留年バックパッカー02

そして深夜、シンガポール空港に到着した。

それにしても飛行機の中ほどつまらない場所はない。カプセルホテルみたいに潔癖で閉鎖的だし、『目的地に着きました』と言われても、僕がいるこの空間自体は何も変わっちゃいない。ただ目を閉じて開いただけ、そんな気がしてくる。ただひとつ変化があるとしたら、スチュワーデスぐらいだろうか。彼女たちのほんの少し乱れた髪型や、幾分か疲労が混じって見える笑顔だけが、時の経過を示している。

しばらくして、隣の男が『週刊少年ジャンプ』を持って立ち上がる。「ここはまだ日本なんじゃないか?」そんな気がしてくる。日本から出発した飛行機だから、日本人が多くて当然なのだけど違和感がある。あるいは少しでも長く、日本にいる自分を感じていたかっただけなのかもしれない。気がつくと僕は、機内に残る最後の乗客になっていた。「降りたくない」そんなお尻に鞭打って、重い腰を上げる。誰もいなくなってしまったタラップをくぐり抜けると、思わずポカンと口があいてしまった。まるで、はじめてタイムスリップをしたマーティ・マクフライみたいに。

足を踏み入れた瞬間、見慣れない人種の人々がびゅんびゅんと駆け抜けていくのに圧倒された。みんなが思い思いの方向へと足を運んでいる。僕はまるで渋谷交差点の真ん中にパラシュートで不時着したみたいに立ち尽くしてしまった。僕はどっちへ向かえばいいんだろう?標識も英語ばかりで、まったく頭に入ってこない。うろうろおろおろしているうちに押し寄せる不安の波。

「早く荷物を受け取らないと、盗まれる!」

思わず僕は走り出した。迷いに迷ってたどり着いた場所。そこに、僕の青いバックパックがぽつんと一つ。ターンテーブルの上で回っているのが見えた。まるで母親が迎えにこなくて保育園で最後の独りになるまで残されてしまった幼児みたいだ。その姿が、タラップを降りて立ちすくんだ自分と重なって見えた。でも、自分と同じ仲間がいる、そう思えば心強くもある。唯一の旅仲間を勢いよく背負って、僕は入国管理局へ歩き出した。

まだピッカピカのニッポン人なので、余裕で入国できると思っていたのだけど、入国管理局で「ウェイト!」と呼び止められた。思わず全身がこわばる。入国目的を聞いて来たので、「サイトシーイング!!」と要らぬ気合を込めて言う。『ハハン、サイトシーイングね…』といった具合で、僕とパスポートを見比べてくる。

僕の航空券はシンガポール7日間滞在の往復チケット。本当は半年ぐらい日本に帰らないので、往路のチケットは破棄することになる。半年後に使える往復チケットがあればよかったのだけど、それは途方もなく値段が高い。だいたいどの国から帰るかもわからない旅だ。しかし、ちゃんと自国に帰る担保として往路のチケットを見せろと言われることはよくある話、らしい。

入国審査には不法滞在者を防ぐ役割もある。どう見ても明らかに一週間にしては多い荷物を背負った僕が疑わしいのだろう。『How long?』と聞かれた僕は、「ワン、ウィーク!」と人差し指を立てて焦燥を隠して笑顔する。またもや『ハハン…』としばらく顔をしかめた後に、スタンプを押す音がした。

『ドン!』

その、不安を叩きつけるかのような鈍い音が、旅のはじまりを告げる合図だった。スタンプが押されたパスポートを受け取り、入国ゲートをくぐる。急に体が軽くなった気がしてくる。しかし時刻は23時。お先も外も真っ暗だ。ツーリストインフォメーションで地図と宿の情報を手に入れたあと、外貨両替コーナーがあったので、ひとまず両替することにした。

『両替時は、騙されたりしないよう受け取った金額を確認しよう!』と、何かの本に書いてあったことを思い出し、受け取ったお札を何度も数えなおす。シンガポールの、しかもその空港でぼったくられることなど、まずないはずなのだけど、そのときの僕には知るよしもなかった。同時に、胸元にぶら下げた五十万円の厚みを確認した。これが僕の旅の総資金。トラベラーチェックで二十五万円。アメリカドル現金で二十五万円。この五十万円を無くしたり盗まれたりしたら、即刻帰国、GAME OVERである。服の下に隠してぶら下げているのだが、これがまたバックパック以上に重たく感じられるのだ。

『いつまで数えてんだ』と言わんばかりの店員に、「サンキュー!」と告げて、その場を立ち去る。用事を済まして気が緩んだのか、もうひとつの用も足したくなった。あまりに突然な尿意だったので、目に入った青いマークの便所にバックパックを揺らしながら駆け込むと、美しい金髪女性と目が合った。「さすが外国、金髪がいるぞ」と思った矢先に、

『レディース!!』

と前から、そして背後から叫ばれて気付いた。シンガポールでは、男子トイレも女子トイレも、同じ青色のマークで表現されていることに。知らなかった……そういう話こそ、旅の教科書に載せておくべきだ。「ソーリー!ソーリー!」と、あわてて反対側の男子トイレに回り込んで用を足す。空港の中でただ一人、僕だけがちょこちょこと動き回っている光景が、映画の中のチャップリンみたいに思えて、なんだか恥ずかしくなってきた。

何はともあれ、これでひと通りの準備は整った。このまま中心街まで出かけようとも思ったが、――こんな遅い時間にタクシーに乗ったら、ぼったくられた上で変な宿に連れて行かれる。それだけならまだしも、荒野に連れて行かれて、身ぐるみ剥がされて殺されるかもしれないぞ――と、頭の中がマイナス思考のオーケストラ。すっかり怖気づいた僕は、空港内でおとなしく朝を待つことにした。それならば、と寝場所を探してみたが、ほどよく人通りがあって、かつ横になれそうな場所となるとなかなかない。誰もいない場所だと人知れず袋叩きにあって現金を奪われるかもしれないし、人通りの多い場所で横になる度胸なんて持ち合わせていない。

しばらく歩くと、フードコートのソファを占領して、大胆に眠りこけている西洋人の4人家族がいた。子供たちはまだ小学生ぐらいだろうか。「どういう教育してんだ」と思いながらも、僕もその隣で眠ることにした。――もしかすると、この家族はとてつもなく貧乏なのかもしれない。彼らは眠ったふりをしているだけで、近くで寝る旅行者の所持金を盗むギャング一家かもしれない。きっと子供たちは僕たちを油断させるための構成員だ――などと考えたのは言うまでもない。

盗難防止にバックパックと腕をチェーンでガチガチに固め、サブバックを枕にして机に突っ伏した。無防備に仰向けになるわけにはいかない。万が一襲われたときは、上体を起こすと同時に荷物を叩きつけて反撃。そのまま叫びながら、立ち上がって全力で逃げる。そんなシミュレーションを頭の中で何度も繰り返す。……眠れるわけがない。それでも、襲いくる不安を頭から引き離したくて、いつもより強く目を瞑り続けた。

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