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6/20ふと思ったこと

他人に評価されることが自分のやりたいことになってしまっていることに、今さら気づいた。

わたしは手料理をインスタに投稿している。
それも毎回日光がきれいに入る朝に写真を撮り、それをiPadで加工して文字を入れ、イラストも添えるという手間と時間のかけぶり。

でもふと思った。
あれ、わたしこれがやりたかったんだっけ?

新社会人になりプライベートの時間が限られるようになった。このアマチュア・インスタグラマー活動にかけられる時間もなくなり投稿も減った。

家でiPadが視界に入ると「あ〜やらなきゃなぁ」と思う。楽しいことをやりたくて始めたのにもはや義務感のほうが勝っている。

やらなきゃなぁ、と思うのはわたしの数少ないフォロワーたちが余計に減ってしまうのでは、と思うからだ。
フォロワーを増やして、わたしの作ったものを多くの人に見てもらいたい。そしてあわよくばインスタの外の世界の仕事につながったらおもしろいだろうな。その気持ちがいつしかわたし自身の重荷になっていた。

話は少し変わるがふと思った。
評価されることが自分のやりたいこととは限らないんだと。

YouTuberでもインスタグラマーでも、人気者は幸せで、人気者であることは相当な価値のあるもののように語られるが、その仕事自体が本人のやりたいこととガッチリ一致していないと、それは幸せじゃない。むしろ不幸なことのような気がする。

誰かに喜んでもらうために時間と労力を使い続け、自分のやりたいことと少しずれていても、評価されることに貴重な時間を使ってしまうことはめちゃくちゃもったいないことなんじゃなかろうか。

数年前話題になった「思考の整理学」という本に日本の学校はパラグライダー養成所だとあった。他人に引っ張ってもらってやっと飛べるパラグライダー。それが、問題を用意してもらって何から何まで丁寧に教えてもらう日本の学校と同じだと。

それより必要なのは自分で問題を見つけ好奇心をもってそれを解き進む飛行機のような力だと。

やりたいことと評価されること、を考えていてこの話を思い出した。日本の学校は「評価されることを目指す人間」を作っているのではないか?

用意された問題には用意された答えがある。
一方で自分で見つけた問題には自分なりの答えを作れるかもしれない。

用意された答えがあるから、そこを探り当てるように答えを求めてしまう。用意された答え以外は間違いになってしまう。

生徒は問題作成者や先生が言いたいことをくみとって「これか?いやこっちか?」と答えを導き出す。生徒の個人的な考えとは別に考えなくてはならない。

正しい答えを言い当てるゲームを、何年もやらされていたと考えれば、やりたいことより評価されることを優先させてしまうこの性も納得できる。

自由なはずのインスタグラムでも「これか?いやこっちか?」と答え探しをしていた。これからは自分のやりたいように…といってもそれが分からないからこうなってしまったのだが。

#日記

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