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夢の場所、フレームの淵/『水死』(大江健三郎)論 (2)

古谷利裕


4.

 大江の近作において、起こったことと書かれたことという異質な系列の重ね合わせが重要であることは既にみた。しかし同時に、読んだこと(読むこと)の重要性も見逃すわけにはいかない。だが、前作『﨟たしアナベル・リイ…』が、まさに読み替え、書き換えることが主題化されていたのに比べれば、本作においては読むことにはそれほどの重きは置かれていない。勿論、本作でもエリオットの詩やその翻訳、あるいは父が読んでいた『金枝篇』を読み直すといった事柄が軽くはない意味をもっている。しかしそもそも本作は「赤革のトランク」の中味が読むに足りないものであったことからはじまっている(それは読むものではなく、浮き輪代わりのものでしかなかった!)。原語と翻訳との間にある微妙な差異の「オカシミ」についても、ウナイコ等によって(例えば「強姦」を「レイプ」と言い換えることの欺瞞として)批判的に言及されている。本作で、読む/書くという行為よりも、より直接的に受け手(観客/読者)からのリアクションにさらされる演劇が焦点化されていることも見逃せない。

 では、本作において「読むこと」の重要性はどこにみられるのか。それは古義人とアカリとの関係においてである。本作に限らず、作家本人を想起させる主人公とその息子との関係は、大江作品において、他の人物達の関係とは異質な特別な系列を形作っている。ある意味で、(自身の前作を批判するかのように)読むこと、読み替えることの失調や不毛さを際立たせているかのような本作において、古義人とアカリとの関係だけは別の力学が働いているようなのだ。

 生涯で最後の小説になるはずだったものの執筆計画を断念せざるを得なくなって失意に陥った古義人は、その憂鬱のなかで、知的な障害をもつ息子に対して「きみは、バカだ」という言葉を二度にわたって投げつけてしまう。その言葉に怒り傷ついた息子は、父との関係を拒絶する。この関係の断絶と和解は、本作中盤の展開の中心にあるとは言えないが、常に作用しつづける大きな緊張として横たわっている。癌の発見によって手術を余儀なくされた古義人の妻の千樫は、入院を機会に夫と息子を二人で夫の故郷の森へと滞在させることを考える。そして闘病中の自らを励ますために、夫が今まで書いた小説のなかの息子のセリフのみを切り取った冊子をつくることを夫に要求する。

そこでアカリの言葉としてあなたが書いていられるものを、書き抜いてほしいのです。アカリの言葉については、事実をそのまま書く、粉飾しない、アカリは自分からそれを訂正してくれと言い出すことはできないからと、あなた自身が本気でいわれたことを覚えています。

 ここにまず不思議な空間のよじれが読み取られる。本作の主人公古義人は大江本人とほとんど重なる人物であり、読者である我々は現実の大江が多くの小説で息子の言動を書いていることを知っているし、またそれを読んでもいる。だが我々が読んで知っているのは小説の登場人物としての作家の息子であり、それがいかに実在する作家の息子を思わせるからといって、両者をぴったりと重ねあわせはしない。確かに、作家本人は「現実の私/(書く人としての私)/書かれる私」という形で作中人物とほぼ重なっているはずだと本稿では主張してきたが、それは作家=主人公という一点においてのみのことで、そこで書かれている小説内世界は、あくまで起こったことと書かれたこととの混合体であり、息子もまた、そのような作中世界によって造形された息子であると考えるだろう。

 だがここで引用した千樫の手紙は、それが息子の《言葉》に限っては、《事実をそのまま書》いた《粉飾》のないものだと語っている。つまり息子の発言に関しては、起こったことと書かれたことの間にズレも齟齬もない、と。この千樫の発言は、いわば作中人物の役割を超えたものであり、その言葉の射程が現実世界にまで届いてしまうものだ。いや、実際には、ここで語っているのはあくまで本作の世界の内にいる登場人物である作家の妻であって、この言葉が小説の外にまで波及する事実であるという保証はないはずなのだが、しかしそれでもなお、この発言は作中世界のフレームをはみ出す「効果」をもってしまうだろう。この言葉は、作品の淵を飛び越えて「そうか、大江は息子の発言は正確にそのまま書いているのか」と読者に自然に思わせてしまう。

