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コロナで母が亡くなりました。


 2021年5月11日 午後3時56分 母が逝ってしまった。

 病名はコロナ

 場所は大阪の病院


 コロナに感染してしまった80代以上の人たち、入院してる人たちの現状をお伝えしたほうがいいと思ったので書き残すことにした。今、本当に悲惨な状況であることを知ってほしい。転院もできず、ただ、弱るのを、死ぬのを見守るしかない家族の辛さ。どうしようもなく、ただ、すごいはやいスピードで命が奪われていくのがコロナ感染。ニュースで報道されているよりも、現場はもっと深刻で、命の取捨選択をせずにはいられない、まさに有事であると体感した。

 母がコロナ感染する前から、感染し、亡くなるまでを時系列で書いていこうと思う。ちょっと前まで、元気で憎まれ口を叩きながらも、どこか可愛げがあった母のまさかの死に、今もまだ実感がない。

2021年4月23日(金)
ヘルニアの手術のために、術前検査でPCR検査を受けて、陰性だった。

2021年4月26日(月)
 私の娘、母にとっては孫娘に付き添われて、病院へ入院。
この日、私は午前中に仕事があったので、それが終わってから大阪へ向かった。

2021年4月27日(火)
 母、手術無事終える。今は、コロナなので病院で待つのではなく、自宅で待機して、夕方、病院より無事に手術が終わったと報告を受ける。

2021年4月28日(水)
 母から電話。持ってきてほしいものを言われるが、まだ管理食なので、洗濯物だけ受け取る。差し入れも、1Fの受付で預けて、渡してもらったり、受け取ったりする形で、母とは携帯で話すか、LINENのやりとり。


2021年4月29日(木)
 今日はお風呂に入れるとLINE。ラジオを持っていく。


2021年4月30日(金)
 付き合いのある大阪の会社訪問。母からは、明日でいいので飲み物やドリンクゼリーの差し入れを頼まれる。
 腰の手術あとの写真を送ってくる。腰が楽になり、足のしびれもなくなったと喜んでいる様子。リハビリも順調のよう。


2021年5月1日(土)
 娘が埼玉へ帰るので、お小遣いをあげてと連絡がくる。朝に地震があったのでその心配もしてくれた。洗濯物を取りに来て欲しいこと、タオルを持ってきてほしいと連絡があり、持っていく。
 帰りに、雨が降ってきて、かなり強めの雨でずぶ濡れ。
その事に対して「ごめんね」とLINEがくる。
 なぜか、USBが壊れ、ファイルがすべてアウトになったこと、Wi-fi環境もなく、借りたポケットwi-fiも思ったより容量が少なく、仕事にならないことにイライラ。埼玉で入院、手術してくれていたら、こんなイライラはなかったのにと、思いながら、母が退院してきたら、埼玉へ来るようにもう一度話をしようと思った。


2021年5月2日(日)
 リハビリも順調に進んでいる様子。明日の検査次第では4日か5日には退院できるかもと連絡がある。


5月3日(月)
 4日か5日に退院できるなら、今日あたり先生から話があるだろうと、先生から退院の話はでたの?と聞くと、採血で炎症の値(CRP)が高いので、7日に採血をしましょうと言われたと。私は最初の予定では8日には埼玉へ帰る予定だったので、最悪9日の夜に帰れば、仕事はなんとかなるかなと、予定変更を考え始めた。


5月4日(火)
 14時頃、病院から電話。母がコロナに感染していると…。

頭が一瞬、真っ白に。母はリウマチの薬の関係で、間質性肺炎の経験があり、「コロナにかかったら、あかんよ!死ぬよ!」と話をしていた。母はコロナに感染しないように、人一倍気をつけて、出かけず、行くのは定期的な病院くらい。
多分、コロナに感染したと知ったら母は絶望してしまうだろう…
「先生、コロナに感染したのは言わないで欲しいんです」とお願いした。でも、母は、83歳にしてはボケもなく、頭がはっきりしているだけに、状況の変化の説明を求められたときに、整合性がなくなるので、ちゃんと説明しないと駄目だと思いますと、先生に言われた。確かに…。母は「なんで?」と聞くだろう。

 これから個室に移動となると説明を受けた。また、状況が変わったことでパニックなる患者さんもいるので、その時には拘束する可能性もあると説明を受けて、承諾を求められる。こちらは「はい」と言うしかなかった。

