【番外編vol.2】私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?裏話

 このnoteは、cakes掲載のエッセイ「私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?」の番外編vol.2です。

 なお、cakesのエッセイは、無料公開を1週間に延ばして頂きました! 8/31(水)午前10時まで無料で読めます。それ以降も、1週間無料のお試し購読か、有料会員に登録すると、最後まで読めます。

▶︎第9回 私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?
※8/31(水)午前10時まで無料
https://cakes.mu/posts/13716

 番外編vol.1はこちら↓↓

  今回vol.2では、講義の日から、記事を仕上げるまで(20日以上かけて7回書き直し)の過程をお話ししたいと思います。
 そのため、このnoteは、書き手としての手の内を見せてしまうことになりそうです。今後の執筆活動のためにもしっかり身に刻んでおきたいと思います。また「エッセイを書きたい」と思っている人にとって、何かの参考になれば幸いです。
 あとは記事内で触れた、風俗嬢ライターの菜摘ひかるさんのことについても、少し補足を加えます。

エッセイ掲載までの道

 そもそも、教授から講義の依頼を受けたのは、今年3月のこと。

 教授は、cakesの連載初回( https://cakes.mu/posts/11970 )を読み、興味を持ってくださったらしく、はじめから「cakesの記事でネタにして構いません」というお話でした。
 文月、この時点で担当編集者に連絡。「ぜひ書きましょう」ということで話がまとまります。初体験を重ねていくことが連載の趣旨なので、「大学の教壇に立つ」というのも、ある種の「街へ出る」体験だろう、と考えたのです。

 当日を迎えるまで、そして講義終了時も、おかしな手続きはありませんでしたし、特に不便もありませんでした。招聘講師として学生に引き合わせてくださった点において、教授には充分誠意を持って対応して頂いたように思います。

 ただ教壇という公の場で、「異端者」のレッテルを貼られ、あの質問をぶつけられたこと。それだけが心に引っかかっていたのです。

 さて、講義を終えた私は悩みました。講義について書くならば、あの質問抜きには語れない。かといって、あの不躾な質問と向き合うのも苦痛でした。書き出そうとしても、教授がどんな狙いであの質問をしたのかわからず、そこで思考が停止してしまいます。

 当初の原稿は、今掲載されている内容とはまるで違うものでした。
 質問の扱い方を迷った私は、質問に困惑する場面も描きつつ、最終的には「学生たちと心温まるコミュニケーションが取れてヨカッタ!若いっていいよね!」といったお気楽な原稿を編集者に送ります。
 年配の教授と、若者(学生・私)のズレをコミカルに描き出した……つもりでしたが、問題の核心から逃げていたのだと思います。これが初稿でした。

 案の定、編集さんから「軸を作れていない」と指摘が入ります。そこで、電話による打ち合わせを行うも、私が優柔不断なこともあり、話がまとまりません。
 けれども、その電話で初めて「講義の環境自体が息苦しいものだったのでは? こちらの権利を制限されていたのでは?」と気づきます。

 そこから1週間後、再び編集さんとメールでやり取りし始めたときは、例の質問を中心に書く覚悟は決まっていました。
 でも、今度は「質問者の存在を記事の中でどう扱うか」悩んでいました。「大学」「教授」という情報をぼかして書けば切り込みやすくなるのでは、と思ってみたり。この時点で、教授に対して「怯え」がありました。

 そして原稿の半分以上が書き直し。この要領の悪さ……。私の優柔不断っぷりというか、臆病さが表れていると思います。

 飛んで、第5稿から第6稿への改稿。ここが一つの山場でした。

 実は第5稿には、このような記述がありました。

「おそらく教授に、性風俗業に就く女性を貶める意図はない。むしろ『特別なもの』として神聖視しているように思える。その捉え方は、一見対象を持ち上げているようだが、自分の日常から都合よく排除する見方でもある。『普通の人間ではない』という偏見の裏返しかもしれない」

 しかし、教授が「娼婦」を「神聖視」していることの根拠が十分ではなく(そもそも教授が「娼婦」をどういう対象に捉えているのか謎です)、読者に理解を求めるのは難しいだろう、ということで、本文から削除。

「被害妄想」とまではいかないけれど、そのように読まれかねない箇所も削りました。当事者である私の感覚においては真実なのですが、語り手に対して不信感を抱かせるのは混乱の元です。
 個人の感覚を率直に書けば、どうしたって歪みが生じます。その歪みを取り、ひたすら客観性を加えていく推敲作業でした。

