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世耕弘一先生の「同交會之記」を手掛りにした翼賛選挙に於ける同交会の実証的考察

An empirical study of Dokokai in Yokusansenkyo through examination of “Dokokai no ki” by Seko Koichi as clue

広報室建学史料室特別研究員・近畿大学名誉教授  荒木 康彦

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 アメリカ合衆国の国立公文書館(National Archives Records Administration)で所蔵されている世耕弘一先生直筆「同交會之記」[1]の第三段落では、昭和十七年四月三十日に実施された第二十一回衆議院議員総選挙、いわゆる翼賛選挙とその後について、次の様に記載されている。

 そして、翼賛選挙の在り方に対する世耕弘一先生の強い義憤について、回想世耕弘一編纂委員会編『回想世耕弘一』に収録された世耕政隆先生の「樹下去影」に於て、次の様に陳述されている[2]。

 選挙結果を常に冷徹に受容していた世耕弘一先生が、翼賛選挙に「敗れた後だけは別であった」という事から、この選挙で非推薦候補者であった世耕弘一先生の選挙運動に対して、当時の東條内閣や官憲等が加えた妨害が如何に理不尽極まりないものであったかが推測される。

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 「新体制」確立を志向していた第二次近衛内閣のもとで、昭和十六年二月二十二日の「法律第四號」によって「現衆議院議員ノ任期ハ之ヲ一年延期ス」[3]とされた。それによって昭和十六年四月末で満了となる衆議院議員の任期が一年延期されたが、太平洋戦争初期の軍事的優勢を背景に東條内閣は戦争遂行に協力的な翼賛議会の成立を志向して、昭和十七年四月三十日に第二十一回衆議院議員総選挙を実施する事にした[4]。総理大臣が選出した各界の代表者によって「翼賛政治体制協議会」(会長は元首相の阿部信行陸軍大将)が設立され、議員定数と同数の四六六名の候補が同協議会によって推薦され[5]、推薦候補には政府から選挙資金を与えられた[6]。この結果、翼賛選挙では推薦候補の当選者は三八一名に達し、非推薦候補の当選者は八十五名に過ぎなかった[7]。
 昭和十七年五月三日付『朝日新聞』朝刊掲載「昭和十七年四月三十日 衆議院総選挙大観 朝日新聞社調査」[8]に拠れば、「和歌山縣(六)第二區(定員三名)」では「有権者 八三、三二〇」、「一八、四七五 角猪之助(推 新)」「一四、二一四 小山谷三(推翼前)」「一三、六五〇 森川仙太(推 新)」「次点 六、三二九 世耕弘一(同 前)」となっている。
 昭和十二年四月三十日の第二十回衆議院議員総選挙では世耕弘一先生は和歌山県第二区で九、三六九票を得ての当選であった[9]事からすれば、この翼賛選挙では不自然な程に大幅に票を減らせた事になり、それはこの選挙中の「官憲の干渉ぶり、政府の非」が尋常ではなかった事に起因するのは贅言を要しない。
 更に言えば、「同交會之記」の第三段落で述べられている様に、同交会所属の非推薦候補者は九名のみが当選したに過ぎなかった事からも、この翼賛選挙では総ての非推薦候補者の選挙運動が全国的に凄まじい妨害を受けた事が察せられる。この点に関して、世耕弘一先生と交わりのあった小林錡(1888~1960)の事例を挙げる事が出来る。
 世耕弘一先生の小林錡に対する追悼文「小林先生との深い因縁」[10]によれば、小林錡は「大学は私の先輩であり、政治家としても私の一期さきに当選」し、「独逸に留学の時は同時に神戸で乗船、船室も二等で同室」であり、「独逸では五カ年の交わり受け」て、「シベリヤ経由」の「帰りも一しょ」であり、「政治的交際は深い交りと言うほどでもないが」、「心からの友情を、会えばかわしていた」。この小林錡は第二十回衆議院議員総選挙で愛知県第四区に於て一七、九二三票を得たものの次点に終わった為もあり[11]、この翼賛選挙では同交会所属ではなかったが、非推薦候補として愛知県第四区で闘い、一九、八四三票を得て、次点に終わっている[12]。小林錡の実弟による回想文では「翼賛選挙」の時の事が、次の様に陳述されている[13]