 今、着ているものはすべて廃棄となります。病院のものに変更します。一度、病室に入れたものは、外には出せませんのでと言われたので、母との唯一の繋がりとなる携帯電話だけは、病室においてもらうようにお願いした。

 保健所から連絡がないと転院できないこと。母の入院している病院はコロナ患者受入れ病院ではないので、設備が揃ってなく、酸素ボンベと投薬治療だけの対応であるとの説明も受けた。


 私が大阪に来てから一度も母に会えていない状態。母の生命力にかけるしかない。もう祈るしかなかった。弟に母がコロナに感染したことを電話で伝えた。


 15:33 LINEで
「やちやんばあばころなにかかた」(やっちゃん、ばあばコロナにかかった)

 母から連絡。母の心が折れているのが手にとるようにわかる。気が強い母なのだが、実は小心者で、寂しがりやで怖がりなのを誰よりも知っている。ただ、励ましの言葉をLINEで送るしかなかった。


5月5日(水)
 朝、母のルーティンである「おはよう」LINE。これだけ見ていると、コロナに感染しているなんて思えない。でも、事実だ。
 4日の弟のLINEには、「もう長いことはありません」ときていたらしい。
私の旦那も母に励ましのLINEをすると、「あとのことはたのみました」ときていると知らせてきた。

 血中酸素濃度は96~99%が正常値なのだが、母はすでに取り入れにくくなっているようで上がったり、下がったりしているらしいが、この時はまだ、92%あるとLINEで知らせてくれている。
 友達に自分がコロナ感染していることを言わないでとLINEがくる。ここは本当に母らしい。まだ、誰にも言えるわけがない。とにかく励ます言葉をLINEで送る。


「やっちゃん心配かけました本当にごめんね♡」


「ご飯は食べれてるの?息は苦しくない?」と聞くと

この日は朝ごはんのおかゆは全部食べたというので、安心した。
味覚がなくなっているのか、ご飯の上にかける味付きのちりめんじゃこを買ってきてほしいと言われた。食べる意欲がある!そういうことが、希望になる。

 病院からの指導で、食べきれなかったものはすべて廃棄するので、なるべく小分けにしてきてくださいと言われたので、1食ずつに小分けして、8つ用意した。母はきっと頑張ってくれる!と奇跡をまだ信じていた。

 先に亡くなっている父の写真にむかって、「まだ迎えにきたらあかんで。見守っててや」と独り言のように何度もお願いする。


 父のお仏壇をちゃんとしていることで、母を安心させようと、お花の水を取り替えたことやお供えをしたことをLINEで報告。

 まだ母に食欲があることで、ちょっと安心した。

でも、母は迫る死を感じたのか、私に大事なものを置いている場所を伝えてきた。


5月6日(水)
 朝の「おはよう」ではなく、
「1日1日と息が辛くなります。夜中おしっこがしたくても、中々来てくれず、尿パッドを5枚位持ってきて」とLINEが入る。

 後から聞くと、トイレに自力で行くだけでもハアハア息苦しい感じだったらしい。母は、まだ生きることに前向きで、自分で出来ることはやろうとしていたと思う。

 とにかく持っていくものは、いちいち看護師さんや先生の許可をもらうようにしていた。この日の朝は、ヨーグルトと果物だけ食べたと。
 母の入院が長引いているのを心配して、母の友達から私に連絡があったが、炎症値(CRP)が高いから、ちょっと入院が延びたよと伝えたと母にLINEを送る。

 このとき、すでに母はLINEするのも辛くなってきていたようで、LINEはしんどいからできないと言っておいてねと。弟には私から伝えてと。

 その後に、LINEが入り、電話も入るが、看護師さんが母の代わりをしてくれていた。かなり息が苦しいようだ。


5月7日(金)
 母からの朝のルーティンのLINEが来なかった。
昨日のLINEが母からの最後のLINEとなるとは、この時は思っていなかった。孫たちも、毎日、LINEをしていたが、既読にならないと心配していた。

 私ももう腹を決め、5月の仕事の予定を代わってもらえるように手配した。


5月8日(土)
 14:16  看護師さんが母と電話で繋いでくれる。「頼むわな」と言ってるが、ハアハアしてること、息も絶え絶えで言ってくれた言葉だ。この言葉が最後になった。