 不用意に思える表現を削っていくと、傷つかないように守っていた自分の殻をどんどん破らなくてはいけません。「私の辛さの居場所……(どこ?)」と身を切られる思いでした。
「苦痛は苦痛だよ、理屈じゃないから説明できない」と閉じこもりたい気持ちもありました。理屈に触れず、教授を一方的な悪者に書くのは簡単です。
 でも、読者(特に男性)に伝えるためには分析が大事。痛みをこらえて、「自分は何が苦痛だったのか? どうして気持ち悪かったのか?」と嫌悪感を解きほぐす作業に取り組みます。

(たぶんこの作業は、私が書くことに慣れていて、教授から精神的な支配を受けていないから可能だったこと。影響が甚大な人ほど、冷静に語れないくらい内面は混乱しているものだと思います)

 第6稿で晴れて掲載、の予定でしたが、私から「女性の方にも意見を伺いたい」とお願いして(※担当編集さんは男性)、女性の編集者の方に原稿を読んでもらうことになりました。

 女性たちから突っ込みが入ったのは、主人公(=文月悠光)の「鈍感さ」。
「なぜその場で言い返さないのか?」「教授側に寄った分析よりも、質問をちゃんと『気持ち悪い』と切り捨てて欲しい」という(冷静な苛立ちの)声でした
(※追記:ネットでも、男性は「娼婦」と「詩人」の類似性に分析が足りない、なぜ気持ち悪いのかわからない、という意見があり(私から教授側の心理を分析すると、記事の整合性が取れない気がするのだが……)、女性はその点には触れず「セクハラ」と断じる声が多かったです。立場が異なると、こんなにも受け取り方が違うのかと、溝の深さを感じます)。

 私は「なるほど。そういう読者の居場所も、原稿の中に作らなくてはね」と思う一方で、すっかり自己反省モードに。

 私はどんな言葉も一旦は飲み込んで考えてしまうタチです。決して鈍感なわけではありません。でも「相手の言動に傷つかないように、意識を手放してしまってはいないか?」とその指摘から思い至ります。不快な言動を受けると、それに対して「闘う」ことよりも「守る」ことを優先してしまう。
 仮にその場で怒りを表明すれば、場の空気を乱し、さらに攻撃される可能性もあります。「あなたは場の空気を優先したんでしょ?」と言われたら、その通りです。

「飲み込む」という私の反応が、問題を助長したのだろうか……とウンウン悩むうちに、台風前のひどい頭痛と吐き気に襲われて(加えて新刊のゲラチェックやシンポジウムの準備が入ったりで、殆ど寝ていなかった)、「いろいろ立て込んでいるので、明日の更新は見送りましょう」と編集さんに連絡。
「早く原稿を直さなくては」と頭では分かっていたのですが、「あの苦痛と向き合うのは勘弁!」と土日も含め3日放置(ごめんなさい)。

 しかし、時間を置くことで、「言い返せない側の人の主張として、エッセイを読んでもらいたい」という思いが強くなりました。
 そこで読者の負荷を減らすため、記事全体の構成を大きく変えます。第7稿は編集さんからOKが出て、記事のプレビューページもできました。

 掲載日が迫っていたとき、幸いなことに「待った」がかかります。再び女性に読んでもらったところ、次のような指摘が入りました。

「娼婦が『縁のない、一緒にされたくないもの』という風に読める」
「娼婦になるのが嫌で、恐怖だと読める」

 教授の言動に向けた憤慨や恐怖、ドライな対応が、見方によっては「娼婦」「風俗嬢」にかかっているように読める。これは大問題でした。
 仮に「詩人と娼婦を結びつけるなんて」と(教授に対する批判として)言い切ったとき、それが(安易な同一視を避けるための)切り分けではなく、「娼婦」を排除しているように響いてしまうのです。

(※追記:私が抱いているのは、「娼婦」(ヒエラルキーの下に置かれがちな職業)と並べられたことへの怒りではなく、発言者と関係を持ちうる役割(娼婦)を押し付けられたことに対する、気味の悪さ、息苦しさです。そこを履き違えて批判されている方が多いので、念のため追記しておきます)

