見出し画像

現実のなかに位置をもたない二種類の経験/スティーヴン・スピルバーグ『A.I.』と『マイノリティ・リポート』の余白に

古谷利裕

1.『A.I.』、デイビッドの「一日」

 『A.I.』は一度成立してしまった「回路」が(デイビッドという「物質」が存続する限り)ただひたすらに作動しつづける、という話であった。たとえデイビッドに書き込まれた「愛情」というプログラムが人為的にものにすぎなかったとしても、それが一度動きだしてしまえば誰もそれをとめることは出来ず、もはや人間の都合などとは無関係にどこまでも(人類が滅亡した後までも)「愛」が作動しつづける。デイビッドという身体=物質は、それ自身として存在するのではなく、「愛情」というプログラムを媒介するものとしてのみ存在しているかのようだ。
 しかもその時、デイビッドという身体=物質の唯一性は、彼が媒介している「愛」の唯一性を保証するものではない。彼に書き込まれている「愛」というプログラムは人為的なものであり、大量につくられている彼と同型の「メカ」と全く同一のものの反復でしかないのだ。つまり、その「愛」というプログラムは、あらじめ、自らが求める「愛」がほかにはあり得ない「ユニーク」なものであることを望むように書き込まれてしまっている。しかし、唯一な「ユニーク」さを求めるそのプログラムと全く同一のものをもった個体が、無数に大量生産されてしまっているというわけだ(大量生産される唯一性)。
 『A.I.』では、物語の途中でいきなり二千年という時間が流れ、そのことが「~だといいます」という風に訳されるような、過去形で伝聞(間接話法)のナレーションによって告げられる(楳図かずお『わたしは真悟』と同じようなナレーション)。この、一体、いつ、誰によって語られているのかわからないようなナレーションは、それを「語りかけられている」我々観客自身をも、どのような時間、どのような場所にいてその語りを聞いているのか混乱させる効果があるといえるだろう。この時観客は、具体的な映画館という場所、上映時間という時間からふっと浮き上がって、自らの所属している時制を見失いかける。
 このとき、経過する時間が二千年という中途半端な長さであることは重要であると思われる。二千年という時間の長さは、人間のライフサイクルを基準とした時間、たとえば何世代後だとかいうようなやり方で測るには長過ぎるし、かといって、あの星から地球まで光が届くのに何万年かかるというような、天文学的な時間としては短いといえる。ロボットであるデイビッドの形が崩れてなくなってしまう程に長くはなく、しかしその間に、人類が滅亡していたとしてもおかしくはないくらいには長い。人類は滅亡したとしても、地球そのものがなくなってしまったりはしないだろうというくらいの時間。永遠というには短か過ぎるけど、人間の実感としては長過ぎる。
 それはほとんどおとぎ話の時間だ。物語の内部では決して幻想などではない、リアルな現実の時間であるのだが、しかし人間が存在した頃の現実とは切り離されて、ポッカリと浮遊しているような時間である。
 人類が滅亡した二千年後、停止していたデイビッドという回路が再び作動する。そして、眠っていた「愛」が目を覚ます。これはほとんど、ホラー映画で、封印され、眠っていたなにか邪悪なものが目を覚ますのと同じことではないか。人類が滅亡し、メカと呼ばれている、自己を再生、再生産しつづける機械装置だけが支配している世界で、そのような世界にはあり得なくなった愛=呪いを抱えたデイビッドが、メカたちの手によって復活する。
 デイビッドが母親と過ごすあの「一日」を、どのように捉えたらよいのか。地球を支配するメカたちにとって、絶滅した人類との記憶を宿したデイビッドは貴重な歴史資料である。彼の望みを訪ねると、デイビットは愛する母親と二人だけで過ごす一日を希望し、メカたちは、デイビッドに残された記憶と母親のDNAを保存した髪の毛から、その「一日」をヴァーチャルに再現してみせる。これはほとんど純粋に抽象的な一日というしかないような時間ではないのか。もはや人類は絶滅していて、自らを再生産する機械=メカしかこの地球にはいないのだから、そこでは人間がかつて感じていたような「人間を基準とした時間」など流れていない。そのような場所に、人間ではないにもかかわらず、人間に関する記憶(人間に準ずる感情)をもった唯一の存在であるでデイビッドがあらわれ、彼が「望んでいた(そして、現実には決してかなえられなかった)」、母親と二人だけですごす完璧な一日という人間的時間を生じさせる。
 彼自身は人間ではなく、たんに「愛」をプログラムされ、人間の記憶を記録し保存する媒介としての物質=メカでしかない。しかし、彼が経験する「一日」という時間は、人間が過ごす経験と少しも変わらないものであろう。人間が死に絶えた場所で、人間以外の物質=機械によって、人間の「経験」だけが再生される。この時にはじめて、大量生産されたプログラムであるデイビッドの「愛情」が、唯一でユニークなものになる。それを「経験している」のは。デイビッドだけではく、互いの経験を過不足なく共有する(同期させる)ことのできる、もはやユニークとか唯一性とかにまったく意味を感じなくなった、多であると同時に一である、地球に生息するメカ=機械たちである。彼ら(メカたち)は、自分たちとはまったく異なる思考や感情もつ人間の、ユニークで特異的な存在が「経験する一日」を、自らのものではなく他者のものとして、しかし、ほとんど自らの内側から経験する。メカたちの経験するデイビッドと母の時間もまた、その経験が属する時制は、それが実際に発生している未来の世界において明らかに浮いており、着地点はみいだせない。
 なだらかに連続する時間から切り離されて浮遊したスクリーン上の時間を、具体的な時制を見失ってしまった観客が眺めている。デイビッドの一日を眺めている時、観客は幾分かはデイビッドでありつつ、幾分かは機械たちである。この「一日」は、二千年後の未来にあるのではなく、時間の外にある。つまりこの一日は、デイビッドが愛を求める様々な困難の末にたどり着いた果てにある未来の時間ではなく、彼に愛情がプログラミングされ、そのスイッチが入った瞬間に、あらかじめ失われた楽園として、伝説として、決してたどり着けない遠い過去にあって、そこから疎外されることで現在があるような出来事として、ずっと彼にとりついていた一日なのだった。それは、具体的な記憶としての過去ではなく、回路が作動することによって、「回路以降」に生じる「回路が作動するより前」という、実際にはあり得ないヴァーチャルな過去だという意味で、時間の外にあるのだ。
 だからこの一日は、未来からではなく、(別の世界の)過去からやってくる。デイビッドはおそらく、回路が作動した(ものごころがついた)その瞬間から、自らの頭のなかで、この一日を繰り返しずっと反復してきたであろう。

