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現在を現実へと着地させる装置=部屋/九十年代の角田光代

古谷利裕

0.
 現在とは捉えきれない不確かなものである。いま、こことして、まさに間近でなまなましく生起しているはずの現在こそが、実は夢のように掴みがたいこと。現在起こっていることの意味は、後になって遡行的に見出されなければ確定することが出来ない。つまり、現在を「現実」として確定し、それを受け入れ可能な妥当性と実感をもつものへと着地させるには(未来から逆算するような)一定の手続きが必要であり、現実は常に現在から遅れてやってくる。本来、現実は現在からは数歩ずれた過去の位置にあり、現実に追いつかれるまでの現在は、不確かな夢の途中ように、リアルな感触を形作られないまま開かれている。現在という位置にいつづける限り、人は自らの立ち位置や進むべき方向の指針を知ることができないし、生きている実感を掴むことさえ困難だ。そのような現在の無限定な開かれにどのように対処すればよいのか。
 現在を現実へと着地させるための装置を探し続けること。九十年代から現在まで、一貫して多産な作家でありつづけていると言ってよいだろう角田光代のほとんどの作品は、ほぼこのような問題のまわりを巡っている。そして、角田光代の登場人物たちはいつも、現在と現実との狭間、現在から零れ落ち、しかし現実へと着地するには至らない、その中間地点を彷徨いつづけている。いま、ここでたちあがりつつある、意味の確定以前のなまなましいなにものかに触れようとすることでもなく、逆に、現在を現実(意味)へと着地させる秩序づけを完成させようとするのでもなく、あくまでその中間地点に留まり、そこで持ち堪えること。この地点が作家としての角田光代の立脚点であり、そこにいつづけることこそが書くことを支えているように思われる。
 このような、中間的な位置にいることの不確かさは、九十年代においては、それが主にフリーター的な生活をする登場人物たちによって表されたことから、同時代的な風俗や感性の描出として捉えられた。しかし「現在」の不確かさは必ずしも根無し草的な生活をする人物だけによって担われるものではない。例えば、二〇〇四年に発表された『対岸の彼女』に登場する複数の従業員を抱える会社を経営する葵や、家庭を持ち子供を持っている小夜子、翌年の『空中庭園』の団地に住む家族たちといった、社会的な「収まりどころ」を得ている人物たちにもそれは共有されている。いや、共有されるだけではなく、彼や彼女たちにとってもその問題の中心(現在の不確かさと、それを「何によって」着地させるのかという問い)はまったくかわっていない。つまり、角田光代の小説の感触はかわっていない。社会的な収まりどころは、現在を現実へと着地させる装置として十分ではない。
 本稿では、そのような角田光代的な探究と、その中間地点での踏み止まりの感触とをより直接的に示していると思われる九十年代に書かれたいくつかの作品を検討することで、そのあり様が、決して同時代的な感性の表出に留まらず、それを越えた射程をもつことを示したい。

1.
 角田光代の作品において部屋が重要な役割を担うことは、誰が読んでも読み違えようがないほど明らかだろう。それは時に共同生活の場であり、廃墟や空き部屋であり、ラブホテルの部屋であり、段ボールハウスや押し入れやたんなる囲いや囲いの後の埃の積もりでさえあるし、移動する部屋としての自動車だったりもするという多様なバリエーションをもつ。部屋の形態のバリエーションこそがこの作家の展開を支えているとさえ言える。
 それは外の空間から区別するために仮に仕切られた内側でしかなく、その結界としての力はきわめて微弱だ。部屋は、現在という無限定に立ち向かうために仮に建てられたフレームであり、その枠内に付与される何かしらの意味(結界内部に閉じ込められる意味)が、そこに住まう人物の現在に現実としての重みを与える。その結界=根拠としての力が最も弱い部屋として、例えば(九十年代の作品ではないが)『対岸の彼女』のナナコの住む公団住宅の部屋がある。そこは友人の葵によって≪家というより、駅の待合室やさっき見た無人の公園に≫似ているとされるような場所だ。

そのとき乱暴に鍵が開き、数人の女学生が入ってきた。(略)入ってきた女学生たちは、葵とナナコをまったく無視してがやがやと隣の和室に入り、数分後、全員派手な衣装に着替えてまたがやがやと出ていった。わけがわからず、葵は部屋に漂う香水のにおいを嗅ぎながら、彼女たちをぽかんと見送った。見ず知らずの他人に、更衣室を提供しているのかと思いかけたとき、「妹」ナナコがうつむいて笑いながら言った。