 16:47 病院から電話。胸が締め付けられる。個室から、ナースステーションの横の部屋に移動になったので、ガラス越しに面会できますよと。すぐに行きますと、病院に向かった。母が入院してから、初めて顔を見ることになる。

 酸素マスクをして、看護師さんが、「娘さんが会いに来てくれたよ」と、伝えガラスの方を指さしてくれた。私が手をふると、母も手を振り返してくれた。まだ、手をふる元気がある。まだ、母は大丈夫。頑張ってと心で祈る。
母が夜に息苦しくて、何度もナースコールを押すので、多分不安なのだろうと、部屋を移動してくれたと聞いた。なるべく寄り添うようにしていますといってくれた。同じ部屋にはもうひとり、患者さんがいて、その方もコロナ感染しているとのことだった。
 看護師さんと直接ゆっくり話が出来るのは、それが初めてだったので、


コロナ患者が他にもいるのか?(いたのか?)

転院できた人はいるのか?

母がコロナになったことで、他に感染させてないのか?など色々と聞いた。

看護師さんの話しぶりでは、私の憶測だが、母がコロナに感染する前に、すでに感染患者がいたようだ。そして、誰一人、コロナ専門病院に移動ができていないこと、大阪の状況が、本当にひどいことなどが看護師さんの言いにくそうな中にも、伝えようとしてくてれている感じを受け取れた。

コロナに感染しているというだけで、なんだか後ろめたい感じになる。なんだろう…。コロナ患者を受け入れていない病院で診てくれているだけでもありがたいと思うべきなのだろう。看護師さんも感染リスクを抱えながら、対応してくれている。酸素はマックス。それでも、血中酸素濃度は上がらない。
酸素マスクなので、喉がとにかく乾くらしい。
近くにも行けず、ガラス越しに見守るしかできず、話も勇気づける事もできなくて、本当に胸が苦しい。

 看護師さんが、「娘さん、今日埼玉へ帰るんですか?その前に会っておいたほうがいいと思って連絡したんです」と言われ、「一応、仕事は代わってもらうように手配はしてるんですけど、もし安定しているようなら、子どものこともあるので一度埼玉へ帰ろうか迷っています」と伝えると、「そうですよね…。でも、帰っても大丈夫ですよとは言えない状況です」と看護師長さんに言われた。


 母の命がいつどうなったしまうかわからないくらいの深刻な状況なのだと改めて思い知らされた。そこで、私も腹を決めた。いれるだけ、大阪にいる!


5月9日(日)
 母からのLINEは入らない。
私もどれだけ夜遅く寝ても、朝早く目が覚めて、あまり眠れない。
でも、目が覚めると、病院から連絡がなかったということは、生きている証だと思って、ちょっと安心して「今日も生きていてくれてありがとう」とつぶやく。


5月10日(月)
 朝、目が覚めて、病院からの連絡がなかったことで、今日もがんばてくれたと思って、LINEで「がんばってくれてありがとう!」と送る。大阪の会社に用事があったので、すぐに帰るつもりで出かける。

 11:00 病院から電話。「危ないかもしれない。何時ころに来れますか?」
土曜日に手をふる元気があったから、まだ死ぬわけがないと思っていたので、2時くらいには…と伝えると「そこまでもたないかもしれない」と言われ、慌てて帰ることに。大阪の会社には事情を説明し、打ち合わせができないまま、すぐに病院へ向かう。


 12:15頃には病院に着いて、ガラス越しに母をみる。母の頭の方にある装置は警笛音が鳴っているが、それは日常茶飯事なのだろう、看護師さんたちは気に留める様子もなく、私の胸だけがドキドキして、息が苦しくなる。
看護師さんに、機械の数値の見方を教えてもらった。
 私が病院に着いた時には、母は少し持ち直してくれていた。
看護師さんから「ご家族で会わせたい方がいたら、今のうちに。弟さんがいらっしゃるんですよね」と言われた。弟には電車移動中に連絡をとっていた。これから大阪に向かうと言っていたので、夜には着くと思いますと伝える。

看護師さんが、母に私が来ていることを伝えてくれる。
でも母の目は開いていない。体勢も変えてくれて、私の方に顔を向けてくれたけど、なんの反応もない。ただ、ガラス越しに見守るしかない。