2.『マイノリティー・リポート』のプリコグのヴィジョン
 『マイノリティ・リポート』で、外界から遮断されて液体のなかに横たわったプリコグたちの視る断片的で錯綜したヴィジョンは、それ自身としてはなんの意味も持たず、プリコグはただ純粋な強度としてヴィジョンに貫かれる。そのヴィジョンを解読するのは、それを編集するトム・クルーズであり、それは、殺人を未然に防ぐという「目的」に従って再編成される。しかしその目的は、プリコグ自身のものではない。つまり、プリコグ自身にとっては意味を持たないヴィジョンは、目的に従って編集され、解読されることによって社会的な意味をもつ。外界を知覚することを剥奪されて隔離されたプリコグの視るヴィジョンそのものは、それそのものとしては「現実」とはかかわりをもたない悪夢のようなものでしかない。
 ここで、(我々、多くの人々にとって共有可能な)現実的でリニアな時間軸上には位置をもたないプリコグのヴィジョンという体験は、デイビッドの二千年後の「一日」の体験と同様のものだといえるだろうか。しかし、デイビッドの一日は、あらかじめプログラム(刻印)されたものの、果てしない反復の果てにあり、デイビッドは物質として(「愛」の媒体として)存続する限りその呪いから逃れられなかった。デイビッドの存在は、何度も封印されては、何度もその封印が解かれる、ホラー映画的な「邪悪な力」のようななにものかと同型であろう。彼は、いつまでもどこまでも、自動的、自律的に、母親への愛を求め続ける(ここでも『わたしは真悟』が想起される)装置だ。それは、もはや愛の対象である母親自身とは関係がなくなっている、閉じた自律的循環とさえいえる。
 一方、プリコグに訪れるヴィジョンは、あらかじめプログラムされたものの反復ではない。それは常に未知のなにものかであり、世界の側から、その都度新たに、予測不可能なものとして唐突にやってくるものだ。そのような意味では、ヴィジョンはプリコグの頭の外にある「現実」と通路をもつ経験ではあるだろう。デイビッドの呪い(反復される経験)はそのプログラムに内蔵され、あらかじめ現実的な時間の外にあるが、そうであるが故に、現実的でリニアな時間のなかでの、彼の行動を導く指針として、行動を決定させる動機として、強く機能している。彼は、ただ「愛」に向けて一直線に(現実的な時間のなかを)動いていく。一方、プリコグのヴィジョンは、「世界の側(頭の外)」からやってくるが、リニアな時間の秩序の形式に従っていないので、そのヴィジョンは強度としてしか経験されず、リニアな時間軸上での行動の指針にはまったくならない。だからプリコグは、現実的な行動を奪われる。
 デイビッドは目的しかもたないが、プリコグは(錯乱した現実しかもてないので)目的をもてない。そもそもリニアな時間軸上で目的を構成することができないのだ(目的は、トム・クルーズが、あるいは犯罪防止を必要とする「社会」が決めていて、それを彼女たちに強制している)。プリコグのヴィジョンは、幻想のように遠くあって作用するもの(デイビッドの一日のようなもの)ではなく、知覚=現在を不可能にするような強さで、常にいま・ここで彼女たちに襲いかかる。
 しかし、『マイノリティ・リポート』には、プリコグがトム・クルーズと共に幽閉された施設から脱走し、その追手から逃れようとする一連の場面がある。この時、プリコグから外界の知覚を遮断していたアイソレーションタンクのようなプールの外に出た彼女は、リニアな時間軸上の現実的な知覚をもち、それと同時に、その知覚のなかにあらわれる兆候として「未来のヴィジョン」を同時にもつことになる。
 二人は、彼女のそのような能力によって追手の裏をかいて逃げることに成功する。ここでプリコグは、知覚と目的、そして目的によって組織された行動(運動)によって、ヴィジョンのある程度の統制を可能にしている。外界から遮断されたプリコグのヴィジョンは意味をもてないが、知覚と運動のなかに置かれ、そこに適切に配置されることでヴィジョンは意味を構成し得る。ただしここで、プリコグはトム・クルーズによって強引に連れ出されたので、「目的」は彼女自身のものではなく、トム・クルーズのものだ。つまりここでもプリコグのヴィジョンは、トム・クルーズの目的のために使われている。自らの欲望=目的にへとひたすら向かうデイビッドとは異なっている。ただし、ここでトム・クルーズの逃亡を「助ける(協力する)」のはプリコグ自身の意志であり、プリコグは自分の(他者の目的に協力するという)意志と欲望によって、ヴィジョンをある程度統制しているとは言える。
 だがここでも、ヴィジョンそのものは、「トム・クルーズと共に逃亡する」という目的(欲望)に沿ってもたらされるものではなく、ヴィジョン自身の都合として自律的に生起するものだ。それは、外界から遮断されたアイソレーション・タンクのような液体のなかに横たわっている時と同様、「向こうから勝手に、唐突にやってくる」もので、プリコグの欲望や意志とは関係がない。現実(リニアな時間軸に沿った知覚)とヴィジョンは、(目的とそれに沿った行動にあわせて)プリコグ自身によってその都度解読され、調整されなければ、その関係は確定されない。そしてその解読・調整は必ずしもうまくいくと限らない。たとえば、逃亡の途中、たまたますれ違った女性を呼び止め、その女性に「あなたの浮気はバレる」と口にしたりする。この行為はは逃亡(目的)とはまったく関係ないばかりか、時間の無駄として害でさえあり得る。しかし、ヴィジョンはやってきてしまうのであり、その解読・調整が常に効率的に行われるとは限らないのだ。