 駅の待合室、あるいは更衣室、その程度の限定性しか持たない結界のなかに住む人物がナナコである。彼女は現在の無限定により間近に晒される位置で生きる者であり、角田光代の登場人物中で現在を現実へと安定的に着地させることが最も困難な一人である。だがここで、彼女の困難は部屋=結界によって保護されないという点ではなく、家族や家庭に保護されないということではないかという疑問もあろう。しかし、家族や家庭をはじめ社会的・常識的な収まりどころが十分な(現在=無限定からの)保護装置になり得ないということは、すべての角田光代の登場人物に共通する前提であり、特にナナコだけがそうであるとは言えない。
 その一方、割合と強く安定的な結界を形作る部屋には、「まどろむ夜のUFO」で主人公の弟タカシがあやしげでスピリチュアルな仲間たちと暮らす、公園の≪滑り台の裏≫の≪私の胸くらいの高さの段ボールの長方形≫がある。

((…)私の部屋につくった囲いでそうしたようにタカシはくつろいで雑誌をめくり、恭一はポケットから爪切りを出して足の爪を切り始め、「ちょっと足の爪飛ばさないでよ、ちくちくするんだから」「平気だって、これは爪を飲みこんじゃうやつなの。キヨちゃんにもらったんだ」と楽しげに言葉を交わす。頭のすぐ上でクラクションが鳴り、涼しい風が髪を撫でていく。(略)雑誌をめくるタカシの足に触れそうな位置に坐り、私は不意に今がいったいいつなのかわからなくなるような色合いの濃い懐かしさを覚えた。今にも母親が大声で私たちの名前を呼びながら現れ、眉間にしわを寄せて段ボールを見下ろしそうだった。

 ここで、タカシと恭一との楽しげな会話、頭上のクラクションや髪を撫でる風といった現在を、現実として手応えのあるリアリティに着地させているものは、≪色合いの濃い懐かしさ≫であり、それは私に子供の頃にタカシとこもった押し入れの感触を思い出させる。だが、ここで懐かしさのなかで呼び出される記憶のなかの母は、タカシの大切な本を捨てることで、私とタカシとがつくりあげた関係を壊した原因の一人であるとも言える(母はイメージのなかでも《眉間にしわを寄せ》ている)。懐かしさの感触のなかに不可避的にそれを破壊する存在が含まれている。母という存在の両義性。この点に、実際の家族の記憶=懐かしさによってでは、現在を現実へと着地させる装置が十分には作動しない理由の一つがある。ここで例外的に懐かしさが現実への着地を可能にしているのは、あやしげでスピリチュアルなコミュニティのもつ家族的な親密さが、親密さの内部に親密さの破綻が既に含まれている実際の家族の記憶の代替装置として作動しているからであろう。そしてこの代替装置のあり様こそが角田光代の作品では重要なのだ。
 一方にナナコのいる、結界としての作用がほぼ機能しない吹き晒しの部屋があり、もう一方で、一時的なものであるとはいえ、結界が十全に機能し、現在を現実へと着地させる装置が有効に作動する部屋がある。しかしそれはどちらも、主人公にとっての居場所ではない。

2.
 角田光代の主人公たちは結界としての部屋を一人でたちあげることは出来ない。結界は常に、誰かとの共同的な場としてしか成立しない。それはおそらく結界が家族的な記憶=懐かしさを呼び起こすものでなければならないのと同時に、家族の記憶そのものとは異なるもの、その代替物、あるいは書き換えでなければならないということと関係がある。この点もまたデビュー作の「幸福な遊戯」から一貫している。そしてこの点が、角田光代の登場人物の困難を決定づけている。
 「まどろむ夜のUFO」の主人公は、部屋に弟が訪れる前まではサダカくんという男性との関係によって現実を構成していた。タバコに番号をふってその順番通りに吸い、きっちり五日に一度会って、ファミレスで九十分話をする。この過度に律儀な反復性が、≪世の中には明日とあさってとがきちんと用意されていて≫≪それがずっと裏切らずに繰り返し、定期的にやってくる≫という安定感を私に与え、それに従って現実が構成される。ここには確かに、現在の不確かさを限定する機能があり、それを誰かと共有するという共同性がある。しかしここには「懐かしさ」を構成する契機が存在しない。サダカくんがたまたま口にした≪「優しくなったおやじとその後の子供たち」≫といったさして意味のあるわけではない昔話に私が反応するもの、そこに微かに宿る懐かしさの感触を欲しているからだろう。
 だが、ここで懐かしさは、実際にあった過去ではなく、つくられた懐かしさであることが必要なのだ。あるいは、実在する時間軸上に配置できない、その外にある懐かしさでなければならない。例えば「真夏の花」で、母が語る終戦後の苦労話は、兄や私(主人公)にとって、母の意図や実情とは異なる魅惑的なものとして響き、幻想の懐かしさを生じさせる。

