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「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで/小熊英二【本要約・ガイド】

「単一民族神話の起源」の著者が、琉球処分より台湾・朝鮮統治を経て沖縄復帰まで、近代日本の100年にわたる「植民地」政策の言説をつぶさに検証。「日本人」の境界とその揺らぎを探究する。

あとがきより
本書は、近代日本の境界領域にあたる沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮などにかんする政策論を検証することによって、「日本人」のナショナル・アイデンティティの問題を考察したものである。

本書では、明治初期の琉球処分および北海道開拓から、台湾・朝鮮の併合と支配を経て、一九七二年に沖縄が「復帰」するまでの期間にわたり、これらの地域の人びとに日本語教育や「日本人」意識の育成、あるいは日本国籍や参政権の付与といった、文化面および法制面における「日本人」化を、どこまで行なうかにかんする議論がとりあげられている。そこでは、それらの人びとを「日本人」に同化しようとする指向と、「日本人」から分離しようとする指向がぶつかりあい、そのなかで「日本人」とは何かが問い直されることとなる。
筆者は前著『単一民族神話の起源』において、日本民族論というかたちをとって現われた「日本人」のナショナル・アイデンティティの揺らぎを検証したが、本書では上記のような政策論を題材に、ほぼ類似の主題をあつかったといってよい。

本書を構成する各章は、もちろん相互に関連したものだが、独立の論文として読むことも一応は可能である。それゆえ、読者はそれぞれ関心のある章から読みはじめるのも一興だろう。くわしくは目次を参照していただきたいが、たとえば日本におけるオリエンタリズムについては第15章で、また日本語や日本文化の教育をめぐる葛藤の問題は第2章、第4章、第22章などでとりあげている。また植民政策学と人種主義については第7章、多民族国家として大日本帝国を構想した文化多元主義論などは第9章、マイノリティの政治参加については戦前日本における唯一の朝鮮人衆議院議員だった人物をとりあげた第14章などがある。

沖縄問題の歴史的背景に関心がある読者は、沖縄の人びとが「日本人」に編入される経緯を論じた第1章、第2章や第10章第2節を読んだあと、戦後の復帰連動を集中的にあつかった第19章以降に移るのもよいだろう。大日本帝国に編入された朝鮮人や台湾人の国籍や戸籍、そして「日本人」との通婚にかんする法的規定といった、地味だが重要なテーマについては第6章、第8章、第17章で検証した。朝鮮・台湾統治をめぐる日本側内部の政治闘争については第5章、第10章、第11章を設けている。
戦後における進歩的知識人のナショナリズムという、意外に知られていないが「戦後」を語るうえで欠かせない問題は、第21章であつかった。アイヌ政策と北海道旧土人保護法については第3章があり、同化と抵抗のアンビヴァレンスに揺れる沖縄・台湾・朝鮮の人びとの事例は第Ⅲ部の各章でとりあげている。
さらにマイノリティ社会内部における女性の地位という、微妙ながら避けて通れない問題は、第12章や第16章などで言及した。

とりあげた問題はいずれも重要なものばかりであり、著者としてはどれも思い入れがある。しかしごらんのとおり、本書はかなりの大冊になった。分量的には四百字詰め原稿用紙約二千枚、前者のほぼ二倍である。これを巻頭から通読するのは、いささか気後れがするという読者もあるだろう。これまで読んでいただいた方の意見では、第14章、第15、第22章などが印象に残ったという声が多かったので、とりあえずそのあたりから読みはじめて、内容の輪郭に接してみるのも一つの方法である。章によっては、とくに法制関係や政治闘争をあつかった章などはそれ以前の文脈をふまえないと理解しづらい部分もあるが、とりあえず無理なく自由な読み方で接していただいたうえで、ゆっくり全体を見通してもらえればと思う。なお、重要ではあっても本論の文脈からははずれる問題は注でいくつか論じたので、そちらも参照いただければ幸いである。

本書では上記のような問題を個々にあつかいながら、しかし全体としては、近代日本をケース・スタディとして、さまざまな角度から国民国家とナショナリズムにかんする諸問題を考察したつもりである。とくに本書の記述において重視したのは、「東洋」の「有色人」の側であるとされていながら、しかし「西洋」の「白人」とならんで支配するでもあったという「日本人」の両義的位置である。本書は構想の段階では「カラード・インペリアリズム」という題名を考えていたものであり、日系移民排斥に代表される「西洋」からの差別を受けながら、同時に「東洋」の諸地域を支配していたことが、いかなる影響を日本のナショナル・アイデンティティ形成にもたらしたかの検証を、テーマの一つとしている。

