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スウェットの女/ポン・ジュノにおけるペ・ドゥナの存在

古谷利裕

 1.

《二個の者が same space を occupy する訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや》(夏目漱石)。これがポン・ジュノの映画を貫く基本の原理であり、同時に、この原理にあらがうことが彼の映画作品のフォルムとしての主題(課題)となる。そして、登場人物のレベルでこの原理にあらがうことが可能だった存在が『ほえる犬は噛まない』のペ・ドゥナである。以下、この論考はその点を巡って書かれることになる。

 『ほえる犬は噛まない』で、スクリーン上にあらわれる犬は常に一匹だけである。この映画には全部で三匹の犬が登場するが、複数の犬が同時に存在することは決してなく、一匹の犬が姿を消してから、次の犬があらわれる。まるで、この映画には犬のために用意されたポストは一つしかなく、その位置を得るためには、前の犬がいなくならなければならないかのようだ。もっと露骨に言えば、前の犬の死がなければ次の犬に登場の余地はない。この映画には、複数の犬たちが共存可能な場は用意されていないのだ。
 この厳しくも残酷な原理は、何も犬だけに強いられたものではない。イ・ソンジェに教授の席を狙えるチャンスが巡ってきたのは、彼の知り合いでもあった別の有力な教授候補の男が死んだからなのだ。別の男が生きている限り、彼のもとへ教授の椅子がやってくることは決してなかった。そもそもイ・ソンジェが、目くじらを立てるほどのものとはとても思えない犬の鳴き声にいらだつようになり、とうとうその犬を強奪して殺してしまおうとまで思うような精神状態に追い詰められたのは、教授という数少ないポストを巡る争いによってであり、その争いが、学問的にファアなものとはとても言えないやり方でなされているという事実なのだ。
 彼にとって我慢がならないのは、騒音としての犬の鳴き声そのものであるよりも、「犬を飼ってはならない」という規則があるにもかかわらず、(隠れてこそこそ飼うならともかく)「まあ、そんなもんだ」という感じで規則が公然と破られていて、誰もそのことを疑問にも思わないという状況の方にこそある。犬の鳴き声そのものは、そのような状況を象徴するものでしかない。勿論その感情は、教授というポストが、学問的な功績や資質が問われることによってではなく、金やコネによって決定されてしまうという現状が、多くの人にとって「まあ、そんなものだ」として共有され、許容されていることへの苛立ちによって誘発されたものだ。
 この映画において、犬や教授のためのポストは、どちらも一つしか用意されていない。しかしそれは逆に考えるならば、一つは確実に約束されているということでもある。一匹の犬が死ねば、その場所に自動的に別の犬が位置することになる。同様に、教授の有力候補だった男が一人死ねば、そのポストは自動的に他の誰かに割り当てられる。勿論、次もまた規則違反の犬であり、金のコネとに結びついた教授ポストである。一匹のモグラを叩いても、すぐに次のモグラがあらわれる。イ・ソンジェによる現状への怒りが、二匹の犬を殺しただけで、結局、現状を変えることにはほんの少しも貢献出来なかったのは、この映画全体を貫いているこのような原理を理解していなかったからだ。いや、たんに原理を理解していないだけでなく、自分自身もまたその原理の内部にいて、それによって踊られているということ気づくことさえ、この愚かな男には困難なのだ。
 教授のポストは、努力や業績によってではなく、知人の死という偶然の幸運(!)によって自動的に自らの位置にやってくる。しかしそれを確実にするには多額のわいろが必要となる。非難する立場から非難される立場へのこの構造的な位置の変化に、イ・ソンジェは驚くほどに何の抵抗も躊躇もなく順応する。彼にとっての問題は、わいろを使って教授になってもいいものだろうか、という葛藤や苦悩にはなく、どのようにしてわいろを調達すればよいのか、ということに最初からなってしまっているのだ。
 このような彼の無自覚を作品そのものが非難するかのように、三匹目の「規則違反の犬」は彼の妻によって彼ところにやって来るのだ。お前こそが規則違反であり、お前こそが過去のお前によって裁かれねばならないのだ、この犬はその「しるし」なのだ、とでも言うように。そして彼は、妻の連れてきた犬に去られるという出来事によって、断罪されるかのようだ。しかし…。