 そして、さらにねじれているのは、ここで、父と断絶中であるアカリが、父によって書かれた自分の言葉を集めた豆本を熱心に読んでいるという事実だ。そして作中で、父の手によって以前の小説に書かれた自分のセリフを、アカリ自身が自己引用するかのように反復するのだ(その反復は、二人の関係の回復に少なからず影響を与えているようにみえる、《大丈夫ですよ、パパが戦いますからね!》)。父によって小説に書かれた息子の言葉が、母の意志によって個別の文脈から切り離され、新たな豆本としてまとめられ、そこに拾われた言葉を、もともとそれを発した息子が読んで、再引用する。作中に書き込まれた千樫の発言を真に受けて、そのような事態が実際に作品の外にいる現実の息子にも訪れたのだとしたら、それをまた、父である作家がこの小説(『水死』)に書き込んだ、ということになる。小説の内と外とを貫く、奇妙なループの存在が(読者の頭のなかで)想定されてしまうのだ。

 この奇妙なループを、起こったことの次元と書かれた事の次元に分けてみる。(推測される、『水死』が書かれる前に)起こったことの次元では、作家が息子の発言を作中に書き込み(『新しい人よ目覚めよ』等)、それを抜き書きして引用したものを、息子が読んで引用-反復し、その事態を作家が作品『水死』のなかに書き込んだ。そして『水死』に書かれたこと(作中)の次元では、登場人物、古義人の過去の作品(それは大江の作品と正確に重なる)から引用された登場人物アカリの発言が抜き書きされ、それを読んだアカリが自ら引用-反復する。そして、登場人物千樫によって、古義人の書いたアカリの発言は《粉飾》のない《事実》だと証言される。ここで二つの次元を繋ぐのは、古義人によって書かれたとされる小説と大江によって書かれたそれが正確に一致するという事実であり、それだけであれば、ただ作家-主人公という位置において、起こったことと書かれたこととが合流していることを示すだけだ。だがそこに千樫の発言が加わるとどうなるか。

 論理的には何もかわらない。だがここを読む読者には、少なくとも「発言」という次元においては、息子=アカリであるかのような一人の人物が、作品というフレームを破る力と共に見えてしまう。だがそもそも、「推測される、起こったこと」としてここに書いた事柄は、作中の千樫の言葉を「作中」という限定を越えて受け取ってしまったからこそ出てきたことなのだった。つまり、ここで起こったこととされる「事実」(というより、作品の内と外とを貫くループ)は、あくまで『水死』という小説に「書かれたこと」を読んだ読者の頭のなかに幻として発生した「作品の外」の姿であり(フレーム内によって生まれるフレームの外であり)、作品によってみられた夢であり、夢としての事実(作品内から浮上した作品の外)なのだ。だからこの発言は、作品内のアカリとも、作品の外に実在する作家の息子自身ともまた別の、幻のもう一人を出現させる。「現実の息子/(幻のもう一人)/アカリ」ということになる。だがここで、《粉飾》のない《事実》だとされるのはあくまで《言葉》であった。だから、現実の息子と作中のアカリを貫く力は、コギーのような見える/見えないという両義的イメージではなく、はっきりと読み得る《言葉》としては明確に顕在化される。コギーはイメージとしてあるが、息子は言葉としてある、という違いがある。

 ここでアカリの言葉が抜き出され、豆本として改めて製本され、再引用されることの意味は、一義的にはアカリの言葉こそが(「赤革のトランク」の中味とは正反対で)特権的な、読み返し、読み替えるに足りる価値のある言葉であるということを示しているだろう。石碑に刻まれた母の言葉もまた、作中でアカリの言葉に近いものとして機能している。だがアカリの言葉は、それを読み、引用するのが、他ならぬ元々の発言者であるアカリ自身であることによって、そのような分かり易い解釈では収まらない、特別の位置を得るのだ。

そうですか、来週の日曜日に帰ってきますか? そのときは帰ってきても、いまパパは死んでしまいました、パパは死んでしまいましたよ!
そうですか、五月の初めには帰ってきますか? そのときは帰ってきても、いまママは死んでしまいました、ママは死んでしまいましたよ!