3.二つの「時間の外」、予測不能なヴィジョンと、反復的な呪い
 リニアな時間軸に沿った現実的な知覚と、それとは別にやってくるヴィジョンという、異なる二つの感覚はおそらく、それ自体としては同等の密度とリアリティをもち、どちらが主でどちらが従(あるいは、どちらが実でどちらが虚)ということはない。プリコグは、同時に与えられる二種類の感覚の圧倒的な過剰として現実(世界)を経験している。ヴィジョンと知覚は、「目的をもった、現実的でリニアな時間軸上で構成される行動=運動」という流れのなかに置かれ、統合され、再帰的に構造化されてはじめて、〈現実上で逃げるためにヴィジョンが、知覚への優位として利用される〉という主従関係(ヴィジョンが知覚を導き、リニアな時間軸上の出来事に利用する)がつくり出さられる。
 だから本当は、現実などというあらかじめ確固とした基盤などどこにもないはずだ。ヴィジョンと知覚という異なる二つの感覚(外からやってくるもの)の混合があり、それがある「目的」のもとに組織された時にはじめて「現実」という仮の次元が開けるにすぎないのだ。だがこの時「目的」は、デイヴィッドのそれのような何度も反復する「呪い」としてあるのではなく、もっと場当たり的な、その都度偶発的に生起しては、場当たり的に組み立てられるものとしてある。
 プリコグ自身の経験としては、現実的なリニアな知覚も、ヴィジョンも、同等に、同時に、現実的に生きられている。リニアな時間軸上にある「現実」だけが現実なのではない。この時のプリコグの「頭のなかで起こっていること(経験)」に興味がある。そこには、知覚とヴィジョンと、その混合が生み出す運動があり、とれだけ過剰で複雑な感覚が渦巻いていることだろうか。
 そして、デイビッドにおける呪い=愛のように、同じものの果てのない反復としてある経験と、プレコグのヴィジョンのように、その都度唐突に、予測不能な形で向こう側から勝手にやってくる意味不明の「なにものか」としての感覚(経験)という、どちらも「リニアな時間の外」からやってくる二種類の異なる経験は、リニアな時間という絶対的な枠に捕らわれている我々を、その外から貫いて強く規定している力の、時間の内でもかろうじて感じられるその兆候的な経験であろう。デイビッドとプレコグとは、このような「時間の外」にある経験の二つの側面の、それぞれに切り離された表現なのだ。
(了)

初出 「ユリイカ」2008年7月号(特集・スピルバーグ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?