 母は排泄をしていたらしく、看護師さん2名でおむつを替えてくれた。カーテンで隠れているので見えないが、排泄をしているということは、生きている証だ。まだいける!母は、まだ頑張ってくれると信じたい想いが強かった。

 しばらくガラス前に座っていた。担当医ではないらしいが、先生が状況説明に来てくれた。かなり血中酸素濃度が低くなっていて、コロナに効くとされる投薬治療はしたが、快方に向かわないこと、もともと持っていた間質性肺炎、そしてコロナ感染で状況がとてつもなく悪いこと、コロナ感染対応病院ではないので、これ以上の治療ができないことが伝えられた。

もう、どうしようもないのだ。
80歳以上の転院は後回しになるというのがネットにも出ていた。
コロナ専門病院でない以上、これ以上の設備もないから、酸素ボンベ対応だけ。
弱るのを待つしかないのか…

 母がこの病室に移動したときにいた、もうひとりの患者さんのベッドは空になっていた。

どうしていいかわからず、とにかく母をひとりにしたくないと思っていたが、私が座っている場所は、看護師さんたちが使うパソコンもあり、邪魔になる。
ただ、見守るだけしかなく、血中酸素濃度もちょっと持ちなおしてくれたようなので一旦、家に帰った。


 また、病院から電話があるのではないかと気になり、なにも手につかない。でもぼーっとしていると時間も長いので、パソコンに向かったり、スマホを見たり、落ち着かない時間が過ぎる。
 そして、母の友達からのLINEがあった。その人は母とは50年来の友人で、私の小さいときから知っている人だったので、電話して状況を伝えた。二人で泣いた。

 弟が18:20に駅に着くと連絡。それから、病院に急いで向かうことにした。

弟と病院に着くと、看護師長さんが交代の時間で帰るところだった。看護師長さんに、弟が来ましたと伝えると、「間に合って良かった」と言った。その言葉がすべてを物語っているように感じた。


 そして、母と面会。弟は初めてみる母を、あまり見れないようだった。
喉が渇くのか、看護師さんに喉が乾いたとジェスチャーしている。早く、飲ましてあげてほしかったけど、すでにごくごく飲める状態ではなく、綿で湿らす程度なのだと説明を受けた。母は弟が来るまで頑張ってくれた。そして、低空飛行ながらも、なんとか頑張って生きてくれていた。母は、最後に私と弟がそばまで来ていることをわかったような気がした。


 やはり、病院にずっといるわけにもいかず、家に弟と戻る。


5月11日(火)
 やはり、寝ているようで寝ていないような感じで朝早く目が覚める。
今日も病院から電話がなかった。生きててくれてありがとうと思う。排泄もできてたし、まだ、頑張ってくれる。まだ奇跡はあるかもしれないと考える。

 「なにかあったら電話します」と言われている。基本、面会はできないことになっているので、気になるからと、病院に行くわけにもいかず、ただ待つだけの時間。弟の電話は仕事の電話が入る。パソコンに向かって仕事をしようと思っても、やはり落ち着かないようで、大阪支社に行ってくると出かけて行った。

 待っている時間は辛いから、弟が会社に行くというのも、とめなかった。夕方、帰ってきたら、一緒に病院に行こうねと話した。


 15:54 病院から電話。
     「もう危ないから来てください!どれくらいで来れます?」
     「すぐに!すぐに行きます!10分くらいで」

病院は歩いて10分ほどの場所。弟に連絡して、直接病院に来るように伝えて、私は、とにかく走って病院へ向かった。いつもなら、受付で面会に来たことを伝えてから病室の方へ上がるのだが、なにも言わず、エレベーターに飛び乗って、母のいる病室へ行った。
ナースステーションにすいません!と声をかける。
ガラス越しの母は横たわっていた。どういう状態なのかわからない。誰も説明してくれない。
「あの、母は?」
「看護師さんたちの顔が曇る。これが、お母様のなんですけど…」
ナースステーションにある、母の生きている証になる機械は「0」となっていた。
「え?どういうこと?」とまだわからない状態の私に、「もう心臓は止まっている状態です」と事務的に伝えられた。


 「間に合わなかった…」
母をひとりで逝かせたくなかった。
せめて、そばにいてあげたかった。
聞くと、電話をもらった2分後には心肺停止になったらしい。
どんなに急いでも、私がスーパーマンやドラえもんのどこでもドアでもない限り、間に合うはずもなく、母はひとり逝ってしまった。
弟を待たずに、一回会いにくれば良かったかなとか、色々な感情が湧き上がる。

