と比較すればはっきりする。「火宅」と「浄徳寺ツアー」でも「岬」と同様に主人公は《彼》と呼ばれ、この彼は「わたし」や「ぼく」という一人称に置き換えても、ほぼそのまま成り立つ(「火宅」では多少事情が異なるが)。「浄徳寺ツアー」では「わたし」があえて《彼》と呼び換えられることで、語り手と登場人物という分離した二つの「わたし」の間に安定した距離が設定され、そうであるからこそ、その距離の微妙な伸縮の操作が可能となっている。

ぼんやりと、もう産まれただろうか、と思った。彼の女は、今日、明日が、出産予定日だった。結婚してから、三回、それ以前に一回、中絶手術をしていた。もうここいらが限度だと産婦人科医に脅かされた。それで子供を産む決心をしたのだった。一カ月ほど前からアパートに女の母親が泊まり込んでいた。予定日が、ちょうどこの〈浄徳寺ツアー〉の日程と重なった。しかし、彼は、男がそばにいたってなにもすることがないと、他の人に担当を取り替えてもらえと言う女の言葉を無視したのだった。産まれてくる子供に、興味はあった。女の子宮の中に射出した自分の精液の一滴が、どんな姿形を取ってくるのか、見たくもあった。だが、それだけだった。(「浄徳寺ツアー」)

いかにも紋切り型の「小説のなかの男」っぽい語りだと感じてしまうのだが、それはともかく、ここには「岬」にあるような捻れや混乱はなく、滑らかに読み進めることが出来る文の連なりがある。語り手は、登場人物を《彼》と呼ぶことでやや突き放しつつも、時に、主人公の心の中を記す際にも主語《彼》を省略した文を混ぜることで語り手と主人公を同化させ、近づけもする。そして、引用部分最後の《だが、それだけだった》という言い切りは、語り手と主人公をその「気分」においてぴたっと一致させ、その効果によって読者をも主人公の気分の近傍に引き寄せるだろう。ここでの距離の伸縮のさじ加減は絶妙であり、語り手による操作は安定してなされている。故に語り手は常に超越的な位置を確保し、語られる人物が存在論的な分裂の危機に陥ることはない。

それに対し「岬」では、まるで語り手が幻のもう一人として、主人公が存在する地平に、主人公とは分離した位置をもつ者として降りてきてしまうかのような混乱が冒頭から生じている。ここで空間=論理階梯を歪ませてしまう原因は、語り手にとっても操作不能な、《姉》という存在のあらわれのあまりの「近さ」なのだ。

(2012年 未発表)

(2)へつづく

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