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さよなら生姜焼き



 仕事終わり。混雑した新宿から総武線に乗り込み、運よく座ることができた。今日は心底疲れている。私は鞄を抱き締めて目を瞑った。これから約四十分。喧騒から静寂へと向かっていく。静寂。そうだ。孤独を愛する私は、誰も選ばず、誰からも選ばれずに静寂へと向かっていく。

 広い賃貸住宅。散らかり放題の自室と空っぽの隣室。長い間使用されていないキッチン。冷蔵庫の片隅には期限の迫った生姜焼きのタレ。
 あの日、未希みきが作ってくれたあの生姜焼きが、親友と呼べる存在との別れだった気がする。孤独との境界線。あれが最後の晩餐だった。

 未希は、遠距離恋愛に限界を感じて地元兵庫から出て来た。彼氏は年下の新卒で同棲はまだ早い。しかし、一人で住む勇気も無く、埼玉に住んでいた私を頼った。私は未希の為に、彼の家に近い千葉で2LKの賃貸を契約して引っ越し、同居生活は始まった。
 私は平日仕事で帰りが遅く、未希は念願の蜜月で週末は彼の所へいく。すれ違いの日々だったが、時間が合う時には夜遅くまで語り合い、少女漫画のような憧れのルームシェア生活を送れていたと思う。
 予感が始まったのは、未希が厳しい研修に耐えられず仕事を辞めてからだ。未希はおっとりした性格で、決してキャリア志向では無い。直ぐに次の仕事を始めたが、夏の猛暑で体調を崩した。それから未希は一日中寝続けた。しかし、週末は変わらず彼の所へいく。
 最初は心配していた私も、次第に不満が溜まっていった。仕事で深夜帰りに、エアコンがある部屋を未希に譲ったこともあって寝不足が続き、遂に喧嘩になった。
 「ゴミくらい出してくれんかな?」「体調悪いねん。そうゆう時ってあるやん?」「そうゆう時って……一回もいったこと無いやん!」
 予感は確信へと変わりつつあった。私は気付かないふりをしていたのだ。

 その喧嘩から一週間後、私が珍しく早く帰宅できた夜。未希は私の為に豚の生姜焼きを作って待っていた。甘辛く香ばしい。シーリングライトがやけに眩しく感じた。私は仲直りとさよならの時が来たと思った。
 未希は遠慮がちに「あんな……赤ちゃん……できとったんよ」と俯く。
 生姜焼きは、豚肉と玉葱を市販のタレで炒めたシンプルなものだった。
 「だいぶマシやねんけど、まだつわりあるから。ええよ。全部食べて」と未希は微笑む。
 私はあっと言う間に完食した。売れ残りの半額弁当ばかり食べていた私にとっては、この上なく豪華で、この上なく温かいご馳走だった。皿の残り汁すらきらきらと光って輝いていた。何の変哲も無い生姜焼きは特別で、未希がこれから築いていく家庭と未来の味がした。

 三十前になると友人は次々と結婚出産育児で忙しくなり、私から離れていった。私にはあのきらきらとした生姜焼きを作ることはできない。私は今日も夜遅く、売れ残りの半額弁当を手に空っぽの家へと向かう。

帰宅途中 新宿駅にて(2019年7月)


 こちらも大学のレポートで提出したもので、テーマは「思い出に残る食事」。実際に体験した出来事を小説風にアレンジして書いた。
 食事をどう描写するか見る課題にしては、食事以外がメインとなってしまった。その点を反省として教員に伝えたのだが「孤独と家庭。生姜焼きの持つコントラストが実感を伴っており、単に情報量を増やすよりも効果的」とお褒めの言葉を頂いた。
 私としては、度々間に挟む「予感」についての一文が、稚拙でリズムが悪く気に入らない。数ケ月か、数年か。将来成長した私ならもっと適切な言葉が思い浮かぶのかもしれない。いつかその時が来たら、今度は長編小説として同居生活について書いてみたい。

ご清覧賜りまして誠にありがとうございます。
是酔芙蓉ぜすいふよう

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