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月の影にわたしを見る-「『夜明けに、月の手触りを』から、展」-

「あ、わたしだ」「わたしかもしれない」「これはわたしとすこし距離がある」「わたしとは全然違う」

耳に入る他者の言葉とわたしを重ねる。ときどき、ずらしたり、ひっくり返してみたり、手触りを確かめるように、言葉を噛み締める。

「『夜明けに、月の手触りを』から、展」とは

「『夜明けに、月の手触りを』から、展」は、松本市在住の演劇家・藤原佳奈さんが10年前に書いた戯曲『夜明けに、月の手触りを』を中心に据え、参加者と共に対話を重ねながら、創り上げた企画だ。

2023年7月から始まった『ここに、台本がある』という対話の場。戯曲『夜明けに、月の手触りを』に触れながら、そこに集った人々がジャズのセッションのように言葉を交わした。『ここに、台本がある』は、犀の角をはじめ、東京やオンラインなどでもひらかれたようだ。

2023年10月13日から15日にかけて犀の角で開催された「『夜明けに、月の手触りを』から、展」では、『ここに、台本がある』において、交わされた声や言葉の展示、参加者の対話から創作した演劇が上演された。

詳しい企画内容は下記リンクからチェックしていただくとして、このnoteでは「『夜明けに、月の手触りを』から、展」に立ち会った者のひとりとして言葉を紡ぐ。

戯曲に触れる

話は少し遡る。ある夏の日、SNSで『ここに、台本がある』のお知らせを見かけたので、映画館の帰りに寄ってみた。戯曲『夜明けに、月の手触りを』の一部を声に出して読むという体験をさせてもらったのだが、不思議な心持ちになった。

残念ながらこの日以降、タイミングが合わず『ここに、台本がある』には参加できなかった。

展示に触れる

10月14日(土)
午後から映画館でもぎりの予定だったので、その前に、犀の角へ立ち寄り、展示を見た。壁一面の言葉と紙に印刷された声。なぞるように、ひとつひとつに目を通す。「あれ、わたし、書いたっけ?」と思わずにいられない声に出会った。使う言葉は違えど、境遇や感じていることが、まさに「わたし」だった。不思議な体験だ。そういう人もいるだろうと情報ではわかっていても、いざ目の当たりにすると妙な気持ち。嬉しさと切なさがあった。

上演に立ち会う

10月15日(日)
心配してたよりも体調が悪くなかったので、上演イベントへ。特別メニューのマフィンを頬張りながらイントロダクションに耳を傾ける。その場にいた参加者で『夜明けに、月の手触りを』をのラストを読むことになった。夏の日にわたしが読ませてもらった部分。わたしはもらった戯曲をひらかず、目を瞑ってそっと耳を傾けた。一度しか読んでないはずなのに、読んでから時間もだいぶ経ってるのに、自分が読んだ登場人物のセリフを覚えていた。

イントロダクションが終わり、休憩を挟んで、演劇の上演がはじまった。『ここに、台本がある』に集い、対話を重ねてきた参加者5名が舞台に立つ。そこに俳優はいない。誰かの、あるいは本人の言葉や対話を丁寧に紡いでいく。俳優ではない、というのがきっと大切だったのかもしれない。時に切なく、時には怒りを、共感し、拒絶し、その場にいた者の心の鍋を煮込み、かき回していく。それは俳優ではない人から生まれた身体表現だったからな気がする。言葉が言葉としてストレートに刺さる、うまく言えないがそんな印象。

約65分の上演が終わり、場内が明るくなる。わっと息を吐くような、緊張が解けたような空気感が漂う。休憩後、クロストーク。舞台に立った5名と上演に立ち会った人々が言葉を交わし、想いを差し出し、受け取り、そんな循環が起きていたように思う。あっという間に刻限となり、名残惜しくも「『夜明けに、月の手触りを』から、展」は、幕を閉じた。

1日経って振り返ってみる。何がどう印象に残ったかについて考えると、言葉に詰まる。どこからどう言語化したらよいか、わたしはまだこの作品を受け止めただけに過ぎない。きっと消化/昇華には、時間がかかる。何年か経った時、不意に思い出したものが、わたしの心に残ったものなのだろう。そんな予感を置いて、このnoteを閉じていく。

おわりに

上演で交わされた言葉、展示された声、交わされた想い、そこに「わたし」を見出したり、距離を感じたり。こんな形で他者と自分に向き合うことがあっただろうかと思いを巡らせる。直接の対話はもちろん、間接的な対話が、そこにあった。そんな企画のおわりの、はじまりの、そんな瞬間に立ち会えたことは、わたしにとっての幸福かもしれない。確かに感じた、その手触りを。

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