 このような原理は、しかしこれだけではまだ社会批判のレベルに留まっている。ポン・ジュノは初期の短編『支離滅裂』において、テレビ番組で現代社会の堕落を非難するご立派な識者たちが、裏でいかに卑小な振る舞いをしているかについて風刺的に描いていて、そこには韓国社会を貫いていると思われる金とコネの体質に対する強い批判が確実に存在するのだが、作品としては新聞の風刺マンガレベルのものだと言うしかなかった。
 『ほえる犬は噛まない』以降の作品においても、このような社会批判的な視点は存続していて、『殺人の追憶』では警察によるいい加減な捜査と強引な取り調べが戯画的に描かれているし、『グエムル』でも、「祖国の民主化のために尽くしたのにどこも雇ってくれない」と口にするインテリの大卒フリーター男と、小さな売店の売り上げで子供たちを育てあげ、権威に従順で何かというとわいろで解決しようとする世知にたけた父親の言動が対比的に描かれてもいる。しかしそれらはもはや、社会批判的な視点として単独に取り出すことが出来るものではなく、複雑な構造体としての作品を形作る様々に絡み合ったベクトルの一つであり、構成要素の一つだと言うべきものとなっている。
 ポン・ジュノにとっての社会批判的傾向はきわめて微妙に作動している。『グエムル』はあまりにあからさまに反米的であるが、この映画の根本を支える怪物の存在や様々な問題のほとんどが「アメリカのせい」であるということで、それはつまり、この映画の物語自体が「アメリカのおかげ」によって成立しているということでもあるのだ。あるいは、『殺人の追憶』の刑事たちの捜査や尋問は、反感を持つというよりは笑ってしまうほどに酷いものとして戯画化されているが、同時にこの刑事たちの切迫や焦燥、彼らにそのような酷い行いをさせる背景などが十分に描き込まれてもいるため、観客は彼らを安心して「批判されるべき側」、あるいは「笑うべき対象の側」に置くことは出来ない。このような両価的表現は、むしろ社会批判というベクトルとは逆向き(現状肯定的)に作用しているようにさえ思われる。

2.

  《二個の者が same space を occupy する訳には行かぬ》という原理の話に戻ろう。例えば『グエムル』では、物語の端緒とも言える「娘の取り違え」がこの原理と関係している。ソン・ガンホが娘のコ・アソンと間違えてまったく別人の手を取って逃げたことによって、コ・アソンが怪物に連れ去られ、この物語が発動することとなる。こごてもソン・ガンホは、ある一人を助けることによって、別の一人を助けることが出来なかった。ソン・ガンホは「一人の手」しか取ることが出来なかった。そしてその一人の手という位置に、本来場所を占めるべき娘の手はなく、別の誰かの手が占めてしまっていた。取り違えが大きな重さをもつのは、その場所を占めるべき存在がたった一人であるという点にこそある。
  『殺人の追憶』では、そのことが逆手にとられている。本来、連続殺人の犯人という場所は一つであり、犯人は一人であるはずだ。だからソン・ガンホが演じる刑事は、とにかくその場所が誰かによって埋められさえすれば、この事件は解決されると思っているかのように振る舞っている。その人物が真犯人であるかどうかはともかく、その、たった一人であるはずの犯人の位置が、誰か任意の一人によって占められさえすれば、連続殺人というパズルは完成し、事件は解決するのだ、と。
 しかし実情はまったく逆なものとなるだろう。『ほえる犬は噛まない』において、ある一匹の犬が消えると自動的に次の犬が出現するように、『殺人の追憶』においても、一度その場所を占めたら決して位置の移動はないはずの「真犯人」が、AからB、BからC、Cから…と、入れ代わり立ち代わりあらわれては移り変わり、それによって結果としてはその席は空席のままで終わる。犬や教授の席は一つしかないが、その席を占める誰かは誰でもよく、それは偶然に委ねられていた。同様に、真犯人でさえもその「席」こそが重要なのだ。《二個の者が same space を occupy する訳には行かぬ》という原理においては、その《same space》たる場所=位置こそが主体であって、そこを《occupy》する者はいくらでも交換可能であるということでもある。《same space》は、共時的には排他的で、かつ通時的には交換可能なのだ。
 そして『母なる証明』ではとうとう、明らかな真犯人と「真犯人の席」とが完全に分離する。あたかも「真犯人の席」がすでに埋められているのだから、真犯人そのものは許されてしかるべきだとでも言うかのように。