想像の中、どこまでも続く露店の行列は、見たことがないために逆に何か近未来的な構図となって思い描かれ、完璧な空腹を知らないために母の食べた正体不明のものは再現不能な逸品だったのだと勝手に思い、街にはためく白い着物は闇に潜む魔物のように感じられた。

 そして、このような偽物の懐かしさの魅惑こそが、「真夏の花」の主人公に旅をつづけさせる主な動力となっているようにみえる。母の話の魅惑を共有する兄を当てもなく探して、貧しいバックパッカーとしてアジアを旅しつづける主人公がその風景のなかに見出し、あるいはそこに当てはめようとしているものは、母の話によって与えられた「偽の懐かしさ」そのものであるように感じられる。

数歩戻り、路地をのぞきこんで息を飲んだ。なんの変哲もない小さな路地なのに、そこには所狭しと店が並び人であふれている。(略)カセットテープ屋、八百屋、布地屋、靴屋、脈略なく両側に並んだ店は、天井から足元まで、小さな面積を隙間なく品物で埋め尽くしている。(略)食堂から立ちのぼるスパイスと、魚と肉の生臭さ、見たこともない野菜の新鮮な香りが混じり合って路地に充満し、自分が気に入った匂いの元にたどりつこうとしている蠅になった気分になる。カセットテープ屋は大音量で覚えやすいメロディの曲を流し、ものを売る人々はそれに負けじと大声をはりあげて呼びこみをしている。(略)その雑多で不潔な風景は、懐かしさと興奮と、愛しさと焦燥とを私に抱かせ、夢中で人々の合間をすり抜けながら、大声で叫ぶか泣くか喚くかしたい衝動にかられていた。

 これが「偽の終戦後」のイメージの反復的な書き換えであることは明らかだろう。主人公が見ているのは実際の風景ではなく、それを通して現れるその向こう側にある懐かしい何かなのだ。
 この喧噪に満ちた雑多なイメージは、「まどろむ夜のUFO」の公園の段ボールハウス街や「もう一つの扉」で土笛を買う屋台のイメージともつながり、角田光代において、現在を現実へと着地させるための足掛かりとなる「偽の懐かしさ」の具体的なイメージのプロトタイプとさえ言えるだろう。さらに、この喧噪と雑多さがフィルターを通して濾され抽象化されたものとして、同じく「もう一つの扉」で、男が公園でカッパを目撃する場面が挙げられる。登場人物の男には、突然消えてしまったアサコと一緒に夜の公園で生茂る雑草から緑の手を振って無数のカッパが湧いて出るようにあらわれる場面を目撃した記憶があり、それを自分にとって特別な経験だと位置づけて、アサコの帰りを待ち続ける。

最初閉じていたそれらのくちばしはゆっくりと開き、何か言うように動き始めました。僕は必至に耳をすましました。だんだん音が聞こえてくる。でもそれはカッパの声ではなく、その場に漂う無数の音だった。葉がこすれ合う音、風にふるい落とされた葉が地面に落ちる音、隣にいるアサコの穏やかな呼吸、小さな虫が羽を震わせほかの葉へ飛び移る音、虫の重みで茎がしなる音……逆に言えばそれらすべてが混ざり合ってカッパの声になり、僕の耳めざしてやってきている。目を閉じて聞いていると、それは僕に向けられたコトバのように思えた。