 『新しい人よ目覚めよ』で書かれ、『水死』で再び引用され、さらにパパとママ、来週の水曜日と五月の初めが入れ替えられた上に再度反復されるこのアカリ=息子の言葉が、本作において特権的に響くのは、たんに『金枝篇』で書かれる受け継がれる王の霊魂や、『平家物語』における憑坐という主題と響いているからではない。むしろ、今までみてきたような形で、この言葉が置かれるべき特権的な場(作品内にある作品の外)が設立されることで、それらとはまったく別の響きを、ただこの言葉だけが獲得しているからなのだ。

 本作は、最後の最後まで『こころ』の先生の「殉死」に引っ張られており(それはより端的には三島由紀夫に引っ張られているということだと思われるのだが)、それを筆者は「納得出来ない」と感じるのだが、その強力な引力にかろうじて抗し得ているのは、(言葉そのものというよりも)この言葉が書かれるべき特別な場が、本作においては成立しているからなのだ。


5.

 本作における夢の位置についてもう少し考えてみたい。その時がくれば帰ってくるが、今は死んでいる、または、今は死んでいるが、その時が来れば帰ってくる。アカリのこの言葉は、憑坐が入れ替わっても物の怪が帰ってくる、あるいは、衰弱した王の魂が若い王に引き継がれるといった話とは次元を異にする。後者は歴史の連続性、つまり時間の連続性を示すものだが、前者はその外から響く、生と死との反転可能性についての言葉だと言えよう。連続した時間のなかで魂が回帰するのではなく、「今」と「その時」とが連続していないからこそ、今、死んでいても、その時には、生きている、その時には生きているとしても、今は死んでいる、と言える。この言葉はだから、単線的な時間軸をもつことができない。そしてそのような位置は、実は、それが「言葉」であることによって可能なのであった。

 本作では、「赤革のトランク」に封印されていた、かつて古義人が書いたとされる「水死小説」草稿の一部が引用されている。今までみてきたように、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』は現実に大江の小説として実在する。対して『メイスケ母出陣と受難』という戯曲はおそらく実在しないと考えて間違いないであろう。しかし、この「水死小説」草稿はどうなのだろうか。『水死』というこの小説のライトモチーフでもあると言える、大水の日に父が短艇で川へ乗り出し、自分はそれに乗り遅れ、短艇にはコギーの姿があるというこの場面は、三十代前半の大江健三郎によって実際に書かれたものなのか、それとも、この『水死』という小説のために、過去に書かれたものとして、現在の大江によって書かれたのか。作中人物である古義人は、《四十数年前》に書かれた草稿を読んで次のように考える。

私は現にいまも見る夢の光景を書いた四十数年前の草稿に、リアルにコギーが出て来るのを忘れていた。そして自分に親しい、その夢の(同じ一つの夢だが、夢を見るこちらの体調によって差異はある)終わりのシーンを検討し、夢を見るたびいつもコギーがいて、ある表情をするのを見ていたのをあらためて認めた。

 古義人が草稿に書いたこの場面は、古義人にとって少年の頃の実際の経験として記憶に残っており、さらに、それを現在に至るまで繰りかえし夢で見ている、というものだ。そして、四十数年前に書いた草稿を読み返すことで、改めて、現実でもあり夢でもある、その記憶を確認する。ここで、この経験がたんに夢の記憶ではなく、現実として起こったことの記憶が夢に反映されているのだということが強調されるのは、この記憶の中に自身の分身であるコギーの姿が刻まれているからである。そんなに繰り返し夢に見たのであれば、この場面全体が夢なのではないかという疑いも生じるはずであるが、それは、この場面が古義人だけでなく、母からも大黄からも(コギー以外の部分はそっくり)目撃されていたことで保証されている。だからこの場面そのものは、作中世界のなかでは現実という位置にある。

