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フィルカル&GACCOH「やっぱり知りたい!分析哲学――自由論編」での質問と高崎将平さんによる回答


7月15、16日と2日連続で行われた講座、フィルカル×GACCOH「やっぱり知りたい!分析哲学-自由論&時間論編-」では、質問カードにもたくさんの質問をいただきました。その回答が高崎将平さんから届いたので公開します。(太田)

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【自由論編/1日目】

質問(1)
選択の自由が具体的な自由権(言論の自由など)の基礎になるという話があったが、あまりピンとこなかった。自由権は制度としての側面をもっており、個人の選択の自由がない状況下でも機能しうると思う。たとえば、信教の自由は、個々人が自分のグループの宗教を信仰せざるをえない国でも、グループ間の対立を避けるための仕組みとして機能しうる。

 「選択の自由」なき信教の自由が制度として(つまり実践的観点から)機能するか否かという論点と、「選択の自由」が信教の自由の(いわば)概念的な基礎(前提)となっているか否かという論点を区別することができると思われます。私の考えでは、個々人にいかなる宗教の選択の自由も与えられていない(たとえば個々人は生まれたときから特定の宗派に属しており、改宗することも離脱することもできない)にもかかわらず、その上で「信教の自由がある」、ということは理解不能であると思います。もしそうだとすれば、やはり「信教の自由」を語るうえでは、少なくともある程度の宗教選択の自由が主体に存在すると前提されていると言えるのではないでしょうか。


質問(2)
フランクファートの二階の意欲説によれば、行為者が責任をもつための必要条件は二階の意欲をもつことだ、ということですが、二階の欲求しかもたないような行為者(たとえば自らの望むことと真逆のことのみをする行為者)も責任をもちえるのではないでしょうか。

 フランクファートは二階の意欲をもちうることを人格の条件と考えています。したがってフランクファートなら、常に(単なる)二階の欲求しかもたない存在者は、人格とはみなされない(よって道徳的責任をもたない)と言うことでしょう。(質問者さまの例を借りて)具体例を考えてみましょう。Aさんは、Xをしたいという欲求(=一階の欲求)をもつときには必ず「Xをしたいという欲求をもちたい」という欲求(=二階の欲求)をもつと仮定しましょう。さらにAさんは、行為の実行の際には常に彼の一階の欲求に反してYをすると仮定しましょう。ここにおいてAさんは、Xをするという一階の欲求が実効的になる(つまり動機づけの力をもつ)ことを全く望んでいないとみなされるので、たしかに二階の意欲をもちえない行為者の事例であると言えます。さて、私たちは彼の行動を見て、どのように感じるでしょうか。彼に何がしたいか尋ねると「Xがしたい」というのに、いざ実行する段になると彼はけっしてXをしないわけです。私の見解は、私たちは彼を「合理的な存在者ではない」とみなす(べき)、というものです。つまり、私たちは彼を理解不能な、いわば「人格」未満の存在としてみなす(べき)なのです。
 行為者が二階の意欲をもたない例としては他にも、自らのもつ一階の欲求のうちどれが実効的になるかに関して全く無関心な行為者が考えられます。しかしいずれにせよ彼らは、自らの従う一階の欲求がどれであるべきかというコミットメントをもたないという点で、(フランクファートにいわせれば)人格の要件を満たさないのです。


質問(3)
二階の意欲説が成立するためには、欲求同士のぶつかり合いが必要だと思うのですが、それを「他欲求可能性」と呼んでよいのでしょうか。もし呼べるのであれば、それと、(フランクファートが否定した)「他行為可能性」はどう区別できるのでしょうか。

 「欲求」と「行為」の間に見出される違いを考えてみることは有益かもしれません。AとBを、同時に遂行することが不可能な行為であるとしましょう。このとき、ある時点で「Aすること」と「Bすること」は両立しませんが、「Aすることを欲すること」と「Bすることを欲すること」は両立します(そしてそれがまさに「欲求のぶつかり合いにおいて起こっていることでしょう)。したがって、欲求同士のぶつかり合いが生じている状態は、(ある種の物理主義を前提すれば)単一の物理的状態として理解できるため、「他の仕方で欲求できた可能性」を考える必要はないのです。


【自由論編/2日目】

質問(1)
全体としてカント主義的な責任論を前提しているように見えたが、功利主義との関係についても論じてほしかった。

 功利主義の観点からどのようにモラル・ラックに応答しうるかという論点は、本講座で扱いきれなかったところです。たとえば道徳的評価についての功利主義の見解を、(きわめて大雑把ですが)次のように理解するとしましょう:①主体の行為の道徳的善悪はその行為の結果がもたらした効用によって評価される。②主体をその行為に関して道徳的に称賛/非難するに値するのは、その行為の結果がもたらした効用が正/負であるときに限る。
 この見解に従うと、たとえば結果に関する運(飲酒運転のケース)において、2人の行為者の行為のもたらした効用は大きく異なるので、2人には異なる程度の道徳的評価が帰属されることになります(つまりモラル・ラックは存在する)。もちろん、モラル・ラックの存在を認めない(カント主義的な)論者は、この功利主義の主張に抵抗することでしょう。功利主義によるモラル・ラックの解決がどの程度説得的であるかは、功利主義という枠組みをどの程度モチベートできるかにかかっていると思います。


