誰かに寄り添う想像力には限界がある

「LGBTQの人たちを応援する」ブランドなりイベント。そういうものに関連した商品のPRをしないかと、お世話になっていた方からお話をいただいたとき、私は引っかかりを感じた。「応援する側、される側」を作ってしまうことによって、社会ににもっと溝を産むことになるのではないだろうか?もちろん、現状マイノリティの人たちがマイノリティたる理由として、圧倒的に数の力学が働いて、数字だけで不利な状況に置かれていることは自明のこととして、「応援する」、というそこに、自分が加勢するのは、良いことなんだろうか?

私はLGBTQの人たちに限らず、全ての人が生きやすい社会を作るのは、全人類にとっての潜在的な使命と思っているけれど、かといって、100%偏見がないかというと、正直自信がない。多少なりのフィルターがかかっているかもしれない。理屈っぽい私は、そんなモヤモヤから、お話をやんわりとお断りした。

最近、ある男性が、ジェンダーについて、「僕は、男女の性差とかは意識せず、自然でいるのがいいと思うので、あえて啓蒙みたいなことはしたくないです」と仰った。でも、私はそこに猛烈な違和感を感じた。その人がいっている所の「自然」という状態は、自然ではないのではないだろうか。今の社会が、女性を無意識に不利な状況に置いているのは間違いなく、女性たちは日常的に暴力を受けている。セクハラというカタカナにしてしまうと簡単に使われてしまうようだが、それも立派な暴力であるし、電車の痴漢行為だって、暴力である。小さい暴力はそこかしこにある。女性に限らず、「女の子だから」「男の子だから」という枕詞で子どもの行動を制限することや、大人たちがそれまで刷り込まれ、当たり前とされてきたことによって「自然」とそれを次の世代にも植えつけているかもしれない。保守派のおっさんたちは、往々にしてそれらの悪習を「伝統」と呼ぶのだ。

結局、男性には想像もつかないのだろう。女性がどんなに不快な思いをして生きてきているか。もしくは、彼自身が恵まれた環境で育って、性差を特に意識しなくても良いような所にいたのかもしれない。でも現実はそうじゃない。

これを思った時、私は「応援する側、される側」の、その厳然と存在している不平等さを認め、対峙した上で、それを解消するために、いわば「応援する=闘う」という意味の部分を、より大きく、重く受け止めた。その言葉の裏にあるブランドファウンダーの思いに、私は寄り添いきれなかったのだと思った。自分が当事者に置きかわって初めて、経験して初めて、意図を理解した気がした。

それは、アフリカ系のアメリカ人の平等への戦いをはじめとし、歴史的に脈々と続いていること。マイノリティ自らが声をあげ、闘ってきたことだ。当事者でなければ、共感できない。寄り添いきれない。そしてそれは、外から形だけやっても、真実味がないものになってしまうのだ。だから、その中心で傷つき、血を流している仲間に手を差し伸べ、「応援する」こと、「加勢する」ことが、当事者ではない私たちにせめてできることなのではないかと、とても反省することになった。

壮絶な体験をしてきた人に、かける言葉を失うことがある。でも、取り繕ったような、その場しのぎの言葉をかけるくらいなら、当惑すればいいんだと思う。あまりに壮絶すぎて、どう反応していいかわからない。そのほうが、よほど正直で誠実な気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?