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 この翼賛選挙に於て非推薦候補であった世耕弘一先生が東條内閣や官憲及び大戦翼賛会側等から甚だしい選挙妨害を受けた詳しい様子を、先生自身が大戦終了後に述べた非常に貴重な英文史料を発見する事が出来た。昭和二十年十二月八日にA級戦犯容疑者を起訴する事等の為に国際検察局(IPS)が設置された[14]のであるが、その検査部の検査官であったリチャード・ラーシュ(RICHARD LARSH)が同交会(DOKOKAI)について、タイプ印刷で作成した一九四七年四月九日付「通牒」(MEMORANDUM)である[15]。それを逐語訳すると、以下の通りである。

           連合国最高司令官総司令本部
                検査部
                         一九四七年四月九日

  サットン氏(MR.SUTTONN)宛の通牒(MEMORANDUM)
  国際検察局検査部(INV.DIV.,IPS)検査官リチャード・ラーシュ(RICHARD
 LARSH)より
  題目 同交会(DOKOKAI)
 
  同交会(DOKOKAI)に関する論文[16]の執筆者、世耕弘一氏(Mr. SEKO,
 Koichi)は一九四二年四月の総選挙での妨害について尋ねられた。
  警察、憲兵及び在郷軍人会(the Association of ex-servicemen)が妨害
 に於て最も活動的であったと、かれは語った。さらに、大政翼賛会
 (IRAA[17])のメンバーが和歌山県におけるかれの選挙運動に対する露骨
 な妨害者であったが、かれが警察の庇護を受けられなかったので、かれら
 が妨害運動を実行出来たに過ぎぬと、かれは語った。
  妨害運動の中で、いくつかの活動は世耕の支持者からの米や肥料の配給
 を絶つ事を含んでいた;組織化された密告活動は、世耕への投票は戦争の
 敗北を意味すると暗示していた;世耕の助力者や支持者の告発なしの投
 獄、世耕とのかれらの関係についての尋問は、かれらが世耕からの庇護を
 うけている闇商人である事を暗示していた;そして世耕の宿屋のすべての
 出入り口に警備員が配置され、支持者はそれが怖くて訪問する事が出来な
 かった。
  その他の独特な方法は、世耕の演説を知らせるポスターを掲示する者の
 逮捕であり、そして配置したポスターで演説の事前通告をしていなかった
 理由で世耕の演説を結果的には停止する事であった。
  大政翼賛会の推薦候補森川仙太(MORIKAWA, Senta)及び角猪之助
 (SUMI, Enosuke) を支持して世耕を落選させる様に、東條(TOJO)大将
 (当時首相で且つ自動的に大政翼賛会総裁)が個人的に和歌山県知事及び
 警察本部長に、命令していた事を、世耕は落選の後に知らされたと述べ
 た。
  内務大臣(the Minister of Home Affairs)安藤(ANDO)は、すべての県
 の知事に対するその優越的地位から、翼賛会に対立する候補者の選挙活動
 を知事が妨害すべしとの命令を知事に発していたと、世耕はまた聞かされ
 た。
  大政翼賛会は一九四二年にすべての反対党を一掃して、この国で一党制
 度を創出する努力をすると決心していたというのが、世耕の個人的意見で
 ある。

 人名等細部の点で、今後尚検討を要するものの非常に重要な史料であり、この史料から翼賛選挙に於て東條内閣や官憲及び大政翼賛会側等から非推薦候補者である世耕弘一先生の選挙運動に対して加えられた凄まじい妨害の実態が、よく分かる。

 4

 既述の如く、前回の第二十回衆議院議員総選挙では世耕弘一先生は和歌山県第二区で九、三六九票を得ての当選であった事からすれば、この翼賛選挙では不自然な程に大幅に票を減らせた事になり、それはこの選挙中の「官憲の干渉」や「政府の非」による事は言うまでもない。
 「同交會之記」の末尾には「同交會(帝國議會交渉團体)届出 昭和十六年十一月十日届出當時三十五名」の名簿及び 「附記」が、次の如く添えられている。

