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静かに居なくなる

開けっぱなしにしている西の窓から線香の匂いがした。段ボールだらけになってゆく部屋もだんだんと見飽きてくる。物はほとんどなくなって床には本と書きかけのノートが散らばっていた。空白だらけの部屋で苦しさに似たガスがひろがっていく感じがして、それで思い切り窓を開けた。

外から静かに会話が聞こえてきて、アパートの大家さんが数日前に亡くなっていたことを知る。わたしの部屋は大家さんの敷地内に隣接していて、まるで東京とは思えない突然の森のような庭を抜けると辿り着ける。この森を管理していたのはもちろん大家さんで、枯れ木のように静かな人だった。


夏、網戸に穴が空いていて蚊が入って困ると電話をかけたときは、その1分後に部屋までやってきて、本来の蚊はこれぐらい大きいからこの穴だとギリギリ網戸を通らない、ととても静かに力説して帰っていった。本来の蚊、について考えているうちにまた蚊が入ってきてしまい、結局その穴はセロテープで塞いだ。
とにかく声と所作が静かで、飼っている犬までが静かだった。毎朝そっと散歩に出かける様子を2階の部屋からよく眺めていた。

奥さんと聞いたことない男性の声が聞こえて、突然のことでしたね、とか、生前はお世話になってとか話の断片が聞こえてくる。
違和感を感じて耳をすませると、たぶんどうやらそういうことだった。

大家さんと特別な交流があった訳ではなくて、この部屋だって1年も住まないで、今はこうやって引越す準備をしている。
静かで、少しだけ浮いているような人だった。網戸を差した、あの細い指を思い出す。

この世からいなくなるということは、一体どういうことなんだろう。
悲しみと恐怖のイメージに塗れたその印象は近年少しずつ変化があった。だけどこうして、誰かの死の気配を近くに感じるとやっぱりどのように考えたらいいのかわからない。
大家さんは静かに居なくなった。

いま私の中にある感情はやりきれなさに近い気がするが、それはまだ考えている途中。

わたしは来週ここを去る。この部屋が空のままで年を越すのはとても寂しいような気持ちになるから、はやく次の人が見つかるといいと思う。

さっきから雨が降っていて、2階まで育った金木犀にも静かに雨があたっている。

部屋を見渡すとやっぱり段ボールだらけで、その中に畳まれた自分の服が、今朝は他人のもののように思える。







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