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脱去する媒介者/『ユリ熊嵐』論

古谷利裕

デューリング、清水、ハーマン
 アンスティチュ・フランセ東京で行われた鼎談(註1)でエリー・デューリングは、地球の軌道上というイメージを提示し、地上を離れ、基底的なグラウンド(座標・地)が失われることで生じる運動の相対化について語った。軌道上では、地球の上にいるのか下にいるのか、右にいるのか左にいるのか分からない。それは軌道上にある視点の上下前後に依存する(図1)。あるいは、(これはデューリングが挙げた例ではないが)二本並んだ線路があり、列車も二列に並んで停車しているとする。そこで、どちらか一方の電車が動いた時、その乗客にはどちらの電車が動いたのか分からない。自分が乗っている方が動いても、乗っていない方が動いても、いずれにしても運動の感覚は生じるのだ。互いに動いているもの(可動的なもの)同士の間で生じる運動では、運動のルーツがどこにあるのか分からなくなる。そこに、視点の成立しないパースペクティブが生じる。
 このことを端的に示す映像作品に、Ernie Gehrの「Side/Walk/Shuttle」がある。この映像では、ビルが沈んでゆくようであり、空が下からせり上がってくるようであり、地面が上から降りてくるようである(この映像作品は、『少女革命ウテナ』の天から降りてくる城や、『アドゥレセンス黙示録』の前景、中景、後景など、複数のレイヤーが同時に多方向へ動いてゆく画面構成などを想起させる)。(註2)
 同じ鼎談でその発言を受けた清水高志は、互いに運動する物の間に発生する相対的運動に関しても、そこには軸としての第三項が必要であると応える。あるいは、二つの独立したパースペクティブの重なりがあるとしても(たとえばネッカーキュープの凹と凸)それらを反転させる軸としての第三項を考える必要があるはずだ、と。ここで清水はグレアム・ハーマンについて言及する。たとえば、人が木を見ているとする。この時、人は木を完全に把握することは決してできない(木は人から脱去する部分をもつ)。逆に、木が人を見ているというパースペクティブもあり得て、しかしこのときも、人は木から脱去する部分をもつ。この二項だけで考えると相関主義(主客二元論)になる。ここで、人が木を見て、木が人を見るという二つのパースペクティブの重なり---あるいは奪い合い---は、三つ目の項となる第三者のパースペクティブのなかでこそ可能になるとハーマンは書く。ハーマンは二つのパースペクティブの重なりを「第三者があるための機会原因」ともいう。しかし、この第三者は神ではないし、メタレベルに立つ者でもない。この第三者もまた、人と木の関係に対して脱去する。
 清水は、この三者の関係について、パースの記号学における、対象、記号内容、解釈項のような関係であるとする。つまり、対象と記号内容とは解釈項という第三項によって関係づけられるが、このとき解釈項であったものも、ほかの解釈項に対しては対象になったり記号内容になったりする。第三項は、他の二つの項に対してメタ的ではあるが、この三つの項は、その都度その都度で位置を換え得るという意味ではフラットである。このようにすれば、階層構造をつくらない、フラットでかつ三項である関係を考えられるのだと清水はいう。
 ここで重要なのは、第三項はあらかじめあるわけではない(基底的なグラウンドではない)という点だ。第三項が事前にあって、その視点(あるいは精神)によって二項の関係が統合されるのではなく、互いに動いているもの同士の偶発的な出会いが、そこで生じる視点を欠いたパースペクティブが、結果として第三項を生みだすということだ。二つの項の重なりが「第三の者があるための機会原因」だ、というのはそのような意味だろう。
 結論を先に言ってしまえば、本稿の目的は、『ユリ熊嵐』で関係を媒介する女神であるクマリア様とは、ここで言われる事後的に生じる第三項のことだ、ということを示すことにある。

