「モリスの精神」、というほどでのこともないけれど

先日、なんのはずみだったか、普段使いのワイングラスを割ってしまった。で、どうしようと思った。

白ワインなら、手元にあるピルスナータイプのビアグラスがちょっとテイスティング用のワイングラスに似ているから、これですませるか。赤ワインなら、ちょっと大袈裟だけれどあんまり使わないでいた大ぶりのボルドー用のグラスにしようか。あるいはいっそ、誰かが書いていたようにデュラレックスのグラスでもいいか。

ま、飲もうと思えば、何でだって飲める。用が足せればいい、ものにこだわらないで暮らすという方が自由でいいのかもしれない。実のところ、近年の僕の信条は、「あるものでなんとかする」というものでした。

でもね。思い直した。

飲めればいいというのでは、味気ない。少し寂しい。ちょっと悲しい(若いうちは、それでもちっとも構わない。むしろその方が良い)。おまけに、あんまり贅沢を許されないものにとっては、逆になかなかむづかしいことではないか、という気もする。某有名グラスメーカーは、ワインの原料となるぶどうの品種ごとに、その味わいを生かすべくデザインしていると謳っています。僕自身はそれほど立派なワインを飲むわけでもないし、微妙な味を利き分けられるほどの味覚を持っているわけでもないけれど、気に入ったグラスで飲むと安いものでもより美味しく感じるのではあるまいか。

逆に、「用が足せればいい」という考えで進めていけば、何でも間に合わせのものの中で暮らすことになって、気持ちが痩せていくような気がするのです(というのは、もしかしたら、生活態度がだめってことなのかな)。でもね、間に合わせのつもりで買ったつもりが、けっこう長持ちして気に入らないままそれとつきあい続けることになったり、結局買い直したりしたりしなければいけないはめになりかねない。

だから、ワイングラスも買おうと思ったのでした。赤白兼用のもの(この間割ったものがもう一つあったし、たいてい一人でしか飲まないので実際に飲む分には全く支障はないのだけれど、ひとつだけでは寂しい。今度買おうとするものは、これより少しだけ大ぶり)。

包丁だって、形の美しいものや切れ味の良いものは、やっぱり嬉しい。実は先日、一度見損なった『モロー展』のついでに、合羽橋まで足を伸ばして買ってきた。15cmのペティナイフ(無名のものだけれど、見た目、切れ味共にいい。吸い付くような感じで切れます)。銘柄を決めて出かけたのに、お店の人と話しているうちに、なぜかこうなった。これも、対面で買う楽しさのひとつかもしれない。今度は、錫製のチロリが欲しくなった。寒くなる前に是非(ちょっとまずい気がするけれど。案外、想像している時が楽しい。もしかしたら手にした時と同じくらいに、あるいはそれ以上に)。こんなことを書くってことは、料理好きのつもりが、道具好きってことかもしれない(本末転倒 !?)。

ものにこだわらずにおおらかなな気持ちで過ごすというのは、素晴らしいことに違いない(ちょっと、憧れる)。それでも、これを金科玉条として「選ぶ」ことを放棄するのは、その「もの」に対する気持ちが少ないということなのではあるまいか(それが良いか悪いかは別の話)。「質素にこそ、真の豊かさがある」ということも否定しないけれど、やっぱり機能が果たされるというだけでは満たされない、ということが少なからずありそうだ。したがって、できる限りそうした気持ちで暮らしていきたい、と思うのだ。あくまでできる範囲でということですが(ま、当たり前か)。

精神論に組する気持ちはないけれど、あることやもの、それが何であれ、それへの取り組み方と無関係ではないという気がする。

そして、何より、モリスも言ったように、「趣味の贅沢は高価ということとは違う」はず……、と思いたいのだ。(F)

* 写真を撮ろうとして並べてみたら、この他にもいくつか。不揃いだけれど結構あることがわかった。さらに、たまたま行くことになったフレンチ・レストランでは、グラスワインは赤も白も同じ形のグラスで供されました(グラスケースの中にはいろいろな形のものがあった)。で、当分は、このままの体制でいこうと決心した。ただし、これまでの方針も維持するけれど、今後はより柔軟に運用することにしようと思う。まずは、これらを使いこなすことを心掛けながら。

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FY+W, Design Studio

藤本・横山デザインスタジオ(関東学院大/人間共生学部/共生デザイン学科)+渡辺のノートです.
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