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言葉と音楽

本来、音楽は言葉と無縁ではあり得ない。「言葉がわからないと、音楽っていうのは、本当は無理だと思っているんですよ*」と言っていたのは、吉田秀和。確かにその通りだと思う。イタリア語の軽快で弾むような感じは(意味がわからなくても)、そのままイタリアン・オペラの明るい喜びと結びついている。同じように、ドイツの音楽は言葉の重い感じをそのまま写しているような気がする。言葉の持つ響きや抑揚は、当然、そのまま音楽の旋律やリズムに関わるはずだから。

でも、吉田の言う意味とは異なるけれど、文字通り言葉の意味がわかるが故の不自由さもあるのではあるまいか。

えっという人も多いかもしれない。言葉の意味が分かってこその歌詞でしょう、という意見も尤もです(もちろん言葉がわからないためのもどかしさもよく経験することなので、、反論のしようがない)。日本語の歌を聴く時は、音楽、すなわち音の連なりや響き、そしてリズムなどよりもつい歌詞に意識が向かいがち、というのは僕だけだろうか**。

しかも、伝統的に恋愛を歌う歌詞が多い。勢い、情緒的なものになりがちである。だから、もう少し論理的、理性的な歌詞で、しかも魅力的な歌がないものか、と思うことがある。一時、メッセージソングがはやったことがあったけれど、定着しなかったようである。

一方、洋楽の普及というか、世界の流行がたやすく手に入るようになったせいで、かつては日本語に合ったメロディがあったのに対し、現在は言葉とメロディが乖離しているのでは、という気がする。しかも、言葉も作り変えられていて妙なものがある。これは、たぶん、外国の流行をそのまま取り入れようとしているせいですね。しかも、そこには、ただの焼き直しとは異なる換骨奪胎あるいは翻案という創造的な意識が乏しいものも多いように感じるのだけれど、どうだろうか。

で、先日久しぶりにターンテーブルにLP盤を載せた。「土曜の夜と日曜の朝***」(どうして、家にあるのか、正直なところよく分からない)。日本語の歌。タイトルはシリトーの小説のそれと同じ(なぜこの名前がつけられたのだろうか、というか思い付かない)でも、そこに通じる時代の「気分」を見い出したのだろうか*と思う。今は……、と迂闊に言えば、ちょっと危ないね。

歌っているのは、佐藤隆、「桃色吐息」の作曲者。粘り気のある歌声はいかにも日本的な一面を持っているけれど、その粘り気の具合、湿気の割合、いずれもほんの少しだけ少ない(多分、この割合、バランスというのが、何においても要諦だと思う。高橋真梨子の歌も素敵だけれど)。

そしてこの湿気が音節ごとに分かれていて、引きずらないのが特徴のよう(ほぼ同時代の佐野元春と比べると顕著。佐野がストレートな表現とスピード感でアメリカ的であることに対して、ヨーロピアン・サウンドという惹句が冠された理由だろうか)、そしてここに洒落た感覚の一つがあるということなのか。どうせならというと変だけれど、この感覚が、自分自身の気持ちにフィットして、とても「大事」、というか好ましい気がする(でも、ヴォーカルに比べてまわりのサウンドがちょっとばかりたっぷりしすぎのようでもある)。

これに対し、日本のポップ・ソングに含まれる湿気は、たいてい東京のようにどこまでも連なり広がって、捉まえどころがなくなってしまうようだし、逆になんだか分からないまま絡め取られてしまいそうに思えて遠ざけたいような時がある。

言葉の意味に頼らない音楽は厳として存在していることは自明だけれど(たとえば、クラシック音楽やジャズ、ロック等の器楽曲)。それでも、音楽に負けず劣らず、言葉の持つ力は大きい。器楽曲でも表題がつけられることによって、イメージを喚起しやすくなる。そしてとくに、明確なメッセージを伝えようとする場合には言葉は不可欠。日本のポップスには、案外少ないのはどうしたことだろうという気がするけれど、これは僕が聴かないせいだけなのかも知れない。

そして、こう言う僕自身はもちろん、どちらかといえば、いや相当に情緒的な人間だということを自覚している。(F)


*『吉田秀和さんをしのんで』、NHK、2012年6月。
**先日、本を借りに来た学生(本好き、ジャズ好きという、今どき極めて珍しい)が、同じことを言ったのには驚きました。
***東芝EMI 、1985


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