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安定しないピアスホール

高校卒業の直前にあけたピアスホール。
卒業式にはファーストピアスを必死で隠しながら出席した。でも最後だからとみんなで撮った写真を現像したら、私の耳あたりで何かがキラッと反射していた。

あれからもう10年以上が経った。未だに右耳のピアスを通す時に一苦労する。
せっかくピアスホールを開けているというのに、あまりピアスをしない。だからなのかスッと入る時もあれば、なかなか通らず出口を間違えたらどうしよう…と汗をかく時もある。10年も経っているのに。
一体いつになれば安定するのだろう。
そう思った時、ふと嫌なことを思い出す。私はピアスを開けたあの時期からずっと自動車免許の取得を後延ばしにしているのだ。いつになれば安定するのだろう、いつになれば自動車学校に通うのだろう。

実のところ、私は車の免許がないことに不自由を感じていない。マイナンバーカードを作る前は身分を証明するものがないことに不自由さを感じていたが、今ではもう私を私だと証明するものを持っている。
歩いて行ける距離にスーパーはあるし、ユニクロも、無印も、薬局も、大きな本屋さんだってある。無くたって今はオンラインショップがあるしね。
免許がないことで窮屈に感じるのはただ一つ、「いつになったら免許とるの?」と言われることだけだ。
もちろん、夫が車を運転できるから特に不自由に感じずに済んでいるのもあるけれど。

母は昔よく各方面から「働かないの?」とか「もう1人産まないの?」と言われてウンザリしたと言っていた。当方ひとりっ子。時代のせいか私が周りから完全に諦められているだけなのか、それについては言われたことがない。
ただ「免許いつとるの?」は耳にタコができるほどに聞いた。相手方からしたら「口が酸っぱくなるほど言った」だろうな。(耳のタコと酸っぱくなった様子の口、どちらもタコだなとか考えて今1人でウホホとなってる)

たしかに人付き合いをする上では車の免許がないことに後ろめたさを感じることが多い。今住んでる街が車社会なのでこっちから誘っても結局車を出してもらうことになる。それではさすがに申し訳ない。でもそもそも私は自分から人を誘うことがないので、ここはクリアしている。しかし誘われた側としても、毎回運転してもらうのではなんだか肩身が狭い。

それと雪国住みなので車のタイヤ交換が必須となるのだけど、去年そのタイミングで夫が多忙、私は安定の暇なのに免許がないばっかりに交換に行くことができなかったりがあった。夫は「オイオイだからさ…」という顔をしていた。ヤバイ。肩身が狭い。免許がないことで私の肩身がかなり窮屈だ。

なぜこんなことあってまでも自動車学校に行くことを拒絶するのか。これは自分でも本当にわからない。昔からの友達は「モブちゃんは自分を持ってる」と言ってくれるが、こんなところでそれを発揮しなくてよいのだ。変な自分を持ちすぎて、夫も「逆にすごい」と褒めて呆れていた。
友達、なんで私なんかと友達なの。
夫、なんで私なんかと結婚したの。

大は小を兼ねるように、持っていないよりは断然持っている方がいい事は分かってる。最初に言ったように身分証明にもなるし、持ってなければできないことを持ってると出来るようになる。当たり前のことをわざわざ文字にして言っています。

ただ。
免許を取得できたとして「モブちゃんの運転でどこかへ行こう!」と気心そこまで知れていない人に言われたら、自分の性格上それを断り切れるかどうかという心配が新たにでてくる。私が断ると「嫌よ嫌よも好きのうち」みたいな現象になるの本当にやめてほしい。まあ私の運転する車に乗りたい人がどれだけいるのかというところでもあるけどね。運転できるようになる前に「かもしれない運転」が過ぎてる。
過去に免許がないことでアルバイトを嘘ついて円満(表面上)に辞めたこともあり、なんだかんだ免許がないことも便利かもしれないとか思い始めてる。これはまだまだ免許を取らない奴の思考回路だな。

今後10年私が免許をまだ取らないか、一転して取ることになるかは誰にもわからない。私にもわからない。でもきっとこれからも上手くピアスが通らない度に私の頭に「自動車免許」の5文字が浮かび憂鬱になることだろう。

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