気持ちいい風邪


「どっちの風邪?」

「あの、気持ちいいほうです」

「ちっ、自己管理がなってねーな。治るまで会社に来んなよ」


上司にそう言われて電話を切った。


季節の変わり目ということもあって「気持ちいい風邪」が流行っていた。原因は不明だが、珍しくはない病気だ。症状として熱は出るけど苦しくはない。それどころか、気持ちよく酔っぱらったみたいに頭がポワーッとする。

午前中に病院に行ったので薬はもらってある。でも、なんとなく飲みたくない。会社のことを考えると早く飲んで治したほうがいいんだけど、気持ちよさも引いていってしまうから。

いちおう風邪なので会社は休める。というか、気持ちよすぎて仕事にならないし、同僚にうつしてしまえば、みんながやる気をなくしてしまうので会社としても困るのだ。


世の中には気持ちいい風邪をひきたがってる人間もいるが、たいていはふつうの風邪をひいてしまう。確率にすれば10回に2回ぐらいかな。個人差はあるけど。

さっき彼女にLINEしたら、「うらやましい身分だわ。今度会ったときキスしなさい」と返信が来た。「よろしく!」というウサギスタンプも押されていた。

気持ちいい風邪をひいている人からは、気持ちいい風邪がうつる確率が高いのだ。このあたりのメカニズムも明らかになっていない。解明が求められているとはいえ、所詮は風邪。死ぬことはないので後回しにされているとニュースで聞いたことがある。いずれにせよ、次に彼女に会えるのは1週間後。それまでには治っているだろう。


「ゴホン!」咳をした瞬間にゾクゾクと快感がほとばしる。あまりに気持ちいい。「ズズッ!」鼻をすすった瞬間、極上の日本酒のような鼻水が喉を駆け抜けていく。

ああ、もう一生このままでもいいや。

パジャマでベッドに寝転がりながら、気持ちよさに浸っているとチャイムがなった。なんだよ、せっかく人が気持ちよく風邪ひいてるのに……そう思いながら扉を開けると、お隣のおばちゃんが立っていた。

「これ、差し入れ。平日なのにマスクして歩いてるアンタを見かけたから」

中を見ると、アクエリアスやらヨーグルトやらが入っていた。

「ありがとうございます。でも、気持ちいいほうの風邪ですけどね」

その瞬間、ぼくは唇を奪われた。

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