内容の紹介は、これくらいにしておこう。私は以上のような題材について研究を行なったが、出来あがった本の主役はもちろん私ではなく、本文中に登場する当時の人びとである。私の役割は、それらの人びとの姿を読者に伝える仲介役であると考えたい。
上記のような主題の研究をしていると、史料を通じて、さまざまな状況におかれたさまざまな人間たちに出会う。一例として、印象に残りながら、本文中では引用しなかった史料を一つ紹介してみたい。日本統治下のベラウ諸島において、日本語を教える公学校の落成式にやってくる南洋庁の官吏を歓迎するべく、現地住民の「伝統的な踊り」を披露するための練習が行なわれたさいの模様を、日本側の記者が伝えたものである(松崎啓次「我南洋の島民」「改造」一九三五年四月号)。

”僕は、一つの踊りに特別興味を覚えたので傍に立ってゐる青年に説明を求める。すると驚いた事には、この踊りは新作で、先頭に立った老人が所謂振付師なのださうだ。踊りの題名は「飛行機踊り」、文句は「パラオの島は小さいけれど、何とかしてみんな仲良く楽しくして行きたい、お願ひ申します。日本の軍艦や飛行機が何時までもこの島を守って下さい、私達は未だ見た事ないが、爆弾と云ふものは、恐いもんで、ブーンと落ちて爆発するさうだ」と云ふ様な意味だ。老人達は手をあげ尻を振りながら、飛行機の真似をしたり爆弾投下の格好をしたりする。説明をしてくれた青年が更に話をついだ。
「あなたはこの踊りを写真にするのですか、そして、内地へ持って行って我々がどんなに野蛮で無智かつて云ふ標本に使ふんでせう。成程、この老人達は、かうして踊ってゐる他には何にも出来ない人間です。旧時代の遺物です。しかし、パラオの現在はもっと他に有ります。大正三年(日本占領以来)から、私達は日本語を喋ります。
そして洋服も着ます。が、彼等、老人は檳榔樹(びんろうじゅ)を噛んで裸で赤い褌を一番きれいなものだと思ひ込んでそれだけで満足してあるのです。私は日本の人が、若いものをいろいろと、教育しながら、どうして、あんな踊りを特別珍重したりこれが土人だと云って内地の雑誌に書き立てたりするのか訳が分りません。写真を撮るなら、どうか一行でよいから、あれは旧時代の遺物だと書き込んで下さい。」
僕は驚いてこの青年の顔を見直した。ところがこの怖るべく聡明な意見の持ち主も矢張り、歯も唇も檳榔樹で赤く染り、腕には種々な刺青がほどこされてあることを発見した。ただ、彼と旧時代の遺物である老人達との外見上の相違は、彼はよれよれのシャツと半ズボンを装ってゐることに過ぎなかった。僕は思はず皮肉な気持ちになって、「だって、君だって、檳榔樹を噛んでるぢやないか」とたづねずには居られなかった。
すると青年は真顔に成って、語をついだ。
「僕はちがいます、僕は檳榔樹を噛むのは悪い事だと知ってゐます。ただ子供の時からの習慣で噛んでゐる中に、御飯を食べてもあいつを噛まないと味が出て来ないんです。で仕方なく、噛むんです。が、悪いと思ってゐるから如何しても止めやうと、思ふんです。そして、若い者はみんなさう思つてゐるし、又、止めてしまった人達も沢山あるんです。さう云ふ人達と何にも知らない何にも考へない、ああ云ふ老人達とは、訳がちがひます。」彼は最後に更に語を強めて、「これからの若い者は、私なんかとはちがって悪いと思ふ習慣には全然染まずに育つことができるでせう。」
僕は、この真剣な言葉をきいて、むしろ淋しさを感じた。南洋では数百の島々は皆言葉を異にして居って、彼等は彼等自身の種族の利益のために団結することは、出来ないだらうし万一、団結したとしても五万数千の島民では何が出来やう。だから何時でも弱小民族として何れかの文明国に属し、その文明国の利害に従つてその文明の下にあることに満足しなければならない運命の下に水久に置かれてるるとしか思はれないからである。”