 大きな声で泣きたいけど、ここには、明日の命もわからない高齢者の入院患者がたくさんいる。亡くなった話など聞きたくもないだろう。だから、声を殺して泣くしかなかった。看護師さんが、別部屋を用意しますと、カンファレンスルームを用意してくれた。

 死亡確認は、弟が来てから、担当医が行うことにしましょうと看護師が伝えてきた。それから、もう事務的な話だ。

 身体が硬直する前に、身体をきれいにして、着替えをさせてもいいでしょうか?
 着替えは、病院で用意する浴衣でいいでしょうか?

 コロナ専門で葬儀をしてくれる葬儀社に連絡をとってほしい。コロナなので、普通の葬儀社より高いんですけど…。

 次から次へと事務的な連絡。

 看護師さんたちは、このような状況は日常茶飯事なのだろう。

 テレビでよく言っているように、コロナの患者は専門の袋に入れられての移動になる。

 最後の最後に、母の大好きは花も、父の写真も、お気にいりの洋服もなにも入れてあげられない。それを考えると悲しくて、苦しくて。

 弟が来るまでの間、泣いては考え、考えては泣いてを繰り返していた。


 弟が病院に到着し、死亡確認。17:11に死亡ということになった。もっと前に母の心臓は止まっているのに、先生が心音を聞き、目の反射を見てから完全に亡くなったと判断するのだと初めて知った。


 それから、葬儀屋へ連絡。


 「病室の中のものはすべて廃棄になります」


そう言われて、携帯電話だけ、消毒してもらえませんか?母の知り合いに連絡するのは、それしか手がかりがないので。とお願いして、携帯電話だけは返してもらった。ほかは、何を母が持ってきていたのかわからず、廃棄しますの言葉に、頭もまわらず、確認もせず、わかりましたと答えた。


 葬儀屋さんが来るまでの間に、内科の先生と外科手術した先生が、説明に来てくれた。

もちろん、院内感染なんて認めるわけもなく、感染源はわかりませんと。
先生、看護師もPCR検査をしましたが、みんな陰性でした。でもそのPCR検査は、70%くらいの正確さしかない。術前検査でPCR検査すると、4割くらい陽性が出たりする。大阪は今、異常な状態ですと。術前検査で陽性の人は、入院できません。自宅待機になります。母と同じ病室だった人が、コロナの陽性に昨日なりました。熱が出なくても、陽性の人がいっぱいいる。
 母も高熱が出てたわけではなかった。
そんな色々な話をされて、病院のせいではないというのを延々と説明されているようで、なんとも言えない気持ちになった。
 確かに、最初に聞いた時には、娘がコロナだったのか?それとも私が差し入れしたペットボトルに菌がついていたのか?など色々考えた。
 そんな事を考えても、母は帰ってこない。
弟がぼそっと、「コロナの時期だから、手術を先延ばしにして、コロナの予防接種を受けてからにしたらって言うてん。でも聞かへんかった。」
 そう、母は自分で手術をする事を選んで、結果コロナに感染してしまったのだ。


 しばらくして、葬儀屋さんが来た。
防護服に身を包んだ葬儀屋さんと、事務連絡をする人と2人だけ。

葬儀屋さんが、どのように棺にいれるのかは見なかった。
母は、棺に収められ、白い布がかけられ、それはいつもお葬式で見る光景、火葬場へ行く前の状態そのままだった。でも、棺の中の母は、袋に入れられて、このまま火葬場へ行くしかないのだ。何もしてあげられない事実だけだ。


 母は立派な霊柩車に載せられるわけでもなく、コロナ患者を運ぶ専用車なのでだろう、その車に棺が乗せられて、病院を去っていった。

 担当医、看護師さん5~6人が一緒に見送りしてくれた。
「ありがとうございます。お世話になりました」と弟と頭を下げて、自宅へ戻った。


 どっと疲れがでる感じで、身体が重く感じた。なにもする気がしない。


明日の朝、葬儀屋から荼毘に付される時間と、お骨をいつ持ってきてくれるのか連絡があるから、それまでなにもできないねと、弟と話す。

まだ信じられない。というか、母が一番信じられないだろう。本当は腰の手術をして、元気に歩き回れるようになって帰ってくるはずだったのに、まさか自分がコロナに感染して死んでしまうとは…。