 この名簿と「附記」にある同交会所属議員(一松定吉を除く)について、「昭和十七年四月三十日衆議院総選挙大観 朝日新聞社調査」及び昭和十七年五月三日付『朝日新聞』朝刊掲載「総選挙大観補遺」[18]を用いて綿密に考察すると、岡崎久次郎・鈴木文次・丸山弁三郎・板谷順助・岡崎憲・百瀬渡・服部岩吉の七名は翼賛選挙に立候補していない事が分かる。更に、昭和三十七年十二月発行の『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑」[19](衆議院・参議院編集、大蔵省印刷局印刷)収録の岡崎久次郎の項目では「当選六回(11 12 16 17 19 20)」、鈴木文次の項目では「当選三回( 16 19 20 )」、丸山弁三郎の項目では「当選一回(20)」、板谷順助の項目では「当選六回(15 16 17 18 19 20)」、岡崎憲の項目では「当選二回(19 20)」、百瀬渡の項目では「当選四回(17 18 19 20)」、服部岩吉の項目では「当選四回(15 17 19 20)」と表記されており、何れに於ても第二十一回衆議院議員総選挙、即ち翼賛選挙での当選は見出せない。そこで、前掲の「昭和十七年四月三十日 衆議院総選挙大観 朝日新聞社調査」及び昭和十七年五月三日付『朝日新聞』朝刊掲載「総選挙大観補遺」に立脚して、これらの七名以外の同交会所属議員(一松定吉を除く)二十九名の翼賛選挙での選挙区、獲得票数等を整理した表を掲げれば、次の様になる(氏名は「同交會之記」の名簿に記載されている順であり、太文字の人名は当選者である)。

 翼賛選挙では同交会所属の非推薦候補者の二十九名中九名が当選し、当選しなかった二十名中の十三名が次点である事から、選挙運動への「未曽有の大干渉」の中で、彼等が如何に善戦したかが十分に推測されるのである。反面に於て、先に掲げた英文史料で述べられている様な選挙運動への「未曽有の大干渉」は、世耕弘一先生に対してだけではなくて、同交会所属の非推薦候補者に対しても加えられたのであろう事が、この表からも改めて確認され得るのである。また、ここで言えるのは、日本近現代史の研究に於ては、邦文の一次史料のみに依拠するのでは不十分であり、欧文の一次史料も併せ採取・解読しなければ、十全なる歴史研究になり得ないという事であろう。

 「同交會之記」の末尾で触れられている翼賛選挙後の同交会の動静に言及しなければならない。この点については従来余り研究がなされていないと思われるが、粟屋憲太郎著『昭和の政党』に大略次の如き貴重な陳述がある[20]。即ち、「同交会そのものも、五月一四日解散せざるをえなかった。同交会は解散後、後楽会にころもがえしたが、所属議員をへらしたこともあって、活動の低下はまぬがれなかった。」のであり、鳩山は軽井沢に引き籠り「東京では安藤が中心となり、思斉会(旧同交会の再選者九名と斎藤隆夫が中心)の会合を定期的に開き、旧同交会のメンバーの結束を保っていた。」とされているが、典拠は示されていない。
 だが、粘り強く史料を博捜した結果、同交会解散後に設立された「後楽會」に関する史料、更に「思斉會」についての貴重な一次史料を採取する事が出来た。
 「後楽會」に関する史料とは、昭和十七年五月十五日付『東京日日新聞』朝刊掲載記事「同交會解消」、同日付『朝日新聞』朝刊掲載記事「同交會も解散決定」、同日付『讀賣新聞』朝刊掲載記事「同交會も解散」である。その内最も詳しいのが『東京日日新聞』掲載の次の様な記事[21]である。

 この記事の要旨は、昭和十七年五月十四日正午から赤坂待月莊で鳩山一郎外の現・元代議士二十三名で會員総會が開催された事、そこで種々懇談がなされて、「院内交渉團體」としての「同交會」は解消し現代議士は衆議院内では無所属となる点と、従来の同志は院外で「社交倶楽部」の「後楽會」を組織してその事務所を赤坂山王ホテルに置く点が決められた事である。
 『朝日新聞』の場合はそれよりも若干簡単ながら、重要な点を含んだ次の様な記事[22]である(『讀賣新聞』の場合は大略これと同様な記事[23]となっている)。