質問(2)
フランクファート的な構成的運への応答が良く分からなかった。人格に対する二階の意欲をもっていなかったとしても(「こんなクズになりたくなかった!」と考えながら殺人を犯す人のケース)、それによって責任が軽くなるとは思えない。 単に二階の意欲を持つ能力があることを道徳的人格の要件とするならわかるが、それなら功利主義のような非カント主義的な規範倫理学上の理論を持ち出せばよく、モラル・ラック問題への応答として特別な意味があるのかわからない。

 たしかにご指摘のとおり、二階の意欲説は「有責的な主体(=人格)であるための条件」を述べるものなので、個々の行為の責任評価にどのように適用されうるのかは難しい問題です。とはいえ(たとえば功利主義と比して)二階の意欲説は、構成的運の問題に対する実質的な応答の試みである、つまり、構成的運を真剣に受け止めたうえでの応答の試みである――成功しているかはさておき――と私は考えています。
 構成的運、そしてそれが導く大規模バージョンのモラル・ラック論証の要点は、行為者の人格が当人にとって所与のものであり、その形成過程について当人がコントロールをもちえないという事実は、行為者の有責性を損なう、というものでした。それに対して二階の意欲説は、次のように応答します――たとえ当人の人格が所与のものであるとしても、行為者は道徳的責任をもちうる、なぜなら、行為者が自分の人格(ここでは限定的に二階の意欲)を自分自身の在り方として承認している限りにおいて、その二階の意欲に基づく彼の行為は、彼が自分の意志でなしたものと言えるからだ――。逆に、たとえば(素朴な)功利主義が、構成的運の問題をそもそも真剣に受け止めうるのか、私には判然としません。というのも、(素朴な)功利主義によれば、行為のもたらす効用が道徳的評価の(唯一の?)基準であり、主体の人格がどのように形成されたかという論点は関係がないからです。もし功利主義者がそのような論拠から構成的運などそもそも存在しないのだと主張するとすれば、私の印象では――功利主義が最終的に正しいかどうかはさておきー―それはいわば構成的運の「頭ごなし」の否定であり、実質的な応答にはなっていない、と思われます。



質問(3)
小規模バージョンのモラル・ラック論証に関して、道徳的責任を帰属する私たちの実践の不当性を指摘するにあたり、2人の行為者を前提する必要がある。このとき、一人目の行為者に与えられる非難/称賛自体の正当性はどのように保証するのか(あるいはこのバージョンではそのような保証は不要だと考えられているのか)。

 ご指摘のとおりです。小規模バージョンでは、少なくとも一人目(つまり人を轢いてしまった運転手)には道徳的責任がある(非難に値する)ということが議論のうえで前提されています。というのも、この論証では、2人の行為者のもつ道徳的責任の相違が問題となっているからです。したがって、一人目の行為者に非難を帰属することがそもそも正当なのかという問いは、大規模バージョンのモラル・ラック論証が扱う論点ということになります。


質問(4)
道徳的判断をする評価者が行為者に対して何らかの投射や共感をしているところに注目してみると別の展開が見えそうな気がした(たとえば「自分と同じ人間だと思えない」から非難する、といったように))。

 本講座で扱うことのできなかった、非常に興味深い論点です。道徳性を評価者による「投射」の観点から理解する試みとして、サイモン・ブラックバーンの「準実在論」と呼ばれる立場がありますが、その路線でモラル・ラックにどのように応答しうるか、という点は論及するに値すると思います。


質問(5)
責任に自由は必要なのか?対象に責任を負わせる場合に必要なのは対象が自由をもっているかどうかではなく、対象に起因する行為と結果が集団にどのように影響を与えたか、今後どのように影響を与えるかなのではないのでしょうか。自由のない決定論と責任は両立するのではないか。

 責任に自由は必要なのかという論点は自由論・責任論でもかなり究極的な問いで、もちろん直ちに答えが出せるものではありません。そのことを承知で(いささか拙速な)応答をさせていただくと、「対象に起因する行為と結果が集団にどのように影響を与えたか、今後どのように影響を与えるか」という質問者さまの論点は、「道徳的責任」ではなく、「法的責任」の方に関連するのだ、と言いうる余地があるかと思われます。その区別をふまえると、たとえ実践的観点から(たとえば悪行の抑止力といった観点から)ある主体に「法的責任」を帰属することが正当化されたとしても、彼は「道徳的責任」を帰属するに値する主体なのか、という点は独立の問題として残ります。そしてその問題を考究するにあたり、主体が自由であるか否かという問いが重要な意味をもちうる(、と自由論者は考えている)のです。


質問(6)
モラル・ラックと決定論はどのように関係しているか?

本講座で十分に明らかにすることのできなかった、きわめて重要な問いです。モラル・ラック(とりわけ構成的運)と決定論はともに、自由や責任の否定を導く根拠となりうる、という共通点があります。しかしそれがどのような根拠であるかは、必ずしも同じではありません。たとえば、決定論が自由ないし責任を脅かすとされる根拠のひとつに、「決定論的世界だと行為者が他行為可能性をもたないこと」が挙げられます(一日目の講座の内容です)。一方、構成的運は、人格の形成過程が主体のコントロール外であることに注目するので、その限りで、決定論的世界でも非決定論的世界でも構成的運の問題は生じうる(決定論の真偽とモラル・ラックの問題は独立である)と言えます。


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