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ジャズのふしぎ−ダイアナ・クラールをジャズ・ヴォーカリストと呼ぶ理由は?

少し前の夕刊に、チック・コリアの短いインタビュー記事が載っていた*。ちょうどその時、聞いていたのが彼が在籍していたこともあるマイルス・デイヴィス。それで、ふと思ったことがあった。で、前に書きかけていたものを引っ張り出してきた。まずは、そのことから。

この頃は、ジャズ・ヴォーカルを聴くようになった。

少し前までは、歌曲が苦手だった。高校のときの友人が好きだったヘルマン・プライによるシューベルトの歌曲(人気のディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ**でなかったのは、自身の嗜好がすでに明確だったということだろうか)をはじめとして、メンデルスゾーンやシューマンやら。もちろん、というのも変だけれど、オペラやミュージカルも苦手だった(こちらは、急に歌いだす不自然さが気になったのです)。

ところが、ある時ふいに歌が気になって、聴くようになった。人の声の美しさと素晴らしさに気づいたのだね。

始めは、イタリアのオペラから(たとえば、マスカーニ。明るくて、気持ちが高揚する。これは誰に教わったのだろう)。次には、あのドイツの歌曲だって。

それで、ジャズ・ヴォーカルも聴くようになったのだ(比較的新しいところでは、ダイアナ・クラールやスティーヴ・タイレル***。あんまり新しくはないね。ま、こうしたもの)。しかし、これとポップス(とくに、昔のソウルミュージック。たとえば、レイ・チャールズやオーティス・レディングなど。もちろんリアルタイムで聴いていたわけじゃない)との違いがよくわからなくなる時がある****。ま、わからなくてもいいのかもしれないけれど、やっぱり気になるのだ。

たまたま帰省していた時に見たテレビでは、最近はモーツァルトも弾くジャズピアニストの小曽根真が、ジャズという音楽を一言で言えばという質問に答えて、 「即興性」*****と言っていた。うんと昔、まだジャズを聴くようになる前、連れて行ってもらった六本木のとあるジャズバーで安田南******を聴いた時には、なぜだか、なるほどこれがジャズ・シンガーだと思ったのだけれど、これは即興性とあんまり関係ないような気がする。

以前に、ジャズ好きの若い友人にすすめられて読んだ『東京大学のアルバート・アイラー』なんかで勉強して、面白かったのだけれど、続編の音楽理論の部分は全くダメだった******。音楽に限らず、どうも感覚的に受け取ることが多いよう(反省。これも悪いことばかりではないと思いたい気はするけれど)。

いいなあと思って聴くことはもちろんあるのだけれど(ジャズ・ヴォーカルの話し)、その特徴はと言えば、ゆっくりとしたテンポで、感情をたっぷりと込めて歌う、あるいはけだるそうに思わせぶり、ということなのかという気さえすることがある(リズムやらなにやら違いがあるはずだとは思うのだけれど、ちょっと日本の演歌とも似ている)。強いて言うならば、いくらか調子を変えて歌うところや語りかけるような歌い方が、聴衆との双方向の関係性と即興性を感じさせなくもない。今度ビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーンなんかを聴き直して勉強するのがいいのか。ニーナ・シモンは?

こないだ、年取ってからぐっと渋さを増したロッド・スチュワートのライブ・ビデオ(ちょっと前のものだけれど)を見ていたら、スコットランドの若き歌姫エイミー・ベルもやっぱり情感たっぷりの歌い方だった(素敵でした)。これに限らず、ハード・ロックやクラシック音楽だって、演奏者はほとんど陶酔状態と言っていいほどに、没入しているように見える時がある。

さらに言うなら、このところまたよく聴いていたモダン・ジャズ(器楽曲)についても同様で、情緒的であるものが少なからずあるような気がする。きっと、音楽は感情的に没入せざるを得ない性格、がきっとあるに違いない。

と思っていたら、「でも」がもう一つ続くのですが、その時聴いていたマイルスの演奏していた曲(特にCDの初めの方)には、メロディ、少なくとも親しみやすい旋律というものがなかった。これは、モダン・ジャズ(の一部)、あるいは現代音楽と呼ばれるものに共通していることでもありそうだ。そうだとすればすなわち、情緒性がないということになって、それまで書いたこととはまったく逆のことになる。もしかしたら、モダン・エイジは、情緒を排除する時代なのだろうか。それとも、軽さはすなわち非情緒ってことなのか(ちょっと、飛躍しすぎ?モダン・ジャズは、軽みを感じさせるのはむしろ少ないようにも思える)。

これは、いささか唐突だけれど、もはやジャンル分けや時代性で考えることが意味がないということなのか。あるいは、音楽の性質の中には、構成美や理性に働きかける他に、情緒(叙情)性、感覚に訴えかけるものが含まれるってことで、結局はひとつ。その中にバリエーションがあるだけというなのか(多様性、多義性の世界。あるいは、性急な判断と判断延期でもあるよう)。

だとしたら、音楽の世界に限らない。たいていのことがボーダレス化している(というか、理解しやすくしたり差別化するための分類が、もはや有効でなくなった)かのようでもあるのだから。とすれば、両極の間ではむしろ差別化や排除を助長するような動きが目立つようでもあるのが気にかかる。またもや、ちょっと混乱気味 !?

ところで、チック・コリアがなんと言っていたかというと、『音楽はコミュニケーション。誰と組んで、どんな音を出すかを考えるのは楽しい作業。でも、聴衆に伝わるのは、その場でしか生まれ得ないスピリットなんだ』、ということでした。うーむ。ついでに言うと、そのときの彼の顔写真が、真剣に向き合おうとする姿を捉えていて好ましかった。(F)


朝日新聞(夕刊)、2019年6月27日(木)3版 第2面
** 今はフィッシャー=ディースカウと呼ぶようです。
*** 片や90年代以降最も成功したジャズ・シンガー、片やウディ・アレンが絶賛したというジャズ・シンガー、らしい。
**** 図書館でジャズやジャズ・ヴォーカルについて書かれた本をぱらぱらとめくってみても、そこのふたつには違いがあると言うのだけれど、それを分つものはなにかということには言及されていなかった。たとえば、「フランクシナトラは、ジャズ・シンガーであると同時にポピュラー・シンガーでもある」とか、ナタリー・コールのことを「ばりばりのジャズ・シンガーとポピュラー・シンガーの中間をいく(父ナットに近い位置)スタンスを貫く」等々の記述を見つけただけ。おまけに、たまたま読んでいた『珈琲が呼ぶ』の中で片岡義男は、サラ・ヴォーンのことを「ジャズを歌うポップ歌手としてたいかな評価を得ていた」と書いている(とすれば、曲の出自ってこと?では、その出自の規定は?うーむ)。
****** 即興性は…、たしかに他の音楽と比べて際立っている。でも、ミースは、ジャズが好きという学生に対して、『即興性は危険」と言っていた。建築は確かにそうしたところがありそう。一方、音楽では有効性があるような気がするのだけれど、どうでしょう。
******* 当時、ジャズシンガーとしての安田南はほとんど知らなかったけれど、ラジオ番組や映画の主題歌なんかで、ちょっとしたアイドルでした。
********これは、オックスフォードの数学者が書いた『素数の音楽』でも全く同じ。数学理論は全くだけれど、その周辺のエピソードや考え方は面白かった。僕自身は、やっぱり感覚的な人間のようです。

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