そんな単純はストーリーなのか?

ソフィア・コッポラ監督の「LOST IN TRANSLATION」「SOMEWHERE」は二つともホテルが空間として登場する。そういえば、NEW YORK STORIESというオムニバス映画で、フランシス・コッポラが監督した「Life without Zoe」では彼女が脚本を書いていてその舞台もホテルだった。

一般的にはホテルに宿泊するのは数日だろうが、彼女の主人公たちは、かなりの長逗留、というより自宅のように使っている。若いころは、経済さえゆるせば、そんな暮らしをしたいと思ったものだ。家族や社会との関係が固定化されないモラトリアム状態でありたいというおもいだったろうかしらん。

ホテルが旅のメタファーとなっているのはあまりにも当然のことだけれど。定住しない旅人のテンポラリーな滞在場所であるホテルに住み、家を持たない人、それは家族を持たない人と同じ意味だろう。

たぶん、僕の学生時代が、銭湯を使った最後の世代だろう。その後急速にユニットバス付きのワンルームマンションが普及した。このワンルームマンションは考えてみれば狭小なビジネスホテルとプランがそっくりですね。

実際にワンルームマンションを考え出したのは、「個室群住居」の黒沢隆ではないのだろうが、個室群住居が目指したものと、僕がホテル住まいに憧れたものは近い関係の物なのでは。それは家族などの制度からの自由。

ところが、ちょっと前に黒沢隆の講演を聞いた人の話だが、黒沢さんは「個室群住居」がめざした家族制度抜きのコミュニティという考え方を反省しているような態度だったそうである。「SOMEWHERE」でもホテルを引払い、グルグルまわる浮遊状態から抜け出すラストシーンが家族の大切さを描いているのだろうか。主人公がホテルをあとにする時、ドアマンにチップを渡しているのがわかる。どんなにアットホームなホテルでも本当のホームとは違うんだよと。

いやー、そんな単純はストーリーなのか? 
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