 経験を特別なものとする(現在を現実へと着させる)偽の懐かしさは、現実的な時間・空間上の特定の位置を持たない記憶に根拠をもち、同時に、その懐かしさ=記憶は誰かと共有されたものとしてある。それは無数のイメージや音が重なりあって出来る喧噪やざわめきとしてあり、しかしそれらは互いに相殺し合って、意味の空白とも言えるものとなる。それは私に向かって何かを語っているようなのだが、内容は分からない。そしてそれを共有した者(その経験を保証する者)は姿を消してしまっている。だからその記憶は現在を現実へと着地させる装置として駆動していつつも(浮遊する「現在」に重力による一定の重しを与えてはいるものの)、十全に機能しているとは言えない。だから人物は半現実ともいえる保留された時空で彷徨いつづける。そして、記憶を共有する誰かを見つけることが、その記憶に意味を取り戻すこととなると思われている。部屋とは、この(UFOのように)位置を持たない偽の懐かしさに場所を与えるための仮の囲いであり、その囲いは共同性によって根拠づけられる。
 だがここで真に重要なのは、この偽の懐かしさのテクスチャーであるより、消えてしまった人物(共同性)を探し出すことは決して出来ないということであり、それは、偽の懐かしさが十全に機能することはありえないということである。あるいは、偽の懐かしさは、決して探し出すことの出来ない誰かとの距離によってはじめて発現するものなのだ(「真夏の花」の電話の先にある実家、そこにいる兄というイメージ等)。ここで、不可能なものとしてある共同性や偽の懐かしさは、決して到達できないが不在であることによって機能する(理念やイデオロギーのような)超越的なxであり、それは無限定な現在に方向性や重力を付加する。だが、だとしたら、永遠に不在であるxに蓋をするために、そこに比喩としてのうつくしいイメージを当てはめるといった、「文学」が繰り返し行ってきた行為がここでも反復されているだけなのだろうか。勿論、そうではないと言いたいからこそ本稿は書かれている。

3.
 九十年代の角田光代の作品において、兄あるいは弟の存在感には極めて大きいものがある。「真夏の花」「地上八階の海」『カップリング・ノー・チューニング』「まどろむ夜のUFO」などの作品で兄/弟の存在は欠くことが出来ない。一方、「無愁天使」や「夜かかる虹」といった姉妹という軸をもつ作品もあるが、姉妹の関係は割合分かり易い主人公の分身や反転像としてあって、そこにこの作家の特異性はあまり感じられない(姉妹的な軸が重要になるのはもっと後のこととなる)。
 「真夏の花」や「まどろむ夜のUFO」においては、兄/弟は偽の懐かしさの根拠のような存在であり、「カップリング…」でも、不在の兄の磁力は大きいが、「地上八階の海」ではそれほどでもないようにも思える。とはいえこの兄は、「まどろむ夜のUFO」の弟ときわめて近い感触で描かれている。次に引用するのは両作において兄/弟がはじめて登場する場面。

兄は十一時を過ぎて帰ってきた。ソファでTVと向き合っている私をちらりと見、おう、と短く小さな声で言った。結婚してからの兄は細い銀の縁の眼鏡をかけるようになった。その銀の縁の眼鏡がどうしても兄をコンビニのレジで前に並んでいるような見知らぬ人に思わせる。(「地上八階の海」) 
玄関の敷居を挟んで彼と向き合い、会わなかった二年が頭の中をさっと横切った。(略)タカシは背も高くなっていれば顔立ちも少し変わっていて新聞の集金人にも思えるのだが、それでも見知った弟に変わりないのがかえって恥ずかしく、うつむいて挨拶の言葉を口の中でつぶやいた。(「まどろむ夜のUFO」)

 ここでは、兄/弟への(過去からくる)親しさと(現在からくる)違和感との混じり合った感触が、コンビニで前に並ぶ人や新聞の集金人という形象として表されている。それは見知らぬ人とはいっても、どこにでもいるよく見かける誰かであり、名前をも知らず意識もしないが、ごく近くにいることは感じられるという感触であろう。逆に言えば、自然にごく近くにいるのに、近さや親しさをどこかで拒否されているという距離感でもある。
 もう一つ共通するのは、兄/弟に対して主人公がもつ、独自の性的な感触である。角田光代の登場人物たちは割合に気軽に性的な関係を結ぶ。それは多くの場合あっさりと「寝る」「寝た」と表現されるが、そこには性的ななまなましさは希薄である(「真夏の花」では《格闘技の技を練習してみたけど結局うまくいかなかった》というようなつぶやきが性交の後にされたりする)。角田的人物にとって「寝る」ことは性的な行為であるというよりむしろマーキングに近いものであり、相手の内部に懐かしさや親しさを埋め込んでゆくための行為であるように感じられる。「まどろむ夜のUFO」の主人公は、寝ることのないサダカくんに対しても、成り行きであっさりと寝る恭一に対しても、ほとんど性的な関心をもっていないようにさえみえる。しかし弟のタカシの身体に対しては、他の男性には決して向けることのない執拗で生々しい眼差しを向けるし、自身の身体を密着させもする。

