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言葉から意味を剥がす/詩と予言

最初の記事で宣言した通り、「わたしの現代詩ノート」は、主に資料の引用、ときどき日記以上・エッセイ未満の読みものを想定している。
色んな人が過去/現在「詩」について書いていること、イベント等から見聞きしたこと、それに対する私の感想もあればたまに添えようかな、ぐらい。
「引用だけで、お前の意見はないのかよ?」という反応を受けそうで怖いのだが、あんまり「文月悠光が何かやっている」という印象を与えないように気をつけながら、ゆるくやっていきたい(Twitterでそう書いてくれている人がいて、ありがたい反面、怖かった。一応詩人なんだから堂々と詩の話をしたらいいのに、いちいち小心者である)。

先月、前橋文学館で平川克美さんと萩原朔美館長と鼎談した。萩原さんの来歴を知るために役立つのではと、萩原さんが寄稿している中村寛編『芸術の授業』(弘文堂)を手にしたのだが、他の執筆陣も港千尋、青山真治、石田尚志、西村佳哲など豪華で、つい他のページにも意識が飛んでしまう。

同著で、詩人・美術評論家の建畠晢さん、演出家・映像作家の生西康典さんの文章(聞き書き?)に、詩について言及があったので、引用したい。

●建畠晢「つむがれた言葉のあとに――詩と美術のパサージュ」246頁
それから、言葉は、ある種の予感みたいなものをはらむんです。予言みたいなところがある。僕だけかなと思ったら、平出隆さんも同じことを感じていた。すべての詩人がそうなのかはわからないけど、事後的に気づくことはある。書いている時は何を書いているかわからない。最初からストーリーを決めているわけではないから。何を書いているかわらかなかった詩が、発表されてから、後になって「あっ」と思うことがある。要するに、そのことが事後的に起きてしまう。それでも発表した後だったら、もう仕方ない。起きちゃってるんだから。これは予言だったんだなって思う。ところが、書いている最中に気がつくことがある。そういうのは、悪いことの方が多い。たまんないですよ、こんなことが起きたら。だから、それは廃棄する。でも、覚えてるんです、残念ながら。それを忘れなくちゃいけない。起きたら大変だから。
(中略)
そういう時に、つっこんでいっちゃう場合もあると思う。ボードレールとか、中原中也とか、そういう天才たちはつっこんでいく。で、僕の場合は選択になるわけです、「どうしよう?」と思っちゃう。「どうしよう?」って思う時点で、選択する資格はないって僕は思った。詩の天才たちは選択しない。彼らはきっとそこで、何も感じず、そのまま書いていっちゃう。

詩作にのめり込んだ経験を持つ人であれば、この話にはかなり共感するのではないだろうか。詩と予言。私も過去の詩作用のノートを見返していると、「なんだ、このときから言葉ではわかっていたんだ」と感じることがある。

数年前、たまたま立ち寄った古本屋で、ある本の一行目を読んだ瞬間に「これ、私が書いたことのある言葉だ」と気づいた(そもそも変だ。「読んだことがある」ならともかく)。帰宅後に過去の詩作ノートを見返したら、一年前のまったく同じ日付に、その言葉を発見。「愛とは幽霊のようなものだ」。それがラ・ロシュフーコーの名言であることを、古本屋で見た本で初めて知った。

そういう妙な偶然を経験してから、「詩は予言」という話をされても、「あるかもね」と普通に受けとめるようになった。書いている最中に気づけたらいいのになあ。

建畠さんの原稿に戻る。田村隆一の紹介でお見合いした女性が、天才的な回文少女だった、というエピソードもあって、こちらも面白い。彼女の回文の傑作が「わたし今眩暈したわ」。
田村隆一に女性を紹介された、という話は、編集者のKさんからも聞いたことがあるので、詩の関係者の中には田村隆一の仲介で結婚した方もいるのかもしれない(っと脱線)。

あとは西脇順三郎の詩の良さが全然わからなかったのに、「天気」を読んだときにパーッと理解できた、というようなお話も。

 (覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとささやく
 それは神の生誕の日。

西脇順三郎「天気」『Ambarvalia』

孫引きになってしまうけれど、生西さんが引用されていた、高橋睦郎さんのインタビューも興味深かった。

●生西康典「つくったものはどこにいくのか――〈表現〉そのものを考える」314頁
詩人の高橋睦郎さんは「詩の本質は何だと思いますか?」という質問にこう答えられています。

「折口信夫は『日本の詩の最良のものは何もいっていないものだ』と言っています。てのひらに雪をつかんだら、ああ、冷たいという感覚があるけれど、開いたら全部溶けてなくなって何も残ってない。そういうものが最良の詩である……。ぼくも詩歌というものはすべて本来そういうものかもしれないな、と思う。何もいわないということが、いろんなことを伝達するよりももっと大きなメッセージになるのでは。
(「俳句αあるふぁ」2015年10・11月号、毎日新聞掲載のインタビュー記事より)

私はたまに「言葉から意味を剥がす」という言い方をする。表現を飛躍させていくと、言葉から意味が浮く。読んでも「意味」が残らない。情報としては薄いけど、その方がイメージは豊かに思える場合がある。
何もいわない、いいすぎない、ということを心掛けて詩を書く。同時に、読者にちゃんと手渡す箇所もつくる(「何かを言うために言葉がある」と考える人たちには、それがとても矛盾した行為に思えるらしい)。

雪を「手渡す」のではなく、本当は読者に「つかませる」ところまでいきたい。一度手にした時点で、雪はぬるく溶けて、雪ではなくなってしまうから。あとから、本当は雪だったんです、と主張しても読者は戻ってこない。
雪を雪のまま届けることを、詩人は諦めてはならないのだろう。

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