 この場面が、作中世界のみならず現実の大江の経験でもあるのかという点については、ここでは大して問題ではない。では何故、この草稿が実際に書かれたかどうかが問題となるのか。それは、この場面が、夢や記憶の想起として描写されているのではなく、「《》」に括られて「引用」されているからだ。本作において、「《》」で括られて引用されるのは、大江作品としては『懐かしい年への手紙』と『空の怪物アグイー』であり、それは作品の外に実在する小説である。つまり、それらの出自ははっきりしている。小説において、同一のイメージが描写される場合でも、何通りかの違ったやり方が可能であろう。それは、古義人によって見られる夢が《こちらの体調によって差異はある》と書かれていることと相関的だ。しかし、言葉によって書かれたものが、言葉として引用される場合、それはまったく同一なものとして反復される。それは、その都度微妙な差異を含み、想起それ自体が読み替えですらある記憶-イメージの回帰とは異なる、絶対的な同一性のもとにあるのだ。同一性を保証された言葉は、だから時間の外にある。

 過去に書かれたものが引用される時、そこには絶対的に同一なものが回帰する。だからこそ古義人は、それを読んで自らの記憶を《あらためて認め》ることになる。アカリの言葉が《粉飾》のない《事実》だと言われる時、そこにはこのような厳しさがみなぎっている。書かれたことが起こったことと同等の「現実」であると言える根拠の一つは、書かれたことは一字一句違わないものとして参照可能であるという事実があろう。それは、引用として作中にあらわれる言葉は、作品の連続性から切り離されたフレームの中にあるということでもある。つまり、引用部分は作中の連続性のなかで確定された位置をもつことが出来ない。作中の構造のみではその地位を保証できない。だからこそ、例えば、この引用は『懐かしい年への手紙』からの引用であると、作品外の根拠が示される(それは通常のフィクションとしてはねじれたものだが)。少なくとも『水死』のなかでは、架空の作品だと思われる(外部に参照が不可能な)『メイスケ母出陣と受難』は描写や説明はされても、(「口説き」の部分以外は)直接引用はされない。本作は、そのような姿勢-倫理に貫かれて成立しているように思われる。

 しかし唯一、「水死小説」草稿の部分だけは、作品外に根拠をもたないままで引用される(あるいは、引用とされる)。それによって、この場面まるごとが、作品の時空の連続性から切り離される。切り離されることで、特別の位置、位置が特定されないという位置を得る。夢であり記憶でもあるこの場面が、回想の描写ではなく、絶対的な同一性を保証される草稿の引用として示されることで、夢を模倣するのではなく、作中で構造的に夢と同じような位置をもつことになるのだ。それによってライトモチーフとなり得る。

 ここで改めて、本作のラストをみてみたい。古義人は、大黄が起こす事件が進行する間、分量を間違えた睡眠薬によってぐっすり眠っており、その顛末を事後的な他人からの伝聞という形でしか記述できない。これもまた、一人称で書かれた小説の技法的処理の問題とみることは間違っていよう。古義人は、深い眠りのとぎれとぎれの夢のなかで、大黄が森の奥へと上ってゆく、その後ろ姿を、父の時と同様に《(やはり自分がただ)見送っているものであったのを思い出》すのだから。大黄の森の奥への出発は、父の大水への船出と同様に、古義人によって夢見られたもの(夢の位置にあるもの)でなければならないのだ。だが、父の場面が、引用という保証された同一性において示されたのとは真逆に、この夢の記憶-記述にはまったく何の根拠もない。夢というよりむしろ、後からの伝聞によって捏造された記憶であると言った方が良さそうなくらいだ。そして最終段落の大黄の描写もまた、古義人の勝手な想像に過ぎない。父の場面とは逆に、大黄の場面は、徹底した根拠のなさによって、同様に作品の連続性から浮遊し、区切られている。夢として、作中の現実(連続性)から切り離され、囲い込まれることによって、その小さなイメージが、限定された無限定へと反転し、作品全体よりも大きく、いや、作品の外であるこの世界全体よりも、大きくひろがることが願われているのだ。

 そして、もしそれが実現されるならば、「父/(コギー)/大黄」として同一化されたイメージが、「父/(古義人)/大黄」へと展開してゆくことによって古義人は、父や大黄という系列と繋がると同時に、括弧のなかの古義人=コギー=書く人という系列にも連なり、アカリの言葉がそうであるような、時間の外に立つ場所を手に入れる。つまりそれは、古義人と重なる大江健三郎自身にとっても、そうである、ということだ。それは、今、死んでいても、別のある時には生きているようなことが可能な、生と死とが反転し得る場所であろう。

(了)

初出 「増刊 早稲田文学π(パイ)」2010年

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