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「言葉」の持つ目隠し

僕は別に、これから書く文章の中で、言葉や文章の価値を否定しようとしたい訳では無い。現にこのエッセイは日本語を縦横無尽に行き来して執筆されているし、僕は日本の中で日本語を使う。それに対して感動や快さを感じることも多い。

要は、「言葉にしては魅力の一切が無くなってしまう感性や味わい」を伝える最も手っ取り早い方法は言葉だという矛盾に気づいたのだ。言語化はそのものが本来持つ真意や奥行きを狭めてしまうのではないか。僕は自分でも信じられないほどに懐疑的になった。単語のフィルターを通して平易な感情になってしまったものの多さを考えてみる。頭の中にあった時にはあんなに色合い豊かに、大きさや重さもそれに比例して目を見張らんばかりのものがあったのに、いざ筆をとって紙に記したり、整理して声にした途端、こぢんまりしたつまらないものに早変わりしてしまった経験は数えきれない。

言語を取得する前の、幼児が見る言葉のない世界は現在より感性の面に於いては豊かだったのではないだろうか。それを知る術はないし、思い出すことも出来ないが。人間の一人一人の脳の中に、これまでアウトプットされてきたどんなものよりも美しい感覚の世界が広がっていることを想うと胸が熱くなる。質量も形もないままに、この世のどんな芸術をも凌駕する圧倒的な力があるのだろう。

ここまで書いて思ったが、絵画や映像にも同じことが言えようか。いやむしろ小説や詩よりも強力に視聴者のイメージを限定付けるものかもしれない。例えばミステリー小説をコミカライズした時、キャラクターや建物は絵という実体を与えられて物語を動かしていく、アニメ化した際は、動作はより厳密に、しかも音声まで加わる。文字・言葉は創作に於いて、最初に芽吹く双葉なのではないか。これはもう仕方がない、ならばせめて多くを吸収し、自分の頭のイメージとの齟齬を最小限に抑え、また受取手との齟齬も最小限に抑え、豊かで自由な表現を実現していくしかない。

僕は言語学者ではなく漫画家だ。詳しいことは分からないし調べようにも膨大すぎる。だから今回のエッセイはほぼ体験と想像で書いている。言葉は難しいが、同時に面白く、また可能性を秘めている。国によって生まれた言葉が違うのも、その風土に根付く文化と深く関係があると思うし、各言語によって表現が得意な分野があるとも考えるし、その垣根を超えることだって現代ならば容易い。英語の俳句だって存在する。色々書くと長くなるので、この話はまた別の機会に。

それでは

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