タオルケットで額の汗をぬぐい、キッチンで動き回っているタカシを観察した。丸められた背中はなだらかな曲線を描き、その下から長い手が伸びてまな板を洗ったりガスを止めたり水道の蛇口をまわしている。ジーンズから出たひらべったい素足は右へ左へとキッチンマットの上で横歩きを繰り返す。細くて白いタカシの指が卵の殻をしゃりしゃりとむき、手の甲に筋を浮き上がらせて缶切りを握りしめ、油で手を光らせててらてらと光るチキンを裂いてゆくその様子は、まるで一つなぎの舞踏にも見え、彼の動きに合わせて一筋の音楽が流れているようだった。彼はふと動きを止め、ピンク色の舌を出して油で汚れた指をゆっくりとなめている。
膝を丸めてTVに見入っているタカシの隣で、こんなに近くに坐り合うのはあのころ以来だと、閉じこもった押し入れの狭さと暗さを思い出し、何か秘密を打ち明けなければなせないようにわくわくしていた。

 そしてまた「地上八階の海」においても、兄と主人公は身体を密着させる。

ともにぎゅうぎゅう詰めの電車に押し込まれ、どのくらいひさしぶりだろうと思わず考えてしまうほど体を密着させ、電車が駅に停まるたび奥へ奥へと押し込まれた。兄は石鹸とナフタリンの混じったような清潔なにおいがした。(略)私はすべての思い浮かぶ質問を飲みこむように兄のにおいを吸い込んでは吐き出した。

 あるいは、多分に暗く湿った懐かしさを含むこの感触を性的と名付けることは適当でないかもしれない。しかし、角田光代の作品において、主人公と「寝る」男たちに対しては決してこのような生々しさや近さが描写されないことは確かだと思われる。自然に身近に感じられながらもどこかで親しさが拒否され、しかし執拗な眼差しを向け密着もされるという、他の人物に対してはみられない特別な距離感が、主人公と兄/弟の間に限ってみられる。『カップリング…』や「真夏の花」では兄が不在であるが、しかしそうであることによって作品内に遍在して作品そのものを支えるかのような重要性をもっている。
 さらに、もう一つの兄/弟の特色は、彼らが極端に寡黙だという点にある。この寡黙さは、偽の懐かしさが常に(特定の意味を聞き取れない)喧噪やざわめきとして現れることと裏表の関係にあるように思われる。実際、口から出まかせで語られるが実は何も語っていない饒舌と、何も語らないことで多くを語る沈黙との対比は、ごく初期の作品(「無愁天使」等)からずっと角田光代の作品のなかに存在する。兄は後者の系列に属する。例えば『カップリング…』において主人公(男)は、車に同乗する春香の中味のない饒舌にうんざりしつつも、自らもまた兄に関するいい加減な作り話を友子し続けることとなる。しかし主人公の記憶のなかの兄は、何も語らず、《ただ立って、眺めている》だけで、その沈黙は謎として主人公を把捉し、主人公はそれによって兄に惹かれ、また反発を覚えもする。

泳ぐ熱帯魚や古びたベビー・バスを見つめる兄貴の目は、何を考えているのかわからないようなところがあって、それでぼくはいつも想像した。一瞬のうちに、兄貴が水槽から熱帯魚をすべて取り出してテーブルに並べ、一匹ずつ掌で押しつぶしていくさまを。ベビー・バスに油を注いで、その中に火のついたマッチ棒を投げ入れるさまを。観葉植物の鉢を片っ端からぶちこわしてゆくさまを。何かをじっと、何時間も見つめている兄貴の視線は、そう思わせるようなところがたしかにあった。(略)きっとだからこそ、兄貴はどこかかっこよく見えた。じっと立ち尽くして何かを見つめている兄貴は、何もできないのではなくて、なんでもできるけれど何もしないんだ、そう思っていた。

