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認めなければ、はじまらない ―2016年の終わりに

おかげさまで、2016年は2冊新刊を出すことができました。
初めてのエッセイ集『洗礼ダイアリー』と、3年ぶりの新詩集『わたしたちの猫』。どちらも、これまでの人生25年間に感じ取ったことを総括するような、大切な1冊となりました。
力を尽くしてくださったポプラ社、ナナロク社の編集者の方、
そして読者の皆さんの存在なしには、出来上がらなかった本です。

11月に入ったとき「やっとここまで来た…」と、布団の中で嘆息ついて寝返りを打ちました。同時に「まだ自分はこの程度か」と。
笑えるかもしれませんが、それが私の飾らない実感でした。

◆エッセイ集『洗礼ダイアリー』(ポプラ社)
https://www.amazon.co.jp/dp/4591151476/
↓エッセイ試し読みできます(キノベス20位選ばれたよ、ありがとう…)
http://www.webasta.jp/serial/senreidiary/

◆詩集『わたしたちの猫』(ナナロク社)
http://www.nanarokusha.com/book/2016/10/08/3894.html

単純な事実として「処女作が売れた人は残る」のだと思います。
実際、あちこちで見かける作家さん・ライターさんの多くは、処女作で話題になって数字を残した人。
そんな売れっ子も、2作目でさらに数字を伸ばす人は滅多にいない。
だからある意味、私のエッセイ集の天井は『洗礼ダイアリー』で決まってしまったのかもしれない。
一緒に仕事する人たちから、そう判断されても仕方がない。
もちろん、書き手の私がそれを内面化する必要はないし、
自分の書いてきたものを超える「何か」を書き続けていく。
私自身もその「何か」を見たい。
計算外の「何か」に期待する気持ち。だから書くのだと思う。

先日、Twitterのフォロワー数が7000人を超えました。
けれど、一人一人に「作品を読んでもらえている」という実感はまだ薄い。
みんなが一冊ずつ買ってくれたら、余裕で重版かかるはずなのにな~とか、冗談半分、じわじわ考えてしまう。
もっとできたはずなのに、という「後悔」じゃない。いまの全力がこれか、という「確認」なのだ。
当たり前だけど、一歩進んでしまったあとで、後退してやり直すことは不可能。
一歩進んだ分だけ、評価はされるかもしれないけれど、
若い書き手ならではの「初々しさ」「目新しさ」は削られていく。

今年は、文月悠光という名前になってから11年目。
来年2017年で12年目を迎えます。
25歳の私はこれから10年かけて、生涯書き続けるテーマを見つけにいく。

cakesでのエッセイ連載「臆病な詩人、街へ出る。」は、今年1月から始まりました。
◆臆病な詩人、街へ出る。
https://cakes.mu/series/3611

良くも悪くも、私の行く先々で「文月さんは臆病」「繊細だから」という言葉が被せられるようになった。
本当か?
臆病でボンヤリしがちな私は「外側の私」に過ぎず、
「内側の私」は、もっと暴力的で血なまぐさいものが好きで、怒ったり泣いたりとても激しい。
いつしか他人からよく言及される「外側」だけを自分の本性だと思ってきたようだ。
「内側の私」を解放できる唯一の場が詩であり、言葉であったはずなのに、自らそれを抑え込んでいる気がして、ときたま息苦しさを覚える。
あるいは、私の「内側」をよく知る人たちに叱咤されて気づかされることもある。
「臆病で繊細な人」と見なされることによって得られる「生きやすさ」だけにすがってはダメだ。
内側があってこその、外側だし、逆もしかり。どちらもほんものの私なのです。わかってほしい。

「社会化する、というのはこういうことか」とも思った。
多くの人は「内側の自分」を隠蔽し、自分自身にも見えない場所に潜めている。
自分のことを、差別感情や憎しみを持つ偏った存在だと認めてしまったら「生きていけない」。
「そんなものを表に出してはいけない」「そんな感情の在処を認めてはいけない」と、無意識下に蓋をしているのだ。
認めてしまってはどうか? と思ったりする。
認めなければはじまらない、と思う。
開き直るのでもなく、自分を否定するのでもなく、とことん汚い自分と付き合っていく。

人は誰かを撃つ側に回りたがる。
誰かの非を責めたり、糾弾するための言葉はあふれているが、
自分の非を認めて受容するための言葉はあまりに少ない。
「だから皆、自分をゆるせないのでは…?」と気づいて、呆然としてしまった。

「正しさ」など、どこにもない。あってたまるものか。
よくわからない正義や、ラベリングを振り下ろされるのは御免だ。
私は、押し付けられた正義や肩書きを鏡(お手本)にして、
自分自身に「否定」を繰り返し、ハラスメントを仕掛けてきた。
来年以降は、そういうものを脱ぎ去って、もっと剥き出しにならないといけない。
「逃げたくない、向き合わせてよ」と声を上げねばならない。
そうしたら、いつか風のように生きられるかもしれない。
混沌としたこの世界を、泳ぎ切れるかもしれない。

 ***

2016年は、「内側」も「外側」も見えてきた良い年でした。
2017年も、いっそう精進いたします。
どうか私を、私の書く言葉を、詩を
見守っていてくださいね。

写真:飯田えりか

*この文章は、ブログの雑記に加筆したものです。
http://hudukiyumi.exblog.jp/23750611/


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