 この記事では、昭和十七年五月十四日に、従来「院内交渉團体」だった同交會の「解消」の上で、新たに「 社交倶楽部」としての「後楽會」が設けられた事、その事務所は山王ホテルに置かれた事以外に、世耕弘一先生が安藤正純・川崎克・芦田均と共にその幹事に決定した事が報じられてのが刮目に値する。
 これらの記事から綜合的に判断すれば、「院内交渉團体」の「同交會」は単に「後楽会にころもがえした」のではなくて、「同交會之記」の末尾にある様に飽くまで「解散」したのであり、旧同交会構成員は衆議院内では無所属となり、院外では「 社交倶楽部」の「 後楽會」を設立したという事なのである。
 「思斉會」についての史料とは、国立公文書館所蔵『昭和十七年十二月二十一日 第八十一回帝國議會諸問題(附衆議院各派所属議員名簿) 警視廳情報課』[24]であり、その内容は「第八十一回帝國議會諸問題」と「附表 昭和十七年十二月二十一日現在 衆議院各派所属議員名簿 警視廳情報課」から構成されている。この前者に於て、当時の衆議院・貴族院の状勢が詳らかに記載されており、衆議院は「翼賛政治會 四五九名」と「未加入 七名」で、翼賛政治会に於ける「各倶楽部、研究團体等ハ實質上相異ナル分派ヲ形勢シ居リ」とされ、十の各派の「(1)内部状勢」と「(2)議會対策」について捜査結果が列記される中で、「思斉會」については以下の様に記述されている。

 思斉会が「官僚支配態勢ノ打破」や「翼賛會ノ不必要性」を掲げ、「議會至上主義」を抱懐して、「議會対策」の面では「議會ノ権能確保、自治制度擁護ノ見地」の観点から「政治活動」を展開しようとしているとされている事が刮目に値する。
 この後者の附表では「思斉會(一〇名)」の所属議員として、鳩山一郎・安藤正純・星島二郎・芦田均・田中亮一・川崎克・北玲吉・阪東幸太郎・尾崎行雄・斎藤隆夫の名前が列挙されている。
 この両史料に対して「内的批判」を行なえば、前者の「内部状勢」では「會員中議會ニ議席を有スルモノ」が「七名」とされているのに、後者では思斉会の所属議員は「一〇名」とされており、矛盾があるのが分かる(前者が後者よりも時間的には早い時期の捜査によるものであろうか)。また、その「一〇名」中に同交会に属さなかった斎藤隆夫も名前が挙げられているのが注目される。更に、この両史料から思斉会の実像が明瞭になったが、思斉会が如何なる経緯で何時設立されたかに関して陳述されていない事等から、後楽会と思斉会との関係性は依然として明確には知り得ない。
 かくの如く採取した関係諸史料を厳しく吟味した結果、同交会が解散後に「ころもがえ」して後楽会となり、更に思斉会が結成されたという、単なる時系列的展開として認識するのは慎まねばならないという事が言える。同交会解散後の状況の解明には、矢張り最終的には関係一次史料の発見を今後に俟つしかないであろう。