 兄の沈黙が主人公に《想像》することを促す。その時想像されたものは現実以上のリアリティをもって主人公に刻まれる。沈黙はそれを裏打ちする。そして主人公は、自らが想像したイメージに把捉され、兄の沈黙に触れる度に、沈黙のなかにそれを見ることになる。偽の懐かしさはおそらくそのように創造され、だからこそ兄という(その想像を促した)存在のもつ具体的な生々しい感触と結びつき、それに支えられるのだ。極端な言い方をすれば、角田的人物は、自分で勝手に想像した決して到達できない偽の懐かしさを求めて次々に部屋を移動し、決して発見できないその保証人たる兄/弟の影を求めて次々と男たちをとり換えることを繰り返しているとさえ言えるかもしれない。そしてここで、問いは再び前節の結びの部分と同じ位置に戻る。

4.
 九十年代の後半になると、角田的な部屋のあり様のなかでラブホテルと自動車が特権的な意味を持ち始めるように思われる。それはこの作家の九十年代の探求の一つの成果を形作っている。ラブホテルの部屋は、そこに懐かしさを孕んで現在を安定させる結界としての機能は弱いが、同時に固着性も低く、容易に乗り換えることが出来る。その点で、最初に挙げたナナコの部屋ともタカシの部屋ともあり様が異なっている。自動車で移動する人物たちは行き先の知れない旅の途中にいるが、しかし「真夏の花」のアジアの国々に比べ、偽の懐かしさに把捉されている割合も低い。そして兄(兄的なもの)の存在の仕方にも変化がみられる。ここでは主に、ラブホテルと自動車の系譜の作品についてみてゆくことで前節からの問いを引き受けたい。
 「真夏の花」の主人公や「もう一つの扉」の男には、目標となる探し出すべき相手が存在し、その人物に保障された探られるべきイメージ(偽の懐かしさ)が存在した。「幸福な遊戯」にも守られるべき共同生活のヴィジョンがあるし、「地上八階の海」でも、最後に着地するイメージとして《台風で屋根が飛んだ》実家の部屋がある。それは作品を起動させ、また、作品がそこへと収束してゆく核となるイメージだと言える。しかしその核となるイメージそのものが、不在(穴)であり、同時にそれを埋めるものでもあることで全体を統御する超越的なイメージとして機能する傾向もある。だが『カップリング…』「ギャングの夜」「草の巣」といった自動車とラブホテルの系譜の作品には、たどり着くべき目標も、作品がそこへと収束されるイメージも、さしあたっては見当たらない。
 自動車とラブホテルの部屋が主な舞台となる『カップリング…』の主人公の道行は、まず、買った自動車を友人に自慢する目的ではじまり、そのうちの一人に引きずられる形で距離を延ばし、その過程でたまたま出会った別の女性の事情によってさらに先まで進み、最後にはヒッチハイカーを拾うことでさらに伸びてゆく。つまり定まった目的や根拠がなくそれがズレつづける。しかしもう一方で、主人公にとってこの旅そのものを可能にする自動車は、兄との関係によって生じた偽の懐かしさが形象化されたものでもある。だから彼が出まかせに口にした「兄を探す」という旅の目的は全くの嘘とは言えない。それ自体としては目的のない彷徨(現在)は、兄との偽の懐かしさという意味を裏側にもつことで現実へと着地可能となる。
 しかし実はここで、兄(偽の懐かしさ)と自動車とを関係づける確かなものは何もない。主人公は、兄の沈黙、あるいは兄にとってのロックやレコードに対抗するもの(等価となり得るもの)として、自動車やスニーカーを、恣意的選んでいるだけなのだ。トラウマとも言える偽の懐かしさは、それそのものとしてではなく、それと拮抗する「置き換えられたもの」として発現している。そうであることによって、偽の懐かしさは、実在する兄そのものには拘束されなくなっている。彼が探しているのは、実在する兄(と不可分な偽の懐かしさ)ではもはやない。彼が出まかせで口にした偽の兄こそが、彼が探している当のものなのだ。あるいは、口から出まかせの兄が、実在する兄と等価なものとして交換されている。つまり、口から出まかせを言うという、その行為そのものが重要となるのだ。彼が女の子を隣に乗せて車を走らせ続け、口から出まかせの物語を語り続けける限り、偽の懐かしさは兄そのものから切り離されて作動しつづけるであろう。彼は語ることを通じて懐かしさを書き換えることで元の場所(超越的イメージ)から逸脱する。
 自動車は出てこないが、自動車とラブホテルの系譜の先駆的作品と言える「ギャングの夜」は非常に印象深く重要な作品だ。ここで、小学生の私を連れまわすおばの《よう子ちゃん》の旅の発端は、福引で温泉旅行があたったからというものだが、話が進行するうち、それはどうも嘘らしいということになる。つまりこの旅の根拠は剥奪されている。
 おばは普段からしばしば私を連れまわし、不動産屋へ行って空き部屋を見たりもしているが、私がおばの住む部屋に訪れたことは一度もない。この小説で、小学生の私とおばは、根拠も目的もないままにラブホテルを泊まり歩くだけでなく、ずっと行き先も執着もないひたすらな彷徨のなかにいる。この彷徨は彷徨自体が目的である純粋な彷徨であり、何かが求められているわけではないという点で「真夏の花」などとは異なっている。しかしそれでは現在を現実へと着地させる装置はどうなるのか。当然のように、その部屋=結界のあり様は大きく変わることとなる。以下は、おばが私を連れて空き部屋を見ている場面。

