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潜在的な視線のネットワーク/ s-house (設計・柄沢祐輔)について

古谷利裕

フレームで切り取られた他者への意識

 「s-house」を訪れて感じたのは、自分以外の誰かがこの空間を移動するのを意識する時に、空間の特異な質が立ち上がるのではないか、ということだった。

 たとえば、私がリビングにいて、家主が「コーヒーでもいれましょうか」となった時、キッチンはリビングと同じ高さで、隙間からすぐそこに見えているのに、半階上って書斎を通り、そこから半階降りてようやくキッチンにたどり着く。その動きがすべて見えている。見えてはいるが、高さが半分ずれているので、動いている人はフレームによって枠づけされた別の位相にいる感じになる。キッチンで作業する姿も、隙間から別の区切り方で見える。動いている人の姿は、舞台の上の俳優のようであり、フレームが切り替わるのでモンタージュされた映画の登場人物のようであり、同時になぜか、自分自身の動きを自分で外から見ているかのようにも感じられた。これは他では得られたことのない感覚だった。

高さによって区切られた平面的空間

 「s-house」は、基本的に同型である空間が、半階ずつずれながら組み合わせられている。空間構成の基本単位は2であると考えられ、途中で向きを変える階段によって繋げられた、互いが互いに対して踊り場であるように組まれたふたつの2階建てユニットがふたつ組み合わされた、2×2×3という空間だといえる。

 きわめてシンプルな構造だといえるこの住宅には、(バス・トイレ部分以外は)壁という概念がなく、空間を仕切るものは高さの違いのみである。その高さの違いを繋ぐのが勾配であり、階段だ。だから、高さの違いと勾配だけでできた空間とも言えそうだ。そして逆説的なことだが、繋ぐものである勾配が、かろうじて準─壁のようなものとして、目隠しの機能を担う。

 とはいえ勾配はあくまで、高さの違いを支える床と天井の延長(上ってゆく床と下ってくる天井)と見るべきだろう。上ってゆく床と下ってくる天井が交わって折れ曲がる高さに、半階分ずれた隣の部屋の床がある。この交叉する勾配が、「高さのずれ」に上昇と下降という「動き」の印象を与えている。垂直な壁がないことが、上下方向へとずれてゆく動きを強く意識させる。それは視覚的な効果だけではない。隣の部屋は必ず半階分高いか低いから、移動する時は必ず上るか下る。

 つまり基本単位である2は、上昇と下降の対という意味をもつ。そしてさらに実と虚という意味でもとらえることができる。天井の隣には天井と同じ形のヴォイドが対としてあり、階段の隣には階段と同じ形のヴォイドが対となる。実と虚とが斜めにずれながら反復し、反転する。この構造が繰り返され重ね合わせられるので、反復と反転がどこまでも続くように感じられる。

 上昇と下降、あるいは実と虚がペアであるということの意味は対義語的であるということだ。しかし一方で「s-house」では、同型の空間が半階分、いわば斜めにずれてゆくことでペアとなる。つまり空間と空間との関係は必ずしも対義語的ではない。隣の部屋が必ず半階分上か下かになることは上下方向への「動き」を意識させもするが、それは同時に、ここでは上方や下方への移動と水平方向への移動とに基本的には区別がないということでもある。上=横(隣)であり、下=横(隣)でもあるとすれば、上=下とも言えて、妙ないい方だが、「s-house」という空間を「高さによって区切られた平面的空間」ということも可能ではないか。あるいは斜めへのずれは、反転や対立、0/1のような離散的な関係(対)を、モーフィング(あるいはメビウスの輪)のように滑らかに繋いでしまう、ともいえる。離散的な関係を連続化し、連続的な関係を離散化する。

さまざまな「ここ」による複雑なネットワーク

 「s-house」には、壁がないだけではなく廊下もない。8つの空間は、高さのみで仕切られ(壁がない)、階段のみで繋がれている(廊下がない)。前者は、視覚的な一望性を、後者は、身体を伴う移動の煩雑さを、それぞれ表す。あらゆる場所からあらゆる場所が見渡せるかのような視覚的な開きのよさは、常に自分がいる「ここ」に対応する複数の「そこ」との関係を意識に上らせ、「ここ」を相対化させるが、同時に、すぐ目の前に見える空間へも上昇と下降を繰り返す複雑な経路を経なければ到達できないことにより、「ここ」と「そこ」との距離や分離も意識させるだろう。

 あらゆる場所からあらゆる場所を見渡せるかのような感覚は、逆に、「ここ」にいる私を見ることのできる、あらゆる場所からの潜在的な視点を意識させることにもなろう(それは主に上や下からやってくる)。この家に暮らす「私」を想定すれば、日々、さまざまな場所から、さまざまな別の場所を見ているはずだ。ならば、いま、ここにいる私が、さっき、あそこにいてここを見ていた時の私の視線を意識するかもしれず、昨日、向こうからここを見ていた私の視線を思い出すかもしれない。ならば、明日、あっちからここを見ているかもしれない私の視線も……。

 「ここ」からどこでもが見えるし、どこからでも「ここ」は見える。私の身体が移動すれば、当然「ここ」も移動する。そして「ここ」がどこであろうと、どの「ここ」もまた(異なる角度、異なるフレーミングで)どこでもが見えるし、どこからも見られる。厳密にそうではないとしても、そのような感覚が得られる。ならば、その都度異なる固有の「ここ」が、今は「ここ」ではないが「ここ」でもあり得た別の「ここ」たちと、それぞれが個別でありながら同等のものとして響き合っているような、「ここ」たちによる複雑なネットワークが私の頭の中で形づくられるのではないか。

 もし「s-house」が、そこを訪れるさまざまな「私」に、そのような経験をさせる装置として機能しているならば、自分以外の人が動く様をまるで自分を外から見ているように感じたという経験も納得できる。「ここ」にいる私が常に「そこ」にいた(かもしれない)私からの潜在的視線を感じているならば、今、ここにいてそこの他者Xを見ている視線もまた、他の多数の潜在的視線と同等であり、そこに動く人物を「私」であるかのように見出すこともあるのではないか。そして、あなたを私であるかのように見る視線は、私をあなたとして見る視線をも導くかもしれない。

 そして「s-house」自身もまた、そのような「ここ」であろうとしているのではないか。家は住所を持ち、特定の街に存在する。だが、空間的な近さと経路的な近さが食い違う屋内空間と同様、この家の近所は空間的な近所だけとは限らない。この家は周囲と半分連続しているが半分断絶しており、半分ずれて別のどこかへも繋がる。ここにあるが、ここにはない。

(写真は筆者が撮影したものです。)

初出 「新建築 住宅特集」 2014年6月号

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