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「今日と昨日の隙間で」について

勝見ふうたろーです。
先日「今日と昨日の隙間で」という読み切りを描きました。この記事は本作についてのあとがきというか、自分語りのようなものです。

作家として生きていきたいが、努力不足で結果的に安定した生活をしようと思えば一般就職しかないのかと絶望した二月の終わり頃、不安にかられて焦りながら描いたのがこの作品でした。
いつもなら(僕なりに)もっと分かりやすい台詞まわしをするのですが、今回はあえて自覚のある上で、針の穴を通すようなギリギリのネームを書きました。
というのは、中盤の「どんな人にも優しいところがあるんだ」という所、急に前後の文脈を断ち切ってそんな事を言い出したのに対し、もう一人の方もなぜかそれを汲み取った反応をしています。読者の方は面食らったでしょう、場面には関係ない事を無理にねじ込んであるのですからそれはそうだと思います。

僕は、絵を想定してコマを割る「ネーム」を描く前に、プロットとはいかない、単語や短文を羅列したメモをいくつか作ります。この作風はやろうと思ってやり出した訳でもなく、いつのまにか確立した方法でした。その中に「どんなに酷いように見える人でも、誰かを傷つけるその対岸で誰かを想うことがあり、これまでの人生で優しさを持たなかったことなんかないのだ」という旨の文章を書いていました。これをどうしても入れたかった、その為にキャラクターと演出を犠牲にしてしまったのです。こういう読み切りになるほど、僕は作品のテーマの為にキャラを作ってストーリーを進める「出来レース」のような事をします。だから見る人によっては内省的すぎて敬遠されるという事も自覚しています。自覚していながら、僕はこの描き方を誇示したいのです。

それは、「会ったことも話したこともない、どこかの誰か」の寂しさに気づいて、そこに寄り添いたいからです。
人を選ぶ作品ということは、合う人にはとことんまで合うものだと、僕は思います。生産消費、エンターテイメントの本流に確かに多くの人は集まりますが。その支流、もっと言えば隔絶された小池や水溜まりで暮らす、誰かの優しさを尊重したい。そういう気持ちがあるのです。

もちろんそんな大仰な事を、芸術を通じてどこまで表現できているかなんて自信はありませんが、それでも自分が出来る精一杯を、今回出来たと感じます。
どんなに小さな星だって、燃えれば光を放ちます。誰もが平等に尊いし、幸せになる権利がある。「どこかの誰か」に簡単に声を届けられる時代に、幸運にも生まれられた僕が出来る精一杯を、これからも描いていきたいです。

夜分遅くに失礼しました。
それでは、おやすみなさい。

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