「『娼婦についてどう思う?』の答えが読み取れず、筆者にとって『娼婦』がどういう存在か説明されていない」ことも、その問題に拍車をかけていました。
 しかしそれに真っ向から答えてしまっては、質問の罠にかかることになります(記事内の「『興味がある』と答えたら、私を『性に奔放な女』にカテゴライズするんですか? 『無理です。やりたくない』と答えたら、『性風俗業を蔑視する女』にくくるんですか?」は、罠に対する葛藤でした)。

 自分のセックスワーカー像も、差別意識を含んでいないとは言い切れないのではないか? と自問したときに、風俗嬢ライター・菜摘ひかるのことが再び頭をよぎりました(講義当日も実際に彼女のことが思い浮かび、教室でその名前を挙げました。なので、彼女のことは決して後付けではありません)。

 身の丈で書いてみよう、と菜摘ひかるへの印象を書き加えた。
 それが第8稿、いま掲載されている原稿です。
 たび重なる改稿にお付き合いいただいた担当編集者さん、女性編集者の皆さんに、心より感謝を申し上げます。的確なご指摘と、支えてくださる方の存在がいなければ、あの原稿は決して書き切れませんでした。

 時間と逡巡を重ねて書いた原稿だったので、フェミニズム研究者の清水晶子さんが上記ツイートで仰ってくださったこと、非常に救われた気持ちになりました。同時に、自分は初稿の段階でなぜ全てを言語化できなかったのだろう、という反省も喚起します。

 本心をごまかすために言葉はある。そして、その「ごまかし」を暴くのも、言葉なのだ、と改めて実感しました。

菜摘ひかるへの眼差し

 さて、cakes記事内では、菜摘ひかるへの印象について次のように書きました。

 私は学生時代、風俗嬢ライター・菜摘ひかるのエッセイを愛読し、一種の中毒のように何度も読み返していた。文章に描かれた、労働することの辛さや歓び、激しい渇望は、風俗嬢という職業の枠を超えて、私を強く惹きつけた。魅了される気持ちの中には、働くことへの憧れと、性の仕事に対する下世話な好奇心も入り混じっていたように思う。その「好奇心」の中に差別的な目線はなかっただろうか、とのちに深く恥じた経験がある。

 しかしTwitterで、とある感想(現在は非公開)を目にしたとき、自分の菜摘ひかるへの印象も一面的なものに過ぎないことを悟りました。
 その方(女性)は、菜摘ひかるの作品に「労働することの辛さや歓び、激しい渇望は」などは感じず、「自己処罰」「自己破壊」の意識が、彼女を性の仕事に駆り立てたのだ、と語っていました。

 確かに、菜摘ひかるの文章には「自己を破壊したい」という捻れた欲求、痛みが感じられます。特に彼女が家族の記憶を描き出すときに、それが強く表れるような気がします。

 もしかしたら、彼女は作家としての才能で、その捻れをうまく抑えて、「労働することの辛さや歓び、激しい渇望」(というエンターテインメント)に転化していたのかもしれない。あるいは、私が彼女の文章の「面白い」と思える箇所をピックアップした結果、「辛さや歓び」といった軽々しい印象だけになってしまったのかもしれない。
 ただそんな私も、菜摘ひかるの小説『依存姫』を読むと、強烈な飢餓感覚に圧倒され、引き込まれてしまいます。菜摘ひかるが登場人物に憑依して、傷だらけになって泣いているように感じられるのです。

 おそらく過去の私は、自分を「安全な場所」に置いた上で、勝手に彼女に憧れを抱き、「もっと書いて!もっと読みたい!」と、自分にとって美味しいところばかり欲しがっていたんですね。
 それは「読者」「ファン」という立場であれば、別段責められることではありません。
 ただ、その感覚にもっと自覚的にならないと、どこまでも傲慢になって、私こそ誰かに「幻想」を「ぶつけ」かねない、と危機感を抱きました。

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 長くなりましたが、私からこの件に触れるのは、これで最後にしようと思っています。エッセイが予想以上に多くの方の目に留まり、話題となったことで、嬉しい半面、「見えない場所で話題にされている(しかし、書き手としての責任も問われている)」という恐怖もありました。
 拙文について感想を述べるのも、批判するのも、読まれた方の自由ですし、読者の声により、新たに考える機会も得ることができました。
 こうなると作者というのは、案外無力なものだな、と思います。
 恐れることなく、言葉が一人歩きしていく様子を見守っていきたいです。

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文月悠光 Fuzuki Yumi

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