代替因果について
 以上の点について、ハーマンの「代替因果について」(註3)に当たってもう少し詳しくみていく。ここで問題となるのは、二項の関係から第三項が生まれるということの理路であり、ハーマンの哲学の紹介が目的ではないので、それ以外は必要最低限の記述とする。
 ハーマンの哲学の基本にあるのは、実在的対象(実在するモノ)は他の対象との間のあらゆる関係に対してひきこもって(脱去して)いて、他の対象とはただ感覚的な領野でのみ関係するという考えだ。故に、あらゆる因果関係は代替的(代替因果)である、とされる。因果とは、実在(実在的対象)から切り離された幽霊のような「感覚的対象」が、《幽霊列車のように連結されたり解除されたりする》ことなのだ、と。《「代替的」が意味するのは、諸対象がおたがい出会うのはただプロキシを介してのみ、感覚的プロフィールを通してのみである、ということだ》。
 例えば、綿と火とが関係しあって綿が燃えたとしても、それは綿の実在と火の実在が関係しているのではなく、燃えるという出来事はただ感覚的な領野でのみ起こっているということになる。そして、燃えるという出来事が感覚的な領野で起こるものだとすると、出来事が生じるには綿とも火とも異なる、それを観測する第三者(プロキシサーバ?)が必要になる。《つまるところ、二つの存在者がおたがい影響しあうのは、ただ第三の存在者の内部で出会うことによってでしかない》。
 ただし、燃えるという出来事が実在から切り離された感覚の領野で起こっているとしても、そこで起こる出来事は実在にもなにかしらの影響を与えはする。《すべての実在的対象が住まっているのは、感覚的対象の風景、つまり変動によって新しい実在的な接続が生じるのを可能にするようなプレイグラウンドなのだ》。つまり、燃えるという出来事は、綿の実在とも火の実在とも切り離された感覚的な場所での出来事だが、観測者の内で起こるこの感覚的対象同士の関係-接続によって、実在の領野に「焦げた綿」という新たな実在的対象が生まれるのだ、ということになる。そしてこの新たな実在的対象(焦げた綿)もまた、あらゆる関係からひきこもっている。
 (1) 実在的対象はひきこもっている。(2) 対象は感覚的領野で関係する。(3) その関係は実在的第三者の志向のなかで起こる。(4) (2)と(3)により新たな実在的対象(実在性の新たな関係-接続)が実在の領野で生じる。ただしここで、第三者の志向(観測者の観測)の位置は、人や動物だけが担うのではない。あらゆる実在的対象が志向をもつとされる。
 しかし、この図式は分かり易さ優先のため不十分である。大雑把な図式をつかんだ上で、もう少し詳細にみてゆく。ここで、「わたし」が「松の木」を見ているという状況を考えてみる。この時、「わたし」という実在的対象が、「松の木」の感覚的対象を見ている、といえる。しかし同時に、実在的対象としての「松の木」が、感覚的対象である「わたし」を見ている、ということでもある。ハーマンは存在するあらゆるモノに志向性を与える。このこと自体は、ただ二つのパースペクティブの並列、あるいは対決ということにすぎない。これだけでは関係-接続は生まれたことにならない。
 間違えやすいのは、通常、志向をもつのは人(あるいは動物)のみだとされるため、実在的なわたしが感覚的松の木を見ていることが(関係-接続を生む)志向だと勘違いすることだ。だかここで松を見る「わたし」の志向は、感覚的「わたし」と感覚的「松の木」を見ることで両者を関係させている「実在的な第三者の志向」の内部にある一要素にすぎない。とはいえ、この「第三者の志向」は、感覚的な領野での「わたし」と「松の木」との真率な出会いから生まれるのだ。

繰り返せば、わたしと感覚的な松の木との関係は、全面的な接続ではなく、たんに真率である。実際、わたしたち自身やだれかの志向の分析において起こるように、この真率は一つの対象に変わることがありうる。わたしは、自分と感覚的な木との関係を分析するとき、この関係をまず対象に変える。関係はまさにその本性が視界から消えていくかぎりで実在的対象になるのであり、わたしがどれほど多くの分析を実行しようとも汲み尽くせなくなる。(註4)

 わたしが、「わたしと感覚的な松の木の関係」を分析しようとしてその関係を対象化することで、第三者の志向(パースペクティブ)としての実在的な「分析するわたし」が生まれ、その志向の内で「わたし」と「松の木」との関係-接続が生じ、「わたしと松の木の関係-接続」が実在的対象となり得る。この時、わたしに分析を誘発する(要請する)ものは、「わたしと松との出会い」であり、そこでわたしに起こる真率(「わたし」が「感覚的な松の木」に没頭し、夢中になっていること)である。そして、分析するわたしに対して、「わたしと松の木の関係-接続」は、どこまで分析しても汲み尽くせないもの(実在的対象)となる。
 ここで第三項としての「分析するわたし」は、「松の木との関係の内にあるわたし(分析されるわたし)」に対してメタ的な位置にあるといえるが、その分析自体をまた別の分析の対象(の一部)とすることも可能である。つまり、第三項としての位置は常に入れ替われ得るので、ここでの「分析するわたし」は何ら特権的な存在であるわけではない。