お芝居でもはじめたみたいに大げさな手振りで部屋を歩きまわり、おばは空想の見取り図を描く。決まり事を守るように彼女はいつも空き部屋でそうする。ここにあれがきてここにあれを置いてと、私にでも不動産屋にでもなく夢中になってしゃべる。おばがどこかに部屋を借りていたとしても私はそこを訪ねたことがない。おばは本当に食器棚やテーブルを持っているのだろうか? 空き部屋で描いたとおりそれを配置しているのだろうか? おばがいくら言葉を重ねても、そのとおりの部屋を思い浮かべることが私にはできない。あるいは、そこで暮らすおばを想像することができない。

 ここでは、その内部に偽の懐かしさを注入するための結界として空間が囲い込まれるということとは別のことが起こっている。ここで重要なのは《大げさな手振り》で空間のなかに≪空想の見取り図≫を描くことであり、《ここにあれがきてここにあれを置いて》と言葉にすることで架空の空間をたちあげることである。なにものかを注入するために空間を囲い込んで「部屋」を成立させるのではなく、行為が先にあって、その行為こそが事後的に空間をたちあげるという出来事が描かれている。どこでもないどこかにある偽の懐かしさは、探され、現実的な対象に当てはめられ、囲い込まれるのではなく、具体的に演じられることで(どこにでも)発生する。演じるという行為の具体性の外に「現実」はありえない(現実のおばの部屋を思い浮かべることができない)。この、行為と空間との逆転は、私による次のような内省にもあらわれている。

不動産屋と一緒に住宅街を歩きアパートの階段を上がり、扉を開くまでそこが空き部屋だとわからない。畳の匂いと湿った匂いの混じり合った空気は、不動産屋が扉を開けるまで動かずに停止している。私たちが入りこむとゆっくりと、ぎこちなく空気は動き始める。壁も襖も、むき出しになった電気のとりこみ口も突然の客を試すように見つめている。再び靴を履きそこを出、鍵を閉めてしまうと扉の向こうは無になる気がする。

 空間それ自体はあらかじめ意味をもたず、そこに人物が入り込み、身振りや言葉を発することによって「部屋」をたちあげてゆく。だから決まった特定の場所=部屋としてそれが維持される必要はなくなる。たんに、たまたま突き当たったその都度に開かれるどこでもよいどこかとしての空き部屋は、移動する箱としての自動車や、どこにでもあって変わり映えの無いラブホテルの部屋という空間へと姿を換えて展開してゆく。
 「草の巣」では、文房具の納品と営業のために各地の店舗を車で回りつつ、廃屋から物を拾っては集め、山奥の草の上に≪家≫をつくろうとしている男が登場する。主人公はつくりかけのその≪家≫を見せてもらうために車に乗るのだが、それ以降、なぜかずっと男の隣の席に居座りつづけることになる。その≪家≫とは次のようなものだ。