 ポン・ジュノの映画では、左右の幅が狭く、奥行きが深い、うなぎの寝床のような細長い空間がしばしば舞台となる。『ほえる犬は噛まない』の団地の廊下や団地前の坂道、無数の柱に挟まれた地下室、『殺人の追憶』の畑のなかのあぜ道やトンネル、地下にある捜査室へと通じる階段、『グエムル』の下水溝や土手の傾斜が川へと落ち込む前にあるちょっとした幅の水平面(縁)、ソン・ガンホが監禁される米軍施設、等々。このような細長い空間で、動きは、向こうからこちらへ、こちらから向こうへという方向に特化されていることが多い。つまり、ポン・ジュノの映画のなかで動くものたちにとって、横へとズレる動きはきわめて困難なものとなるだろう。このことは、ポン・ジュノの登場人物たちがあくまで排他的な「一つの席」に固執していて、それ以外にもあり得るはずの「別の席」へとズレてゆく可能性を考慮することが困難な視野狭窄に陥っていることと響き合っている。
 『グエムル』で怪物が最初に陸上で暴れる場面で、怪物が川から陸に上がる動きは可視化されない。怪物はまず水のなかにいて、次に土手に沿って向こうから走ってくる。つまり、川から陸へと横方向にズレる動きがないのだ(陸から川へと飛び込む場面はある)。そして怪物はそもそも水中に棲む動物であるから川から遠く離れることはなく、陸上でも常に土手に沿って移動する。向こうからこちらへ向かって来て、しばらく先まで行くと折り返して、またこちらへ向かってくる。怪物の動きはきわめて単調であるが、だからこそ、土手の傾斜で怪物がつるっと滑ってこける動きがこの映画ではすばらしい効果を生むのだ。滑ってこけることによってこの怪物は、自らの動きの単調さからはみ出してゆく。怪物から逃れようとする人々は、ただ川から離れれば良いはずなのだが、恐怖によって視野狭窄に陥った人々は、まるで自ら怪物の行く手の方に引き寄せられるかのように、川に沿って平行に、直線的に逃げるだ。
 こちらから向こうへ、むこうからこちらへ、という、怪物と逃げる人々との単調な動きの繰り返しは、『ほえる犬は噛まない』の団地の廊下で、逃げるイ・ソンジェと追うペ・ドゥナとして既に先取りされていた。この映画でイ・ソンジェはまさに、横にズレることのない単調な運動を強いられた存在であり、それは奥さんとの言い争いの後に坂道に一直線に転がるトイレットペーパーとしても可視化されていた。道が一本しかなく、横道に逸れることが不可能である以上、犬殺しの犯人であるイ・ソンジェがペ・ドゥナに追いつかれるのは時間の問題であるはずだった。しかしここで、まるで怪物が土手で滑ったのと同様の例外的な横滑りの運動が起こることでイ・ソンジェは逃げ切ることが出来た。絶妙のタイミングで部屋のドアが開き、ペ・ドゥナはドアに激突する。
 犬を殺して逃げるイ・ソンジェとそれを追うペ・ドゥナという、横へズレることのない折り返しのジグザグ運動は、犬を救出して逃げるペ・ドゥナと、それを追うホームレスの男として反復される。ここでも、舞台が団地の廊下という脇にズレることの出来ない一本道である以上、原理的にはペ・ドゥナが逃げ切ることは困難だ。
 だが、ここでペ・ドゥナを救うのは、偶然の横滑り運動ではなく、彼女の友人の存在であり、友人の横様の跳び蹴りである。ここでこの友人の存在こそが、この映画に横方向の動きを導入し、ペ・ドゥナを、ポン・ジュノの映画作品全体のなかでも特権的な存在にしているのだ。彼女たち二人はいつも、《二個の者が same space を occupy する訳には行かぬ》という原理を裏切るかのように、きわめて狭い、団地の文房具売り場の内側という《same space》に、互いの身体を折り重ねるようにしてともに過ごしているのだった。

3.