第二の、より退屈した観察者は、いまやわたしの分析の分析を実行しようと決意するかもしれない。そうして、わたしの分析をまた一つの対象に変えるのだ。その対象の本性はけっして把握されえず、無限に続いていく。しかし注意しよう。それは無限後退ではない。これらの対象はすべて最初から無限に抱含されているわけではない。むしろ、ますますペダンティックに歪んでいく分析家たちによって嫌気がさすまで少しずつ生み出されていくのだ。(註5)

 第三の項は、二つの項が出会うその度につくりだされ、それもまた対象になる。このようにして、階層構造をつくらない、フラットかつ三項的である関係を考えることができる。第三項は二項に先立ってあるのではなく、事後的に現れるものなのだ。

「宝」と「畑」の寓話
 これまでの幾原邦彦の作品においては、約束=呪い(トラウマ)こそが現状を突破する力となっている。『少女革命ウテナ』では、「気高くあれ」という約束と王子様への過剰な同一化が、ウテナに王子様の呪いである鳳学園の決闘システムからの離脱を可能にさせたのであり、『輪るピングドラム』では、姉の桃果の日記を運命と受け入れ、それを忠実に辿るという行為(姉との同一化)こそが、荻野目苹果(おぎのめりんご)に「運命」という語の意味の反転を可能にさせ、苹果が苹果として生きることを可能にさせた。それは、次のような寓話を思い出させる。
 ある領地の領主がいて、息子が怠け者でまったく働かないことに悩んでいた。そこで領主は息子に、ある土地を与え、そこに宝が埋まっていると言う。息子は必死でその土地を掘り起こし、隅から隅まで探すが宝などみつからない。しかし、その「宝を探す」という行為によって土地はよく耕かされ、豊かな作物を生む畑となった。
 ここで、最初に示された「宝」という言葉は実体をもたないが、しかし、最初は意味を持たなかった宝という言葉が、その言葉によって引き起こされた行為によって、豊かな実りをもたらす畑という具体的なものになり、宝という言葉に、後から意味を充填する。そして、宝を探すという行為は事後的に、畑を耕す労働へと「意味」をかえる。ここで、「宝」は「畑」のメタファーなのではない。「宝」という具体性のない概念が、「畑」と「労働」を生むための起点となり媒介として作用したということだ。宝などなかった、が、宝という概念が、人を動かし、畑を生んだ。幾原作品における「約束」や「運命」は、この寓話での「宝」に相当するだろう。
 しかし、『ユリ熊嵐』の主人公の椿輝紅羽(つばきくれは)は、百合城銀子(ゆりしろぎんこ)との関係に関する重要な記憶を失ってしまっている。そして、二人の関係を媒介するはずの女神クマリア様(惑星クマリア)は、作品の冒頭で既に砕け散ってしまっている。約束は忘れられ、運命は既に破壊されていることになる。

ヒトと熊のパースペクティズム
 『ユリ熊嵐』におけるクマリア様は、人の世界と熊の世界という断絶された二つの世界を媒介する女神であろう。その、女神であり惑星であるクマリアが砕け散ってしまうことにより、熊が見境なく人を襲うようになり、人は、人の世界と熊の世界とを壁によって分断せざるを得なくなる。ここでの人と熊との関係は、人類学が記述するアメリカ原住民のパースペクティズムの世界に近い。パースペクティズムによると、すべての存在は、ヒトも動物も物も、人間と同様の魂を持っていて、しかし、それぞれの存在が異なる形式を持っているので相手を人間だとは認められない、ということになる。ブラジルの人類学者のヴィヴェイロス・デ・カストロは次のように書いている