支配者側の視点によって書かれた文章に描かれている事象を、無批判に事実と受けとめることには、慎重であるべきである。とはいえこの短い文章のなかには、こんにちの社会学や文化研究などで注目されている、さまざまな問題が存在している。「差別」とは何か、「文明」とは何か、「伝統」とは何か、そもそもこうしたかたちの記述が行なわれたということは何を意味するのか、といった問いが即座に頭に浮かぶ。しかし、私はこのような史料に出会うと、それを論じたり分析したりすることに躊躇を覚えざるをえない。どう論じようと、私などには問題のすべてを理解することも、また語りきることもできない気がしてしまうからである。

本書では、「日本人」の境界設定をめぐる支配側、被支配側のさまざまな論調がとりあげられている。支配側は、なぜ、どのように周辺地域の人びとを「日本人」に包摂しようとし、あるいは排除しようとしたのか。被支配側は、なぜ、どのように「日本人」になろうとし、あるいはそれを拒否したのか。人はなぜ、どのように「日本人」といったナショナル・アイアンティティを必要とし、あるいはそこから離脱するのか。このような疑間を考えるべく、それなりに多くの事例をとりあげて検討したものの、残された問題は多い。そう感じるのは、構想の時点ではあつかうことを考えていながら断念した対象にたいする心残りもあるが、それ以上に、とりあげた対象について十分に描ききれなかったのではないかという懸念があるからである。

本書があつかった主題は、数千万から億単位の人びとの運命を巻きこんだ、百年以上にわたる間題である。私がすることができた範囲でさえ、史料の一つひとつは当事者の苦悩、、煩悶、希望、期待、打算、欲望、その他ありとあらゆる感情を訴えていた。先ほど引用した史料一つとっても、そこには私などが手を触れることがためらわれるような数々の問題が封印されている。書き手の責任として、本文中ではたんに史料を引用するだけでなく、不器用ながら自分なりの分析や位置づけも行なってみたものの、とりあげた当事者たちの姿や思いを読者にうまく伝えられる記述ができたかどうか、一抹の不安を抱かざるをえない。
もちろん、私も非力ながら可能なかぎりの努力をした。またとりあげた対象については、最低限のこととして、特権的な立場から当事者を一方的に非難したり、ましてや揶揄するようなことは避けたつもりである。しかし結果がどうであるかについては、読者の判断を持つほかない。できれば、読者が私という不十分な媒体を通してであっても、本書から何がしかのものを汲みとっていただければと思う。そして本書を通じて、これからの人間の未来のあり方について思いをめぐらせてもらえれば、これ以上の幸いはない。
本書は、一九九七年一一月に提出した私の博士論文である。公共の紙面に私事を書くことは好まないが、完成にいたるまで、また出版にいたるまでにご教示をいただいた方がた、お世話になった方がたに感謝を申しあげたい。
[一九九八年五月 小熊英二]

目次紹介

■序章

・「日本人」の境界変動
・「日本」と「植民地」、そして「欧米」
・「包摂」と「排除」
・「政治の言葉」と「表現されえないもの」

■■■Ⅰ部■■■

第1章:琉球処分 - 「日本人」への編入(18)

・「国内の人類」への統合と排除
・外国人顧問の提言
・「日本人」としての英球人
・歴史をめぐる争いこ

第2章:沖縄教育と「日本人」化 - 同化教育の論理(35)

・旧慣維持と忠誠心育成
・「文明化」と「日本化」
・歴史観の改造

第3章:「帝国の北門」の人びと - アイヌ教育と北海道旧土人保護法(50)

・国境紛争から「日本人」へ
・日本人の住む土地
・宜教師の育成
・「漸化」という論理
・北海道旧土人保護法の成立

第4章:台湾領有 - 同化教育をめぐる葛藤(70)

・台湾統治の混迷
・外国人顧間の同化反対論
・「植民地」か「非殖民地」か
・国防重視論と対欧米意識
・「日本人」化教育の開始
・巻き返す非同化論
・「漸進」という折衷形態

第5章:総督府王国の誕生 - 台湾「六三法問題」と旧慣調査(110)

・〈事実上の立法権〉
・〈台湾自治王国〉構想
・折衷としての「法律でない法律」
・議会側の反発
・「日本人」の意味
・後藤新平の台湾王国化
・根拠不明の独裁支配」

第6章:韓国人たりし日本人 - 日韓併合と「新日本人」の戸籍(147)

