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「孤立」についての覚え書き

年に一回だけ、同じ占い師さんに仕事のことを占ってもらっている。
その人は客を励ましたり褒めたり一切しない。良いことも悪いことも淡々と伝える方なので、行ったところで悩みが晴れたり、安心したりすることはない。むしろ盛大にモヤモヤさせられる。そういうところが唯一気に入っている。

今月、1年ぶりに占いに行ったら、話の文脈は伏せるけど、「このまま流されていると、来年の夏に孤立してる」「誰にも見られていない、って」と言われた。私は使い古された様子のタロットカードを見下ろし、それが「怖い」というか、「あり得る話だ」と思った。

元より孤軍だし。誰かと連帯したいと思ったこともないし。そうして人に期待することをやめることで、この仕事を続けてきたのだから。
ありがたいことに、定期的に執筆のお仕事をいただき、それなりにメディア露出の機会も経験できた。
その反面で「誰にも見られていない」という状態がわりとリアルに想像できてしまうのは、なぜだろうか。

最近、周りで起きることが「孤立の序章」みたいに見えてくるから不思議である。

○「お客さん」のいる場所
ウェブでエッセイを発表するようになってから、特に外の世界に呼ばれて書いたり話したりすることが増えた。逆に、かつて自分のいた場所からは閉ざされてしまったように思う。
もちろん私が勝手にそう感じているだけだ。自分が選んだ結果なので、後悔のしようもないけれど。

「孤立」が怖い、というよりも、「文月さんがんばってる、よくやってるよ」などと言われて、その言葉に寄りかかってしまい、認知をゆがめていく、というのが怖いことかもしれない。そういう自分の甘ったれたところ、一番嫌いなところ。
かつていた場所からの視線を感じて、そこに対して後ろめたいような感覚がある。本音では「遠くから指さしてんじゃねえよ、こっち来いよ」と思うんですが。遠巻きにされてしまう。

当然に思っていた居場所がなくなると、この穴からどんどん飲み込まれそうな心地がして、すごい孤立感を味わうらしい。

先ごろ発売になった「現代詩手帖」12月号年鑑の〈代表詩選〉に、私の詩は掲載されていない。今年の詩ベスト130編の中に入っていない。
編集者さんとの行き違いが重なった結果こうなってしまったので、それは「今後気をつけましょう」でいいとして。
行き違いが発生すること自体、自分の意図からズレて、詩から離れてしまっていることの証左ではないか? と思う。

そこで改めて考えてしまった。この1年間書いてきた詩の中で、現代詩の読者に読んでほしい詩があっただろうか。
いや、自分で挙げろと言われたら挙げられる。

「花椿」夏号に書いた詩「おめでとう」、青年団リンク キュイ『TTTTT』公演フライヤーに書いた詩「みなしごの惑星」は、今年の自分を代表する一編として挙げたい。
でもこれらは、現代詩の読者がお客さんの詩か、というと迷うところがある。
そもそも、詩の「お客さん」ってなんだ?

○「詩人」を延長する
以前、御徒町凧さんの朗読会に行ったときのこと。御徒町さんが「詩人延長お願いします」というような内容の詩を読んでいた。

詩を書かないと「詩人」を剥奪されてしまう。今日も詩を書いたので、神さま、詩人延長お願いします、と請う詩だ(いま外にいるから確認できず、うろ覚えだけど、たしか『砂の言葉』という詩に入っているはず←嘘です、見当たりませんでした。どこかで見つけたら引用します)。
「俊太郎さんも『この感覚はわかる』と共感してくれたことが嬉しかった」と御徒町さんは仰っていたっけ。

詩を書くことで「詩人」を延長する。
「わたしの現代詩ノート」も、それに近い何かかもしれない。詩について書いたり考えたりすることで詩人の心を取り戻す、延命措置的なものだろう。
(そもそも「わたしの現代詩ノート」って何よ? という方は、この投稿を参照してください)

もちろん詩について考える主体が「詩人」である必要はないし、「詩人らしくあり続けること」にこだわるのは馬鹿らしい、と思った結果が今の自分に繋がっている。ゆえにこの話はループする。「わたしの現代詩ノート」に書く話には結論がない。度々ループすると思う。

過去、複数の知人から「ふづきさんのループ思考は最高のエンタメ」「道に落ちた十字架をわざわざ拾って歩いているのがふづきさん。『それ拾っちゃダメだって!』とみんなが止めるのに、必死に十字架を磨いている」と言われ、前者には困惑し、後者には爆笑してしまった。

我ながら「それ幸せになれなさそうじゃん……」と思って、蓋をしてきたけれど、「そういう風にしか歩めなかった。じゃあこれからどうしていこう」と、先を見据える勇気もようやく湧いてきたのでした。

だいたい、この時期はいつも「もっと詩を書けばよかった」「もっと詩集を読めばよかった」と後悔に後悔を重ねている。
詩に対する後悔ほど苦いものはない。

ジョナサンの店内で流れる、クリスマスソングが耳に痛い。

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