(…)全ての(もしくはほとんどの)存在が人間であるというならば、外見を額面通りに受け取ることなどできるはずがない。人間に見える何かは動物であるかもしれないし精霊かもしれない。動物や人間に見える何かは精霊かもしれない、というように。(註6)
(…)それぞれの種や存在には活喩法的もしくは擬人法的な統覚作用が付与されており、自分自身を「人」だと見なしている。その一方で、生態系における他のアクタントたちを、被補食者もしくは補食者(…)、精霊(…)、あるいは彼らの文化における単なる人工物といった非-人格、あるいは非-人間だと見なすのである。ジャガーは人間をイノシシだと見なし、仕留めた獲物の血をトウモロコシから作ったビールだとみなす。(註7)
人間およびジャガーは同時に人であることができない。部分的かつ暫定的にですら、ジャガーにならなければ血をビールだと経験することは不可能である。パースペクティヴィズムは、それぞれの種が自身を人と見なしているとするが、それはまた二つの種が同時にお互いを人と見なすことができないとも主張している。(註8)

 ヒトも熊もどちらも魂としては人間である。その意味で対称性がある。しかし、熊が人間の位置にある時、ヒトは被捕食物でしかあり得ず、ヒトが人間の位置にある時、熊は獣でしかあり得ない。両者を同一平面で人間として両立させることはできない。熊の魂は人間であり、ヒトの魂も人間であり、その意味で同等である。しかしたとえ両者がそれを認識していたとしても、熊はヒトを食べ、ヒトは熊を撃つ、という意味で敵対性の構造(補食-被補食関係)は解消できない。断絶の壁とは、このようなパースペクティズムそのものではないか。だとすれば、予めクマリア様が存在した世界など、そもそもあり得なかったのかもしれない。
 媒介の女神、クマリア様は、二種類の表象としてこの世界に痕跡を留めてはいる。一つは、熊たちの共同体から拒絶された一人兜(ひとりかぶと)の銀子が、同じような境遇の拒絶された熊たちとともに信仰する、信仰の対象としてのクマリア様であり、それはステンドグラスに描かれた像として現れる。しかしそのクマリア様は、関係を媒介するのではなく、熊と人とを隔てる壁の女神であり、その像は、輪郭線のみで中味は白いシルエットに過ぎない。もう一つのクマリア様は、紅羽の母、澪愛(れいあ)によって描かれた絵本に登場する。こちらのクマリア様は、遠く隔てられた月の娘と森の娘の間にはしごをかけ、二人の関係を媒介する存在である。しかしこの絵本は二人が出会う結末の部分が失われており、その結末部分が取り戻されるや否や、絵本は蝶子(ちょうこ)によって(惑星クマリアが砕け散ったように)切り刻まれてしまう。そして、絵本を描いた母は、銀子の記憶と同様に既に失われている。
 クマリア様が不在の物語のなかで、現実的に人の世界と熊の世界を媒介しているのは三人のジャッジメンたちであり、彼らによって開かれる裁判であり、つまり「法」である。その法によれば、熊がヒトにメタモルフォーゼする時、自分が最も大切にしているものを一つ失わなければならず、そして、その秘密を人に明かしてもならないというのだ。
(『ユリ熊嵐』という作品は、互いに相容れない複数の「正義の根拠」たちの抗争の場でもある。兵士時代の銀子を支えるクマリア様への「信仰」。嵐が丘学園における「空気」による排除システム。ジャッジメンたちによる「法」。蜜子における「欲望」。そして「愛」、というように。)