 『ほえる犬は噛まない』は一見、イ・ソンジェの一人勝ちの映画のようにも見える。彼は、犬を殺していながらも、その犯人の席をホームレスの男に肩代わりしてもらって知らんぷりを決め込むだけでなく、何もしなくても知人の死によって教授の席が転がり込み、さらに、その席を確実にするためのわいろは、妻の退職金によって何の苦労もなく得ることが出来る(彼が職を得ることで妻が職を失うので、排他的な原理はここでも作動している)。
 しかしそのことはそのまま、彼が「この世界」を律している原理、排他的で、金とコネとがものを言う、《二個の者が same space を occupy する訳には行かぬ》という原理から、ほんの一歩も外へ出られていないという事実を示すものだ。確かに彼は、妻が犬を買ってきたことで、犬を奪う者から奪われる者へ、そして犬を探す者へと位置を移動し、加害者から被害者となり、教授の席どころか妻をも失いかねない危機にみまわれる。そしてその時だけ、ペ・ドゥナと同様の黄色いフード付きの雨合羽をまとうことで、ペ・ドゥナという存在に近づくかに見える。しかし、同じ黄色いフード付きの衣装とは言っても、彼の着ているのはナイロン製の雨合羽であり、ペ・ドゥナの着ているのはスウェット素材のパーカーである。この素材の違いは決定的であった。彼は、妻との関係を取り戻し、教授の席を手に入れることは出来るが、排他的な原理の外へ出ることには失敗しつづけする。
 一方、ペ・ドゥナは、親身になって犬を失った老婆の面倒をみても、せいぜい切り干し大根くらいしか得られないし、イ・ソンジェの犬の捜索に協力し、その勇敢な行動によって見事に犬を奪還したにもかかわらず、その行為はまったく報われることがないばかりか、犬探しにかまけていたため団地の管理事務所の職を失ってしまいさえする。ニュースに出て目立ちたいというささやかな望みすら叶えられない。しかし、そのことを不幸だと思うのは排他的な原理から自由になれない人間だけであろう。不幸なのはむしろ、ペ・ドゥナに後ろ姿を見せても犯人だと気づかれることのなかったイ・ソンジェの方だ(ソニアに出会い損なったラスコーリニコフのようだ)。彼は、『グエムル』の怪物が土手の斜面で一瞬滑ってしまうという程度の自由すら得ることが出来なかったのだ。
 ペ・ドゥナは、職を失ってもなお、友人と二人で山へ出かけてゆくだろうし、時間が許せば、友人の働く狭い文具売り場で折り重なるようにしてだべって時を過ごすだろう。ネロとパトラッシュのような特権的な関係は彼女たちのもとにある。
 ペ・ドゥナは、排他的な一つの「席」から常にズレてゆき、まっすぐな一本道から常に横滑りする存在であるのだ。そのことは、イ・ソンジェと二人で犬探しのビラを張っている時に、ポケベルで管理事務所から呼び出され、急いで職場に戻ろうと、目の前の塀を乗り越えてゆくという場面で明確に可視化されている。彼女は、細長い一本道を行くだけでなく平然と(颯爽と、ではなく、無様にであるが)塀を乗り越える。そして彼女の太った友達は、横様からの跳び蹴りによって一本道に亀裂をはしらせる。イ・ソンジェの不幸は、そのような彼女たちに近づきながらも、その運動に同調し切ることが出来ずに、教授という排他的な席にしがみついたことによるだろう。
 『グエムル』においても、えんじのスウェット姿のぺ・ドゥナの運動は家族の他の者たちとは異質な特権的なものだ。この映画の彼女の運動は周囲から常に「遅れる」ことが特徴であるが、それだけではない。例えば病院から脱走する場面で、逃走用の車までの距離、地下駐車場の通路をひたすら直線的に走る家族たちからペ・ドゥナは遅れるのだが、彼女は無数の駐車中の車の間をすり抜けるという斜め横への動きによって、ゆっくりと歩いているのに結局は逃亡用の車に間に合ってしまう。必ずしも、幅の狭くまっすぐな、規制の「通路」を行かなくてはならないわけではないのだということを、彼女は本能的に知っている。

4.

 ポン・ジュノは、自らの作品の法であるかのように作動する排他的な「席」の原理に対して、それにあらがうように、様々な要素のごった煮的な場を作品のフォルムとして作りだし、それに拮抗する力を生みだそうとしているように思われる。『殺人の追憶』では、笑って良いのか悪いのかしばしば分からなくなるほどに、コメディの要素とシリアスな要素とを分け目が見えないくらいまで混合してみせた。
 『グエムル』では、川っぺリにたった一匹の怪物があらわれたというだけの話が、いつの間にか現代の韓国社会の雰囲気を反映し、アメリカと韓国との関係さえも反映するひろがりをみせたかと思うと、それが結局はある一家の話へと向かっていく。単純な怪物映画ではないが、社会派でもないし、家族が大事という感動の話にも着地しないし、監督自身の世代を反映するかのような細部(火炎ビン)もあるが、それがことさら前に出てくるわけでもない。かといって、純粋なアクションが全面に出ているというのでもない。映画おたく、アニメおたく的なノリもあるが、そこにも収斂されない。その全てを同時に意識させつつ、どれかが主でどれかが従でもなく、どこにも着地しないキワキワの緊張を保ちながら、多ジャンルつまみ食い的な独自の混合状態をつくり出している。残酷で排他的な「席」の原理と、何でもありの無法地帯のような混合状態との拮抗こそが、ポン・ジュノという作家を特徴づけているように思う。そしてその一番はじめのところに、黄色いスウェットのパーカーを着たペ・ドゥナの存在があるのだ。

(了)

初出「ユリイカ」2009年10月臨時増刊号  総特集 ペ・ドゥナ 『空気人形』を生きて


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