・踏襲された折衷形態
・「漸進主義」の教育
・国籍における排除と包摂
・同化言説の完成

■■■Ⅱ部■■■

第7章:差別即平等 - 植民政策学と人種主義(168)

・フランス同化主義と啓蒙思想
・ル・ポンと同化主義批判の台頭
・「生物学の原則」
・「自治」と「離隔」
・「自主」のジレンマ
・二つの差別の間

第8章:「民権」と「一視同仁」 - 植民者と通婚問題(195)

・「一視同仁」の高唱
・「植民者民権」の出現
・通婚と「日本人」

第9章:柳は翠、花は紅 - 日系移民問題と朝鮮統治論(215)

・錯綜する論壇の統治批判
・デモクラットの文明的同化主義
・大アジア主義者の文化多元主義
・自由主義者の分離主義
・「民族問題」の溢路

第10章:内地延長主義 - 原敬と台湾(240)

・文明化としての「日本人」
・「日本」編入のモデル
・総督府の抵抗と「漸進」
・頓挫した統治改革

第11章:統治改革の挫折 - 朝鮮参政権問題(262)

・総督府による統治改革
・自治か参政権か
・〈総督府の自治〉の浮上

■■■Ⅲ部■■■

第12章:沖縄ナショナリズムの創造 - 伊波普猷と沖縄学(280)

・沖縄側にとっての同化
・二重のマイノリティー
・防壁としての同祖論
・沖縄ナショナリズムと「同祖」
・排除と同化の連鎖
・啓蒙知識人として
・挫折した沖縄ナシリナリズム

第13章:「異身同体」の夢 - 台湾自治議会設置請願運動(320)

・権利獲得としての「同化」
・多様性への願望
・植民政策学の読み換え
・キリスト教徒とアジア主義者
・多元的な日本、多元的な台湾
・「憲法違反」の限界
・引き裂かれた請願運動

第14章:「朝鮮生れの日本人」 - 唯一の朝鮮人衆議院議員・朴春琴(362)

・「日本人」としての権利
・内地在住朝鮮人の参政権
・「我等の国家」への屈折
・「一視同仁」の壁
・虚像の「日本人」

第15章:オリエンタリズムの屈折 - 柳宗悦と沖縄言語論争(392)

・オリエンタリズムとしての「民芸」
・沖縄側の猛反発
・「西洋人」としての方言擁護
・「日本人」の強調
・沖縄同化の最終段階

第16章:皇民化と「日本人」 - 総力戦体制と「民族」(417)

・「朝鮮」の否定
・民族概念の相対化
・平等と近代化の期待

第17章:最後の改革 - 敗戦直前の参政権付与(435)
・境界を揺るがす三要因
・移籍問題の浮上
・越えられなかった臨界
・「日本人」という牢獄

■■■IV部■■■

第18章:境界上の島々 - 「外国」になった沖縄(460)

・「少数民族」としての沖縄人
・「琉球総督府」の誕生
・「アメリカ人」からの排除
・「日本人」であって「日本人」でない存在

第19章:独立論から復帰論へ - 敗戦直後の沖縄帰属論争(483)

・沖縄独立論とアメリカ観
・保守系運動としての復帰
・帰属論議の急浮上
・揺らぎのなかの帰属論

第20章:「祖国日本」の意味 - 1950年代の復帰運動(502)

・人権の代名詞としての「日本人」
・親米反共を掲げた復帰運動
・日本ナショナリズムの言葉

第21章:革新ナショナリズムの思想 - 戦後知識人の「日本人」像と沖縄(522)

・「アジアの植民地」としての日本
・「健全なナショナリズムの臨界
・単一民族史観の台頭
・「植民地支配」から「民族統一」へ
・民族統一としての琉球処分
・非難用語となった「琉球独立論」

第22章:1960年の方言札 - 戦後沖縄教育と復帰運動(556)

・復興活動としての復帰
・方言札の復活
・「日の丸」「君が代」の奨励
・憧れと拒絶の同居
・「祖国は日本か」
・政治変動と転換と

第23章:反復帰 - 1972年復帰と反復帰論(597)

・琉球独立論の系譜
・復帰の現実化
・「仮面」への嫌悪
・独立論との距離
・「否」の思想

■結論(627)

・後発帝国主義としての特徴
・国民国家における包摂
・公定ナショナリズム
・「脱亜」と「興亜」
・分類外の曖昧さ
・被支配者の反応
・有色の帝国


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