四重の三角関係
 熊もヒトも魂は人間であり同等で、しかしたとえ両者がそれを認識していたとしても熊はヒトを食べ、ヒトは熊を撃つ。このパースペクティズムの矛盾(敵対性の解消の不可能性)は、『ユリ熊嵐』では、紅羽を中心とする四重の三角関係として表現されてもいる。まず、紅羽と純花(すみか)との関係を嫉妬する銀子として、次に、紅羽と銀子との関係を嫉妬するるるとして、そして、紅羽と澪愛との関係を嫉妬するユリーカとして、さらに、蜜子(みつこ)が紅羽に近づくことに嫉妬するこのみとして(図2)。
 熊は、人間が自分と同じ魂を持っていると知っているが、それでも人間を食べたいという欲望を消すことができないし、また食べなければ死んでしまう。同様に、銀子は、紅羽と純花との関係をよいものだと認め、純花に対して何の恨みもないにも関わらず、純花に嫉妬せずにはいられないし、純花が存在する以上、自分をその位置につけることができない。自分が純花の位置につくためには純花を消すしかない。これは、心の問題ではなく、パースペクティズムと同様に構造の問題なのだ。
 紅羽は、「透明な嵐」という教室を支配する制度のなかでは排除される標的であるが、四重の三角関係のなかでは常に愛される(愛を得ている)存在であり、嫉妬する(愛を得られない)位置には置かれない。しかし、だからこそ、嫉妬するユリーカによって澪愛を失い、嫉妬する銀子によって純花を失う。純花を食べるのは銀子ではなく蜜子であるが、蜜子は嫉妬や空気や人間関係から自由である純粋な欲望の象徴であり、ただ欲望に従って純花を食べる。そして、蜜子が食べられて消えてしまうことは銀子の願いと合致する。銀子は、蜜子が純花を食べようとするのを止めることが可能だったのに黙認してしまうという形で、(消極的なやり方であるが)紅羽から純花を奪ったことになるのだ。
 『ユリ熊嵐』において、パースペクティズムと三角関係は、紅羽と銀子の関係(約束)を困難にするマクロとミクロの二重の構造であり、パースペクティズムと四重の三角関係は、関係の困難に関する構造のフラクタル的な同型性を形作っている。

るるの過去と、三角関係(パースペクティズム)の乗り越え
 三角関係は例えば、銀子(欲する者)、紅葉(大切なもの)、純花(邪魔者)という三者によって構成される。るるの視点からみてみれば(るるを欲する者としてみれば)、それは、銀子(大切なもの)、紅葉(邪魔者)ということになる。
 しかし、るるの過去において、「大切なもの」が「邪魔者」と同じ存在であったという出来事があった。るるにとって、弟のみるん(そして、弟から与えられる蜜壺)は、自分の地位の特権性を奪う邪魔者として現れるが、それを失うことで、実はそれこそが大切なものであったことを知る。るるが銀子と共に人間の世界にいくのは、銀子がその大切なもの(弟の蜜壺)を再び与えてくれたからである。
 るるは邪魔者のみるんを何度も消そうとする。しかし、弟のみるんは、殺しても殺しても何度でも蘇ってくるゾンビのような不気味さをもっている(その不気味さと逆向きに釣り合うように過剰にかわいく造形されている)。殺しても死なない邪魔者のみるんが、ある時、殺しもしないのにあっけなく死んでしまうことで、るるはショックを受ける。そのショックによってるるは、はじめてみるんと出会うと言える。みるんの死によって、その不死性(何度も何度も蘇っては飽くことなく愛と蜜を与えつづけること)がきわめて貴重なものだったことを認識するのだ。るるは、事故死という偶発的(予測不能)な事件によって、みるんという存在と出会う(あるいは、「みるんの不在」と出会う)。
 そして、失われたみるんの蜜壺が銀子によってるるの元に返される。るるは、銀子との出会いを通じて(それを媒介として)、みるんとの出会いをの一部を取り戻していると言える。故にるるは銀子を思い、その思いのために紅羽に嫉妬する。しかし後には紅羽と和解し、銀子と紅羽の関係を守るために自ら銃弾の盾となる。そのような行為を通過し、るるは、みるん(ひたすら与えつづけるもの)と自らを重ね、それによってみるんとの出会いを取り戻している。自分を変化させることで出会い直す。るるにおいて、(構造的な困難である)三角関係はそのようにして乗り越えられている。
 これを逆からみると、みるんの偶然の事故死(るるとみるん---の不在---との出会い)こそが、銀子という第三項を生んだと考えることもできる。もし、みるんの事故死がなかったならば、銀子が蜜壺を持ってあらわれたとしても、るるにとって銀子は何者でもなかっただろう。みるんの事故死によって、ハーマン的なるる-みるんの関係-接続が起こり、それを媒介する銀子が第三の項として召喚されたのだといえる。
 この時、銀子の方から見れば、るるとの出会いを媒介として、紅羽との出会いが取り戻されていると言える。偶発的な出会い(不在との出会い=出会い損ない)は、第三の項としての媒介者を召喚し、その媒介者を介して、やり直され、再び取り戻される。この出会いの取り戻しこそが、「わたし」と「あなた」の相互変化を伴う真の出会い(代替因果による実在の発生)となる。
 そして、媒介者Cは、例えばAとBとの出会いの取り戻しを実現すると、その三者関係の場から消滅する。つまり、あらたに生じた実在的対象である「AとBとの出会い」は、媒介者Cの志向のなかで生じながら、Cから脱去する。媒介者は、ただ(関係を)与えるだけで、何も得ることはない。しかし、これは自己犠牲ではない。媒介者るるは、銀子と紅羽の出会いを取り戻した後、この関係(この世界)から消えるが、同時に、媒介者銀子は、るるとみるんとの出会いの取り戻しをした後、二人の関係の場から消える、とも言えるのだ。『ユリ熊嵐』のラストでは銀子-紅羽の世界と、るる-みるんの世界はそれぞれに分岐する。もし、銀子と紅羽の世界が「現実」であれば、るるとみるんは死んでいるが、るるとみるんの世界が「現実」であれば、銀子と紅羽こそが死んでいる。銀子の世界とるるの世界は、同一平面では両立しないかもしれないが、それぞれが他から脱去している別平面としては両立している。
 これは、人と熊との遠近法主義的な相容れなさとは異なっている。銀子-紅羽平面と、るる-みるん平面とは、同一平面(おなじ世界)では両立することはないとしても、食う-食われるの関係にはなく、争うこともない。実在的対象としての銀子-紅羽平面と第三項(志向)である媒介者るる(と純花)が創造され、実在的対象であるるる-みるん平面と媒介者(志向)銀子が創造され、つまり二つの相互変化がお互いを媒介し合うことによって、排除と抗争のヒト-クマ平面(嵐が丘学園の排除システム)とは別の世界を創造し、彼女たちは共にヒト-クマ平面を越えた地点に達した、と考えることができる(図3)。

