ノブレス・オブリージュと愛

前回:感謝の閾値

3. 人生

3-3. ノブレス・オブリージュと愛

幸福を創造するものとして「感謝」について話した。次は「愛」だ。

これは一般に幸福と結びつきやすい概念かもしれない。「愛とはなにか」なんて考え出すとまた大変なことになるけど、簡単にいえば、「愛は、相手のためを真に考えた、見返りを求めない与える行為」なんだと思う。

例えば、俺が君を愛していると言ってプレゼントをあげた後に、なんらかの見返り(ハグとか肩もみとか?)を要求したら、君は俺の愛を疑うだろう。俺が君に好かれたい、あるいは嫌われたくないために、君にプレゼントを、それも君を堕落させるようなものを何度も与えていたら、やはり君は俺の愛しているという言葉を疑うだろう。

愛は、利己を超えた利他に立脚する。生物は根源的に利己的な存在だから、真の利他はとてもとても難しい。

恋は、生物の範疇の情動に過ぎない。愛は、意識あるいは理性によって到達する高度な情動だ。

それから、愛は別に恋愛に限ったことではない。見ず知らずの他人や、他の生物だって愛することはできる。

愛も幸福を創造できる。つまり、人間はなにかを愛すると幸せになれる。これも人間の実に素晴らしい才能の1つだ。本来、利己的なはずの生物である人間が、愛するという利他行為で自らが幸せになれるんだから。

この心理メカニズムもやはり社会性生物である人間の生存と繁殖に有利だったから育ってきたんだろう。

社会性生物として進化してきた人間は、ルールや常識に同調しすぎて自身を集団の部品化してしまうという恐ろしい負の面を持っている。一方で、感謝や愛という利他で自らを幸福にできるという素晴らしい面も手に入れた。仏教に輪廻という考え方があるけど、俺は社会性生物として生まれることができて本当に良かったと思ってるよ。

欧米で浸透しているアイデアに、ノブレス・オブリージュというのがある。これは、「高貴なる者の義務」なんて具合に訳される。高貴なる者、つまり貴族や経済的成功を収めた人は、「世の中になにか良いモノゴトを還元すべきだ」という考え方だ。

この考え、どうだろう?

貴族は生まれながらにして貴族として高い文化レベルの暮らしを享受しているから、すんなり納得がいくかもしれない。けれど、経済的成功については相続などでもない限り、その人の努力で達成したのだから、寄付をせずに遊びや高級な商品を買うのに好き放題に使っても批難される覚えはないと思うかもしれない。現に日本人はこういう考え方が多い気がする。

本当にその考え方は正しいだろうか。例えば、学歴別年収ランキングなんてくだらないデータをみると、(これもまた平均値しか公表されていないけど)東京大学が1番高いことになっている。そして、東大生の親の過半数が年収950万円以上であるというデータもある。日本の世帯平均年収は550万円らしい。これらのデータだけからでも、東京大学に入り高い年収を得るようになる人は、親が相対的に高収入で、恵まれた教育環境が与えられていたという想像ができる。

逆に日本の子どもの6人に1人は相対的貧困状態にあるとされている。相対的貧困ってのは、平均の半分以下の世帯収入が該当する。この状況にある子どもたちは、同級生がみんな持っているものを買ってもらえず、習い事や塾に行くことができない。言うまでもないだろうけど、世界に目を向ければ、教育を受けるどころか生きるのに必死で、飢餓を逃れるために日本なら小学校に通う年頃から働き続ける子どももたくさんいる。

『銃・病原菌・鉄』という本があるのだけど、この本の著者が偉いのは、北半球の人々が恵まれた生活をできているのは、南半球の人に比べて優秀だったからではなく、たまたま恵まれた自然環境に暮らしていたから、ということを強い説得力をもって説明したことにある。

俺はノブレス・オブリージュはみなが持ち実践するべきアイデアだと思ってる。なぜなら、社会的成功がすべて個人の後天的努力だけによることはありえないからだ。才能と呼ばれるものは、結局、親の優れた資質を運良く受け継いだだけだ。恵まれた環境を親や地域に与えてもらったから成功できた面は間違いなくある。

とはいえ、「高貴なる者の義務」の義務ってのはちょっとイケてない。理想は、社会的成功者が自ら「高貴なる者の義務」を、愛によって実践することじゃないかな。

鍵はやっぱり愛なんだ。愛による利他は幸福を生んでくれる。

だから、ノブレス・オブリージュを実践するお金持ちは、高級ブランドという虚構の奴隷に堕ちたお金持ちよりはるかに幸せになれる。

愛することで幸福になれる、本当に素晴らしい才能じゃないか。

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