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稲葉真弓さんのご逝去を悼んで(詩集『連作・志摩 ひかりへの旅』評)

作家の稲葉真弓さんが亡くなられた、というニュースが飛び込んできた。まだ64歳……。突然の訃報に心底驚きました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140901/k10014235531000.html

稲葉さんとの出会いは、3年前の9月「ことばのポトラック」での共演がきっかけ。艶やかな作風から強い方をイメージしていたのですが、気品のある優しい方でした。詩人として詩集も4冊発表されており、詩に造詣が深い方でした。朗読会の際、声が綺麗だとしきりに褒めてくださったのを覚えています(不安げな私を励ましてくださったのだと思います)。

今年4月には御詩集『連作・志摩 ひかりへの旅』を東京新聞の月評で紹介し、お礼のお手紙も頂いたばかりでした。そのお返事がきちんとできなかった。メールでも何でもいいから、もっとお話しすべきでした。いっぱいの後悔。筆不精をこれほど悔いることはないでしょう。
歳ははるかに離れた大先輩でしたが、稲葉さんのことば、優しいお人柄が好きでした(訃報記事で初めて気づきました。私の母と同い年だったようです)。

稲葉さんへの感謝と祈りを込めて、御詩集『連作・志摩 ひかりへの旅』を紹介した拙文を以下に転載いたします。

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『連作・志摩 ひかりへの旅』http://www.amazon.co.jp/dp/4896292723

稲葉真弓詩集『連作・志摩 ひかりへの旅』(港の人)は、志摩半島の四季を辿り、どこにも属さない自然の在り方に寄り添う。著者は近年『海(み)松(る)』『半島へ』など、志摩半島を舞台にした小説を発表してきた。執筆の合間に〈詩の言葉が水滴のように私のなかに溜まり〉、〈言葉となって降りそそぐ〉という。確かに本書の詩は、水のようにしっとりとした柔らかさを感じさせる。それは志摩半島と、そこに生きるものへの愛なのだろう。
〈志摩半島の牡蠣がひとつ またひとつ/口を開いたまま海を呼ぶ/食卓に打ち寄せる小さな海〉、〈わたしは牡蠣が好き/あの得体のしれぬ形が好きです/内側に海を抱く殻のなかの暗闇と/岩や石から離れない頑固さが好きです/あの頑固さを 海からさらってくるときの快感が好きです〉(「R=残酷な食卓」)。主体は自然の荒々しさに揺さぶられたり、自然と同化しようと試みたり、自然と向き合うことを通して、自らの芯を保つ。土地の光や空気、目に見えないものまでもが〈衣服〉のように、からだにまといついてくるのだ。
詩「シャララ 夕陽が落ちる」では、地図帳に載っていない〈わたしの庭〉を求めて旅に出る。〈遠い 小さな座標を取り戻すため/わたしは出発する/五月 東京→志摩 四百キロの旅を/空白の地図を埋めるように疾走する〉。私たちは自ら、見えない〈終着駅〉を探し出さねばならない。見えないもの、名前のないものに惹かれるのは詩人の性ではないだろうか。〈名づけられることをひそかに待つものを/さがしていたのだ〉(「名の生誕」)。
中村和恵『天気予報』(紫陽社)もまた旅をする詩集だ。〈行きたかったのは知らない街じゃなくて/どこまでも行くことだったんだこうして/止まらないで海を渡って天山南路を超え/ずっと走って行くんだ昼と夜をまたぎ/夏と冬をとりかえ草原を漕ぎ分け/あしたとあさってをつないで/それでどっちのジョーにしとく〉(「輝く銀の」)。異郷に身を置く主体が鋭く言葉をキャッチして、読み手へしっかりと投げ返す。次の行を辿ることがこれほど待ち遠しく、胸躍る詩集は珍しい。〈ことばが通じるものだと思って/話し始めたわけじゃない/たまたまそこに転がっていた/粘土を拾って/ねじって/ちぎって/くっつけて/ねとねとにして/あなをあけて/ぶばぶば/ちょうちょ/あおむし/せいぞん/してたら/おどろいたことにそつーしたり/もちろんむろんしなかったり/したのだ〉(「無風地帯」)。語りかけるような詩句は、読者と言葉の間の壁を軽々と乗り越えてみせる。

(東京新聞2014年4月5日夕刊〈詩の月評〉より全文)





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