生前、ひとり暮らしの母に、私と弟が住む埼玉に引っ越しておいでと散々言っていたが、耳を貸す母ではなかった。もう83歳でなにがあるかわからないから、なにかあった時に、すぐに助けてあげられるように、そばで暮らしてほしいとも言ったが、「なんにもないよ」といつまでも若いつもりの母だった。
入院中も、看護師さんに埼玉に行かないの?って言われても、「絶対に行かへん」と言っていたらしい。なんとも母らしい。


 ただ、今回ひとつだけ良かったと思えるのは、コロナ感染したのが入院中だったこと、私が母のそばにいたこと。
 もし、順調に退院し、私が埼玉に戻った後に、コロナが発症し、ひとり家で動けなくなって苦しみながら、ひとりで死んでしまっていたなら、どうなっていただろうと…。母の世代は頑張りすぎて、ちょっとくらいしんどくても、横になっていたら治ると思ってしまうところがある。母がひとり孤独死するのだけは、嫌だったので、せめて最後に私や弟と会えたのは良かったと思うしかない。


 辛いけど、受け止めるしかない。


母は、生前に死んだら、派手なお葬式をして欲しいと冗談めいて言っていた。でも、実際はテレビでよくやっているように、コロナで亡くなった母は、お骨になって13日の午前中に家に戻ってきた。
父の月命日に、お経を上げてくださるお寺さんに連絡すると、すごく驚いていた。それほど急すぎる母の死だ。お坊さんに母の法名を頂戴し、お経をあげに来ていただいた。母の希望とは全く異なる、私と弟だけの寂しい簡易的なお葬式で初七日まで済ました形となった。
お骨は、一旦埼玉へ持って帰り、うちの家族と弟家族で、四十九日法要をしたあとに、お骨を納めにいくことにした。


棺に母が大好きな花もなにも入れてあげられなかったことが辛い。
せめて四十九日法要だけは、花を飾って見送りたいと思う。


 今、毎日テレビでコロナ感染のニュースをしているが、本当に病院の状態は最悪だ。病院の対応が悪いと言うわけではない。コロナ専門病院の病床は満杯。転院もできず、たまたま病院内で感染しても、そこには専門の設備もないため、弱るのを、死ぬのを、ただ待つだけの対応しかできないということ。


 特に、高齢者や母のように持病があった場合、回復するなんてことはほぼ皆無で、病院としても「やれることはやっていますが…」としか言えないのだろう。
だって、設備がないのだから。
 設備があったとしても、母のような高齢者や持病も持っている人間には、回ってこないだろう。回復の見込みがないから。

 回復の見込みがないコロナ感染患者を、看護師さんや先生たちはリスクを負いながら診てくれている。寄り添ってくれているので、私達も何も言えない。助けてください!と言うことも許されない状況なのだ。

酸素ボンベだけでは、息ができず、相当苦しかったに違いない。何度かパニックになっていたと看護師さんが教えてくれた。
 母は頭がはっきりしている中、「死」を意識したときの恐怖は、計り知れない。

 病院内にコロナ感染者がいるなら、そこの病院は、手術や入院患者を入れるのをもう一度考えるべきだと思う。基礎疾患を持っている高齢者ならなおさら、急がなくてもいい手術は延期すべきだ。リスクが高すぎる!
 母も、手術していなければ、あの時期に入院していなければ、今も生きていたかもしれない。と、どうしても頭をよぎってしまう。


 病院だって安全ではないのだ。


 母は、コロナ感染が発覚してからちょうど1週間で亡くなった。進行が早いですと、先生は言っていた。コロナの何型かはこの病院では調べられないけど、進行の速さからいって新型でしょうと。

 本当に、早かった。あっという間に弱っていく母。つい2週間前は元気だったのに…。


母は無事に父に会えただろうか?
なんで、私ここにおるん?って感じかもしれない。
父にお前早かったなぁ…と言われてるかもしれない。本人も元気になるための手術、入院で、まさか死ぬなんて思ってもみなかっただろう。

 まさか母をコロナで亡くすとは思ってもみなかった。まだ、嘘のようだ…。


コロナ感染になった高齢者が、今どのような経緯になるのか、この情報を求めている人のお役に立てばと思います。

                 合掌

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