クマリア様の姿
 輪郭線やシルエットとして示され、あるいは砕け散り、切り刻まれた姿で示されていたクマリア様に、最終回で具体的な像が純花の姿としてあらわれる。しかしこれは、あくまで紅羽にとってのクマリア様だから、この姿をしているのだと思われる。つまり紅羽は、純花との出会いを媒介にして、銀子との出会いを取り戻したということだ。『ユリ熊嵐』の世界で超越的な「神」とは、出会いの取り戻しを媒介する媒介者のことであるはずだ。ならば神は、出会いの度に、その都度新たに生み出される媒介者であるから、出会いの数だけあると考えるべきだと思う。そして、神もまたたんなるフラットなモノ(対象)となる(純花もモノとして熊=蜜子に食べられる)。だから、クマリア様の中味は事前には真っ白で空っぽであり、ただ、具体的な出会い(の取戻し)による変化が起った時にだけ、その媒介者の姿となってあらわれるのだ。
 紅羽の罪(傲慢)は、自ら変わろうとせずに、一方的に相手の変化を望んだことだった。しかし、自分を変えるということは、自分の「図」を変えるのではなく「地(グラウンド)」を変えることで、それを自力で行うことは原理的に可能ではない。自分で自分を変えることはできない。鏡に映った自分を砕け散らせることができるのは、既に「あなた」に出会っているからだ。それは、「あなた」との偶発的な出会い(出会い損ない)と、媒介者を介したその取り戻しによってのみ可能であるだろう。この物語は、基本としては、紅羽にとってのその過程が描かれていた。だが同時に、同型の出会いと媒介と相互変化が、作品の様々な処に再帰的に、そして反転的に(様々な視点において)埋め込まれ、響き合い、相互に作用し合っているのがみてとれるだろう。
(了)


(1) 日仏対談シリーズ「ル・ラボ」 vol.15:エリー・デューリング(哲学者)×柄沢祐輔(建築家)×清水高志(哲学者)アンスティチュ・フランセ東京 エスパス・イマージュ 2017年4月13日
(2) ernie gehr「side walk shuttle」は、YouTubeで観られる。
https://www.youtube.com/watch?v=wWRq4SJGtS8&t=13s
(3) グレアム・ハーマン「代替因果について」岡本源太・訳「現代思想」2014年1月号
(4)前掲 「代替因果について」207頁
(5)同前
(6) ヴィヴェイロス・デ・カストロ「内在と恐怖」丹羽充・訳「現代思想」2013年1月号 114頁
(7)同前
(8)前掲「内在と恐怖」115~116頁

初出 「ユリイカ」2017年9月臨時増刊号 総特集・幾原邦彦

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