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「やっぱり知りたい!鶴見俊輔 -生活記録編-」での質問と谷川嘉浩さんによる回答

最初に、講座に参加してくださった方々に感謝申し上げます。ひどく暑い日が続いていたなかで、あのような明晰で活発な議論の時間をもつことができたのは、得がたいことだったと思います。ありがとうございました。あと、おすすめいただいたアレクセイ・ユルチャク、読んでみます。
質問カードにお書きいただいたものの中で、講義時の質疑応答では登場しなかった質問に限って書いていくことにしますね。(谷川 嘉浩)

質問(1)
その後の体験の解釈の枠組みとなる原体験は、どのようにして原体験として現れるのでしょうか?原体験は体験としてすぐに原体験だとわかるもの(意識化できるもの)なのでしょうか?随分と時間が経って過去の体験を語るなかで、あの体験が現在の自分の解釈枠組みを形作っているのだと気づくということはないのでしょうか?もしこのような語りがあるならば、期待と回想とどのような関係にあるのでしょうか?

「原体験はいつ原体験として現れるのか、どのように現れるのか」ということついて、鶴見は『文章心得帖』(筑摩書房)で何も語っていません。いくつか理由は考えられます。
第一に、鶴見の世代にとって、(従軍や戦中に限らず)広い意味での戦争体験が、原体験の典型としてあったからかもしれません。第二に、ハッとする体験というのは、直観的に理解できるだろうと鶴見が考えていた可能性もあります。
とはいえ、違った仕方で考えることもできます。敗戦直後、原爆に関する情報がさほど出回っていなかったこともあり、それほど原爆という論点を重視できなかったのを鶴見は後悔しています。そうした科学技術の問題について考えるとき、鶴見はしばしば留学時代の投獄経験を振り返ります(『北米体験再考』など)。思い返すのは、最も腕っぷしの強いレスラーとボクサーの姿です。留置所内で喧嘩が起こった際、彼らは腕を組んで遠ざかり、止めるためにすら割って入らずに、むしろ、力を誇示することを恥じるようにさえ見えたと回想します。
このような原体験の解釈は、あらかじめ鶴見の中にあったものではありません。かつて彼が留置所体験を語ったときには、上述の視点から振り返らなかったのです。留置所という原体験の中で、ボクサーやレスラーが力を恥じてコントロールしようとすることに注目する姿勢は、鶴見が水俣病や原爆といった科学技術の暗い側面に向き合うようになったとき初めて出てきました。このように、原体験をどのような参照点として利用するかということは、あらかじめ決められていないのです。
つまり、原体験は静止された形で、ほかの経験の解釈枠になるのではなく、それを一つの参照点にしながら、相互に明確化していくような関係にあるということだと思います。もっと言うと、どのような経験の参照点となるかによって、原体験は、万華鏡のように役割を変えていくものでもあります。要するに、何かを考えるとき、ふと呼び出され、参照される体験のことを「原体験」と言っているのだと解釈すべきでしょう。
「自己に残っている体験」を鶴見が強調していることを踏まえ、ある種の体験は、残るという点で「原-原体験」であり、その上で、あることを解釈する際に、呼び出され参照された場合に、「原体験」と事後的に呼ばれるのだとまとめられるでしょう。(質問していただいたおかげで、考えをまとめなおすことができました。ありがたいです。)

ただ、原体験は、そうした比較的安定した位置づけを得る前にも、自己に澱のようにたまっているものだと思います。例を挙げましょう。私は、こんなことをずっと覚えています。

中学生のとき、四つ席をくっつけて島をいくつか作るような形で、教室の座席が構成されていました。あるとき、自分がいた島は、休み時間もずっと話すような仲の良さでした。席替えが決まったとき、みなが残念がって席を移すなか、ある一人が「バイバイ」と口にしました。それに対して、私も他の人も何かを言ったはずですが、「バイバイ」とは言いませんでした。席替え後、その一人とは話す機会が減っていき、特別話すこともなくなりました。振り返ると、あのとき、どうしてあれほど会話が続いたのか不思議なくらいでした。

そんな体験です。これは、なぜかずっと残っています。これは黒歴史ではないですが、時々、意味もなくフラッシュバックします。このように、そこから何を引き出しうるのか、明確でないということもあり得るでしょう。一生、明確になる機会がないかもしれません。でも、参照され、位置付けられるための条件として、体験が澱のように残るということがある。
そのとき、期待と回想という基準がどうかかわるのでしょうか。人に対して語らなくても、残っている体験というのは、思い返されるうちに美化され、粉飾されていくことでしょう。恐らく、回顧は、自己に対する体験の言語化だからです。私は、先ほどの体験を初めて文字にしました。私の記憶ほど仲が良くなかった可能性、自分が意識していなかっただけで自分も思わず「バイバイ」と返事した可能性があります。当時、その言葉にどのような感情を抱いたのか、もはや自信すらありません。その際に、期待と回想という基準が役立つのでしょう。
(ただ、「本来の体験があってそれを再現する」という発想をもたらしかねない点には注意する必要があります。これについては、ちょっとした工夫で回避できるのですが、それはまたどこかで。)
ところで、体験を書き出すうちに気づいたことがあります。私は、知らずのうちに、あの体験から、漠然とした意味を引き出しているということです。
あるときには、あの体験は何かを言うべきタイミングで何も言えないことの象徴で、「うまく言えなくても、相手を思う限りにおいて、自分なりに何か言った方がいい」という習慣を引き出している気がします。
また別のときには、「友情が特に何事もなく失われたとしても、ひと時の友情でしかなくても、やはりそれを友情と呼びたい気がする」という感じを引き出している気がします。
原体験が参照点として役立つというとき果たす役割がスタティックではないということのニュアンスは、これで伝わるでしょうか。

質問(2)
鶴見のスノッブさという話が出ていたが、彼も自分自身を虚無主義であると規定していたように記憶している。この虚無主義は自分の中では、 プラグマティズムを作った人々の南北戦争後のある種の態度と通じる部分があると感じている。(『メタフィジカルクラブ』オリヴァー・ウェンデル・ホウムズ)
プラグマティズムと虚無主義、そして戦争体験が結びついて独特な知的態度として現れているのだろうかなどと感じた。プラグマティズムが戦争体験と結びついているのかということについて聞きたい。

質問内で、ルイ・メナンドの『メタフィジカル・クラブ』(みすず書房)に言及されていますが、翻訳者は、鶴見と親交のある方々です。
鶴見は『たまたま、この世界で生まれて』(編集グループSURE)で、メナンドに言及しながら、アメリカン・プラグマティズムにおける戦争体験に何度も触れています。ただ、たぶん、戦争体験そのものよりも、鶴見の読みとして面白いのは、プラグマティストに共通するものとして、反動と化した「お上品な」親世代への反感と、わからないものや見えない未来を、自分なりの「ものさし=測量」で測ろうとする態度を挙げている点です(この辺り、彼の個人史とリンクしている点は、講義参加者にはご承知のことと思います)。
鶴見俊輔、そして、アメリカのプラグマティストたちに共通している態度として、測り切れないことを自覚した上で、完全なる測りが可能になることはないとわかった上で、それでも測るという思考回路があると私は思っています。
この結果として出てくる態度は、恐らく、プラグマティストなら、(たぶん)みなが共有しているものです。とはいえ、その際、それが戦争体験に端を発しているかは問題ではありません。というか、原因的な力(causal force)を特定ような発想は、プラグマティズムに向かないでしょう。
いくらでも詳しく話せるのですが、この辺りで。


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