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捨て続けたからこそ見つけられた、どうしても捨てきれないこだわり

Netflixで、近藤麻理恵(こんまり)さんの番組が盛況らしい。

番組はまだ見ていないが、その気持ちはとてもわかる。自分自身が、こんまりさんのときめくものの片付け方に魅力されまくった当事者だからだ。

今から数年前、部屋がモノであふれていた。「なにかしらの思い入れがあって買ったモノだから」というまったく判断軸がない考えで、モノを持ち続けていた。家のスペースを占拠したのは、こだわりのないモノだった。

モノが増えると、本当に大切なものが分からなくなる。いくら掃除をしても、部屋は乱雑なまま。整理整頓が億劫になるのは、いらないモノが多いからだ。

「片付けても片付けても、部屋が散らかっている」と感じながら、どうにも解決策が見出せなかった。そんな自分を、こんまりさんは救ってくれた。

こんまりさんの片付けは、ときめくかどうかを起点にする。あふれるモノを1つ1つ手に取る。ときめくかどうかを、身体で感じる。ときめくものは残し、そうでないものは、いっさいのためらいも持たずに捨てる。

無味乾燥したものになりがちな整理整頓や片付けに、「ときめき」という情緒的な価値を付与してくれた。おかげで、ダンシャリアンになれた。

捨てるからこそ見える、捨てきれないこだわり

ときめきというピュアな感情を経由して残ったモノは、好きなものばかりだった。捨てること、手放すことは、捨てられないもの、手放せないものは何かを教えてくれる。

それは、意思決定の判断基準であり、こだわりであり、人生観そのものだった。捨てるからこそ、捨てられないもの見えてくる。

・長く愛用できるモノ

・壊れても修理して使い続けたいと思えるモノ

・シンプルでスタンダードなモノ

・人に熱意を持って知らせたいと思えるモノ

捨てることで見えてきたモノ選びの基準は、こんなところだ。

多分、極めて普通な基準だ。奇をてらっているわけでもないし、新たな発見があるでもない。ただ、これらは自らが捨てる体験をしたことで、得られたものだ。少なくとも、誰かの借り物の言葉ではない。

多くのモノを捨てる体験を経たいまは、何かを選ぶ際に、自信をもって選べるようになった。自分の意思で選んだモノに囲まれた生活は、モノの機能的な価値を超えて、精神的な充足感を与えてくれる。

このほど、バッグと靴の皮の手入れをした。いつも使っている愛用のモノで、捨てようとしても、捨てられなかったモノだ。

ほころびや傷を手入れすると、いっそう使い続けたいという気持ちになる。傷やほころびは、モノの「味」になる。それは、長く使い続けないと見えてこない、モノの新たな一面だったりする。

そこではたと気づく。モノは使い古すではなく、使い尽くすべきなのだと。消耗品で物欲を満たすのではなく、愛用品を見つけ、育てていきたいのだと。

それは、捨て続けたからこそ見つけられた、どうしても捨てきれないこだわりだった。


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