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【先生】の居た場所の「わたし」/『しんせかい』(山下澄人)書評

古谷利裕

 小説の終わり間際に主人公スミトは、【先生】が主宰する私塾である【谷】を初めて訪れた時に緊張していたかと問われて、その時に犬が吠えていたこと、リーダー格であった藤田さんが鉤爪のついた棒をもってあらわれたことはおぼえているが、その時《自分の中で起きたこと》はおぼえていないという。遡って、スミトが【谷】に到着した場面を読み返しても、そこにも彼の心情は書かれていない。しかし別の場面でスミトは、《来た当時は何ともなかったのに、いつの間にか【先生】にものすごく緊張するように》なったと考える。既に《ものすごく緊張するようになっ》た後では、その前の《何ともなかった》感じがわからなくなっている。つまり、スミトに何かしらの変化があった。

 この作家の他の小説では、作者の想起が直接的にフィクションの地となり、想起の運動がそのまま記述の流れとなっているようにみえる。つまり、記憶の想起と思考の現在、あるいは知覚が区別なくつながる。どんな時間も、場所も、人物も、すべて(書いている・読んでいる)「いま・ここ・わたし」という同一構造をもつことでシームレスにつながる。このような特徴は、一方で時間や場所や人称の整合性、同一性をことごとく解体する『壁抜けの谷』のような小説に至る。しかしこの小説では、それと基本を共有しつつ、出来事はおおむね時間の順番通りに並んでいるし(前後する場面も常識的に回想と解釈することが可能)、視点人物の同一性もおおむね保たれている。自分の寝息を聴いたり、倒れている自分を外から記述するなどの視点のブレはあるとしても、一人の人物が経験した一年間の出来事を書くことから大きな逸脱はない。

 この小説からは、現在から遠くにある過去の自分を探り、その視点から、さらにその先にある情景が描かれているという感じを受ける。十九歳の記憶を想起し、または記憶を捏造している現在の作者と、登場人物である十九歳のスミトは、直接繋がっていると同時にレンズと感光板のような距離があるようだ。 つまり、他の作品では区別なく重なる想起と現在とが、この小説ではぴったりとは重ならない。過去のスミトとそれをみる現在の作者の視線のズレは、スミトが寝ている時に足下に立つ、《ここではないそこで、ここにいるぼくを探していた》黒い服の男として作中に形象化されてもいる。「ここ」と「そこ」は交換できないものとしてある。

 しかし、もし仮にこの小説が、【先生】の私塾である【谷】という場の様子や、その一年の出来事を描こうとしたものだとすると、描かれていないものがあまりに多いといえる。一人のカリスマのまわりに彼を尊敬する人物が集う場に生じるであろう、【先生】からの承認をめぐる嫉妬や愛憎、閉ざされた集団生活における複雑な人間関係、一期生と二期生との間の溝など、そういうことが「ありそうな感じ」が匂わされるだけで、十分に描き込まれているとは言えない。【谷】に集まってきている生徒たちが、どんな人物であるのかあまりよく分からない。

 それらは勿論、この小説の「足りないところ」ではなく、積極的に「書かれなかったところ」と考えるべきだ。主人公のスミトは、あまり他人に興味がない。親しい女性の天にさえも、長く遠くに行くことを話したつもりで話していなかったくらいに興味が薄い。ましてや他人同士の関係になどほとんど興味を示さない。小説に書かれているのは、人間関係に興味がない人からみた、人間関係が面倒臭そうな場の様子だと言える。人間関係の坩堝のような場にいてさえも、スミトはそれとは別のもの(馬やからすや畑や山)をみている。まず、この小説にはそのようなスミトの眼差しが書かれているといえる。

 しかしそれは、人間が書かれていないということではない。この小説では夏の出来事は省略されていて、以下が、夏について書かれたほぼすべてだ。《夏の緑はものすごかった。あらゆる種類の緑が【谷】を覆った。》そしてこの緑をみて、ひどい近視であるというミュキさんが《わぁ》といい、《目が良くなる》といった、と書かれる。つまり、人物は、性格や人格、あるいは人間関係上の位置などとしてではなく、ある状態や出来事に対する反応として描かれる。それは、馬のノーザンと山に入った時にノーザンが突然興奮した、という出来事とかわらない。ベンさんが一人部屋を金で譲ってくれといってきたという出来事も、彼の人格を表現するというより、山の中にキツツキがいたという事実と変わらないものとして提示される。進藤のおじいさんに至っては古い道具と見間違われる。

 とはいえスミトも、遠く離れている天と、親しいけいこに対しては多少の執着を抱いている。天からの「結婚するかもしれない」という手紙に胸をざわつかせるし、夢のなかでけいこから、「山や馬だけじゃなく、人のこともちゃんと見ろ」と責められる。人を人としてみていないことを気にしてはいるようだ。

 そして、他人への関心と言えば【先生】だ。この小説で視点人物がスミトの位置に収斂しているのは【先生】の存在によると思われる。【先生】が存在する場においては、あるいは【先生】との関係のなかでは、「わたし」は十九歳のスミト以外の視点であることができない、ということではないか。スミトにとって、【先生】との関係はただの出来事ではなく、他の誰とも異なる緊張があり、センシティブさがあり、固着があり、面倒臭さがあり、そして依存と反発もある。出来事や人に対し執着の薄いスミトも、【先生】との関係のなかでは一種の委縮が生じているようにさえみえる。良くも悪くも空気が張り詰めてしまうというような。そのような他人はスミトにとってはじめてではないか。

 逆に言えば、【先生】を描くためには十九歳のスミトが必要なのだ。その関係と変化は【谷】という環境で起きた。ここで描かれるのは、十九歳のスミトと【先生】と【谷】との邂逅であり、そこで生じたスミトの変化だろう。三十年が経過している現在の作者には、十九歳のスミトをフィルターとしなければ、その向こうにある【先生】と【谷】が覗けない。

 変化するとは、事前と事後という不連続と、その不連続を跨ぎ超える持続との両方があるということだ。変化を描くために視点人物はスミトに固定される必要があったし、時間や空間も安定している必要があったのではないか。そしてこの変化こそが『しんせかい』であり、描かれるべき重要な何かだと、作者は考えたのだろう。

(初出 「新潮」2017年2月号)

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