[1].IPS Doc.No.2323:DOKOKAI, by SEKO Koichi-Source, HATOYAMA, Ichiro (GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section; Entry No.329  Numerical Evidential Documents Assembled as Evidence by the Prosecution for Use before the IMTFE, 1945-47).国立国会図書館所蔵のマイクロフィルム版で利用した。国立国会図書館請求記号IPS-18 R315:0821-0352であり、史料の表記は、基本的には国立国会図書館のそれに依っている。
[2].回想世耕弘一編纂委員会編『回想世耕弘一』(回想世耕弘一刊行会 昭和四十六年)十頁。
[3].『官報』四千二百三十八號 昭和十六年二月二十四日。『官報』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧・利用した。
[4].楠精一郎『大政翼賛会に抗した40人―自民党源流の代議士たち―』(朝日新聞社 平成十八年 十八-十九頁 )。
[5].楠前掲書十九-二十頁。
[6].楠前掲書二十一頁。
[7].昭和十七年五月五日付『朝日新聞』朝刊掲載「各派當選者數」。『朝日新聞』は「朝日新聞クロスサーチ」で閲覧して利用した。以下、同様である。
[8].昭和十七年五月三日付『朝日新聞』朝刊掲載「昭和十七年四月三十日 衆議院総選挙大観 朝日新聞社調査」。以下、この記事は「昭和十七年四月三十日 衆議院総選挙大観 朝日新聞社調査」と略称する。
[9].木下宇陀児『土性骨風雲録 教育と政治の天下人 世耕弘一伝』(鏡浦書房 昭和四十二年)四五五頁。
[10].高山福良・原嶋亮二編『小林錡先生』(小林錡先生顕彰会発行 昭和三十八年)六―七頁。
[11].昭和十二年五月二日付『朝日新聞』朝刊。
[12].「昭和十七年四月三十日 衆議院総選挙大観 朝日新聞社調査」。
[13].小林実「錡兄の生い立ち」前掲『小林錡先生』八十―八十一頁。ここで述べられている得票数は前掲の「昭和十七年四月三十日 衆議院総選挙大観 朝日新聞社調査」で報じられている小林錡の得票数とは異なっている。
[14].竹前栄治『G H Q 』(岩波書店 昭和五十八年)一三六頁。本書九十頁では「一九四六年には、A級戦犯を裁くための極東国際裁判所(東京法廷)やBC級戦犯を裁くための横浜法廷が開廷されるに及んで国際検事局(IPS)が設けられ、法務局が幕僚部から移動して参謀長直属の官房になった。」とされている。本書収録の「略語票」によれば、IPSはInternational Prosecution Sectionの略記である。
[15]. File #462:DOKOKAI,MEMORANDUM,9.APRIL 1947 (GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section; Entry No.319 Numerical Case Files Relating to Particular Incidents and Suspected War Criminals, IPS, 1945-47) .国立国会図書館所蔵のマイクロフィルム版で閲覧した。国立国会図書館請求記号はIPS-09 R71:0821-0873であり、史料の表記は、基本的には国立国会図書館のそれに依っている。
[16].冒頭部で触れた、アメリカ合衆国国立公文書館で所蔵されている世耕弘一先生直筆「同交會之記」を意味する。尚、これを英訳した史料も同館には所蔵されている:File #462 :DOKOKAI, Account of DOKOKAI(GHQ/SCAP 
Records, International Prosecution Section; Entry No.319 Numerical Case Files Relating to Particular Incidents and Suspected War Criminals, IPS, 1945-47).国立国会図書館所蔵のマイクロフィルム版で閲覧した。国立国会図書館請求記号はIPS-09 R71:0821-0873であり、史料の表記は、基本的には国立国会図書館のそれに依っている。こうした点からも世耕弘一先生直筆「同交會之記」はGHQ側から非常に注目されていた事が分かる。
[17].IRAAはImperial Rule Assistance Associationの略記である。
[18].昭和十七年五月三日付『朝日新聞』朝刊掲載「総選挙大観補遺」。
[19].衆議院・参議院編集『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑」(大蔵省印刷局印刷 昭和三十七年十二月発行)。国立国会図書館「帝国議会会議検索システム」で閲覧して利用した。
[20].粟屋憲太郎著『昭和の政党』(岩波書店 平成十九年)四〇八―四〇九頁。伊藤隆「「自由主義者」鳩山一郎」(『年報・近代日本研究-4―太平洋戦争―開戦から講和まで―』(山川出版社 昭和五十二年)収録)七十頁では、「鳩山系の思斉会」は、「後楽会とどういう関係になるかはっきりしない」とされている。
[21].昭和十七年五月十五日付『東京日日新聞』朝刊掲載記事「同交會解消」は、毎日新聞社のデータベース「毎索」で閲覧して利用した。この記事に付されている振り仮名は便宜上省いた。
[22].昭和十七年五月十五日付『朝日新聞』朝刊掲載「同交會も解散決定」。
[23].昭和十七年五月十五日付『讀賣新聞』朝刊掲載記事「同交會も解散記事」は「ヨミダス歴史館」で閲覧して利用した。
[24].国立公文書館所蔵『昭和十七年十二月二十一日 第八十一回帝國議會諸問題(附衆議院各派所属議員名簿) 警視廳情報課』(国立公文書館 「分類」返 青 「排架番号」3A・15・6-4)。

追記
 本稿では近畿大学関係者のみは「先生」としたが、それ以外の人士については敬称を省いているので、この点は諒とされたい。
 原典尊重の観点から引用史料の表現・漢字は、原則として、そのままにしている。

写真:昭和14年頃の世耕弘一(『立憲政友』昭和14年11月號より)

(2022年12月1日公開)




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