ついてゆくと山道の途中、わずかばかり平地が広がり、雑草がすべて踏み倒された一角がある。踏み潰された雑草が歪んだ四角を作っているのが、月の明かりでうっすら見えた。それは私の想像していたどんなひどい家とも違った。四角の中には雨曝しになったTVがあり、プラグを草の上に投げ出したビデオデッキがあり、空になった一升瓶が転がっていて、足の一本ないちゃぶ台が斜めに傾いていた。なんのつもりか男に尋ねようと思うが声は出ず、私はその光景の前で動きをとめた。月明かりで薄明るいのに、そこだけ深い闇に沈んだようなその場所を私はしばらく眺めていた。

 吹き晒しの草の上に集められた廃品たち。ここには空間を仕切り、風を遮る段ボールすらなく、共同生活者もいない。男の孤独な営みを見るのは彼とはほぼ無関係の行きずり主人公だけだ。しかも、ここに集められた物たちは男とはまったく関係のない他人の過去の遺物である。しかしそれでも、一か所に何かを集めるという行為だけが、この吹き晒しの場所に僅かに何かをたちあげるのだ。もはや場所はどこでもよくなり、空間そのものに根拠が求められる必要はなくなった。自分の過去も他人の過去も区別はない。しかしなお、そこには演じられるべき偽の懐かしさと、演じる身振りの届け先としての誰か(自動車に同乗する行きずりの主人公)が必要であることに変わりはない。おそらく、兄/弟の系譜に連なる男の寡黙さだけが、かろうじて主人公と男とを繋げている(「寡黙さ」だけが残り、それが兄/弟のものである必要はなくなっている)。自動車とラブホテルという空間は、そのような場所にまで行き着く。

5.
 デビュー作が「幸福な遊戯」と名付けられている通り、角田光代の登場人物たちにとって幸福はそもそも遊戯を通じてはじめて可能になる。そこでは、創作された「偽の懐かしさ」によって結ばれた共同性が演じられる。部屋は、その遊戯を可能にする舞台であり、遊戯の遊戯性を守るための結界であった。偽の懐かしさは、それが偽であることが自覚された上で、その内部に身体をすべりこませ、自らそれを演じることによって現実化することが目指される(「まどろむ夜のUFO」の恭一はスピリチュアルなコミュニティについて《多分八十パーセントはみんな信じてないよ》と口にする)。真偽が問題なのではなく、演じるという行為を通じてそれを現実としてゆくことが重要なのだ。それは、それを演じる者たちの共同性によって、現実とみなしても妥当であるような意味の束へと編み込まれてゆく。とはいえ、偽の懐かしさを一定の共同的なものにまで編み上げることは困難であり、幸福な遊戯は常に崩壊の危機とともに、崩壊しつつあるという形でしかあり得ない。
 角田光代の作品を、決して届かないことによって機能する空虚(偽の懐かしさ)に比喩的なイメージで蓋をするという紋切型から隔てているのは、共同性として機能する偽の懐かしさが、完全に成立しているわけでもなく、完全に崩壊しているわけでもない、その中間にある過程こそが描かれているからである。そしてそこには、その成立への願い、懐かしさに依存することの不可避性、その成立の困難、失望、妥協、あきらめ、誤魔化し、なげやりさ、等々の感触が、具体的な形で記されている。登場人物たちは、自らが依って立つ懐かしさが偽のものであることを知っているし、自らが探し求める人物が不在であるしかないことも知っているが、しかしそれでも、遊戯をつづけることで幻影をスクリーンに投射し、それを現実として妥当なものとして成立させようとしているのだ。その企ては決して十全に勝利することはないが、遊戯をつづけている限り、それをあきらめない限り、完敗することもない。あるいは、遊戯をつづけていなければ、現実は消失してしまう。
 遊戯は、実際に生きている人物によって具体的な身振りとして演じられる。身振りとして演じられる過程で、フィクションとしての偽の懐かしさは行為によって(行為を通して)その都度書き換えられ、フィクション‐現実として定位さる。繰り返される身振り(遊戯)のなかでそれは何度も定位し直される。何度も繰り返し定位し直しつづけるその行為そのものが、「現実」という人が生きられるための場所を開くのだ。おそらく角田光代にとって書くこととは、このような意味での、フィクション‐現実の、定位と再-定位の身振りの果てしない持続であり、その度に少しずつフィクション‐現実をブラッシュアップしてゆくことなのだ。つまりフィクション‐現実を生きることそのものだろう。
(了)

初出 「ユリイカ」2011年5月号 特集・角田光代


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