学校より協調性を育むのに優れた場所

前回:理系より文系が偉い?

1. 学校

1-7. 学校より協調性を育むのに優れた場所

おかしな大人の2つ目の常識は、「学校に行かないと協調性が身につかない」だ。これは正しそうに聞こえるかもしれないけど、実はおかしな話だ。

集団で生活することを求められるのは別に学校だけじゃない。例えば、サッカーや吹奏楽だって立派な集団生活を体験できる。というか、学校よりよっぽど「集団で創造する」ということについて学べるんじゃないだろうか。

だって、学校は基本的にはただ一緒にいるだけだけど、サッカーや吹奏楽は集団が共通の目標に向かって進む必要があるからだ。その過程で、集団でなにかをするということが決して表面的に仲良くしたり、輪を乱さないように自分を抑えたりすることじゃないってことに気がつくはずだ。学校の協調性は多くの場合、軍隊的で思考を停止させる抑圧システムでしかない。集団の意義について勘違いを起こすリスクがある。

人間は1人じゃ生きていくことはできない。けれど、おかしな大人が強要する集団生活ってのは本当は必要じゃないものが多いんじゃないかな。

彼らが求める規範は、彼らが慣れ親しんだシステムを乱さないためにのものに俺にはみえる。彼らはそれが崩れるのが恐いし嫌なんだ。

ただ、それはしょうがないことでもある。生物ってのは本来、変化を嫌うようにできているから。人間も例外じゃない。変化を宣伝する扇動家もいるけど、変化が口で言うほど簡単じゃないことは知っておくべきだ。

とは言え、君がおかしな大人の慣れ親しんだシステムの犠牲になる必要なんてない。なるべきじゃない。そういう大人のいう協調性は所詮、そういう大人に都合の良いシステムの歯車、部品になってもらうための素養でしかないことがほとんどだ。過労死からセクハラまで大企業の醜悪な点が延々発生するのは、学校が強いるおかしな協調性とも無関係ではない気がするね。

さて、これでやっとおかしな大人のおかしな常識を伝え終わった。

別に学校に無理していくことはない。楽しいなら喜んで行けばいい。嫌なら行かなきゃいい。それだけだ。俺は本当にそう思ってるよ。けど、君が学校に行くにしろ行かないにしろ、なにかを学び続けてくれたら嬉しい。そして、学ぶというとき、そこに含まれる大切なことに、「自分で考える」ということがある。「自分の頭で考えよう」なんて呼びかけられたりもしている。次はその辺について考えてみようか。

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