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退職が怖い人全ての人に見てほしい

#就職活動 #転職 #退職 #キャリア


「今の会社、マジ勘弁。もう辞めてえよ」

入社して数年の若者なら、誰しも1度は感じたことがあるだろう。辞めた人もいれば、辞めずに数年間新卒で入った会社で働き続けている人もいる。採用の現場が売り手市場である昨今、転職に対するハードルは下がっている。以前までは、「とりあえず3年」という言葉もあったが、それすらも艇をなさない時代に突入している。多くの大学生が、めったにないビッグイベントである就職活動を乗り越え掴んだ就社先。そんなに簡単に手放していいのだろうか?今ならその問いに私は正面で答えることができる。

「合わないところで働くのならば、そんなキャリア捨ててしまえ」と


どんな会社に勤めていたのか?

つい昨日、私は新卒から2年間勤めていた会社を辞めた。今振り返ると、すがすがしい気分だ。周囲からは「ここまで色々教えてきたのに、なぜ辞めるんだ」「別に今でなくてもいいだろう」と非難の声は相次いだ。

前職(一応、会社に籍は残っているが、もう出社することはないので前職扱いとする)は東京都港区に位置する創業30年ぐらいの中堅不動産業者だ。一部ではないが、東証JASDAQに上場しており、リーマンショックの荒波をくぐり抜け、今なお成長を続ける「世間一般の目には」優良企業に見えるだろう。グループ全体の売上も100億円近く、創業から近年流行のリノベーションを得意とし、マンションや商業施設の開発を事業の柱としてここまで歩んできた。最近では、都心だけではなく京都や福岡でも開発事業を展開しており、グループでは東南アジアでの開発・仲介事業も活発だ。

前述のリーマンショックは不動産業界に大きな打撃を与えた。当時から在籍していた社員に話を聞くと、計画中の事業は銀行からの融資が受けられなくなったのでストップ、その他実需向けマンション(一般の人が生活する用のマンション)は新築・中古に限らず、軒並み売れ行きが下がる一方。アベノミクスの金融緩和政策と2020年のオリンピック需要で不動産・建設業界に活気が戻るようになってからは、比例するように会社の基盤も安定するようになり、2015年にはそれまで中止していた新卒採用を再開した(リーマンショック前は社員も今の2倍の100人近く在籍いたが、リーマンショックにより大量のリストラで当時から在籍している社員は上層部を除けば片手で数えるぐらいだった)。そして私は再開2期目の社員として2年前の春、はるばる上京した。


そもそも不動産業界で働こうという意識は薄かった。就職活動は主に人材業界を中心に選考を進めていた。

高校の頃までは、サッカーに夢中でキャリアなんて言葉は一切浮かんでこなかった。大学のアルバイトでユニクロで働き始め、グローバル展開をもくろむ企業方針のもと、アルバイトにも高い基準を求めるユニクロのやり方は、当時はたくさん苦しむことはあったが、隣で働く社会人・正社員の姿を見て、「働くとはどのようなことか」「自分がやりたい仕事はなにか」をおぼろげながら考えさせられた。ユニクロは低価格・高品質の商品をいかに効率よく回していくかというオペレーションが基準にあり、それに反発する思いで「高単価の商品を取り扱ってみたい」という欲が出てきた。その思いを反映していたのが不動産だった。

並行して就職活動を行っていくうちに、ユニクロだけでは見えてこなかった別のキャリアの構築を考えさせられた。当時、私は大分の大学で過ごしていたが、どうしても就職活動に関する情報格差が身に染みるように大きく感じた。選考解禁となる3年の3月を前に、近隣の大都市である福岡で就職活動のイベントに足しげく通った。そこで体感したのは、「キャリアに対する考え方」だった。大分にいたころは耳にしたこともない「学生団体」といういかにも意識高い系の集まり、彼らの行動実績から滲み出る自信、そしてその組織が脈々と受け継がれ形成されていた人脈、考え方・スキル・人脈のすべてにおいて遅れをとっている気付かされたときには、自然と「福岡の先輩」の教えを学んだ。いつしか彼らのように「人のキャリアに関わる仕事」をやりたいと思うようになった。

だが、結果的には思うようにはいかなかった。後に理解することになるが、人材業界は人に媚びることも多く、労働環境も決して褒められたものではない。数年前、池井戸潤原作の半沢直樹が評判になったが、人材業界はまさに半沢直樹で悪役として描かれていた上司に媚びを売ってのし上がる世界だったのだ。もちろんワークライフバランスや働き方改革という言葉には縁が遠く、嫌悪感しか感じなくなっていた(今なら嫌悪している理由は分かるが、当時は言語化できずにいたのでフラストレーションを溜めていた)。採用の面接も数社最終選考まで残るも、結果は全滅。仕方なく、ユニクロのアルバイトの頃から考えていた不動産業界と人材業界を受けた理由に近い「人のキャリア・業務効率向上」に近いIT業界も視野に入れ始めた。

前職に決めた理由

就職活動も終盤に差し掛かり、「人のキャリアに関わる仕事」に就くのが難しくなってきたころ、とある1社が都内の就活イベント高く自分のことを評価してくれた。それが前職である。

業態は前述の通りで、不動産であるというのはもちろん、「チームで仕事できる」というのが心に響いた。というのも私はかなりのビビりで、経験や前例をもとに状況判断するタイプだったので、個人で切り開くというよりも、チームでプロジェクトを進行させるというスタイルが気に入っていた。対して企業側は、自分の地頭の良さを買ってくれた。地頭の良さとは何なのか、当時は理解に苦しんでいたが、専門用語のオンパレードのこの業界では、話の内容を即座に理解してアウトプットできる能力は高く評価されるということが後々分かった。それを見越しての採用だった。

結局、内定は前職のみ。内定が堅いと見込んでいた企業もあったが、前職とは異なる人材業界の企業でオワハラにあい、当時他の選考全てを辞退。最終的にオワハラをしてきた人材業界の企業の選考にも落ちるという後始末で、すでに内定をもらえていた前職のみが自分のカードだった。選択権はない。東京と九州の往復で、多大な交通費を使っていた自分に10月以降就職活動を行う資金的余裕はなかった。


何を目的に働くのか、前職で決めていたこと

当然ながら「人のキャリアに関わる仕事」を目標としていた自分にとっては、回り道となることは明らかだった。ならば、目指すは①会社の人事や経営参画部門を目指す②社会人の基礎を学ぶ③不動産投資を学ぶ、の3つが目指すべき道となった。このころには、人材業界の実態をいろんなところで耳にするようになり、前述の通り自分の目指すべき道ではないと判断した。

2016年の春、無事大学を卒業し、上京。新たな生活がスタートした。しかし、出だしからつまずきの連続だった。

同期は自分を含め5人。そのうち1人は総務に行った女の子で、残りの男は全員営業に配属となった。

私が配属になったのは、通称「仕入れ」という法人営業。通常の営業と異なり、商品を売り込むのではなく、「こういった土地・建物を買いたいので、ぜひ紹介して頂けませんか?」という買い側の立場になることだった。さらに仕入れの難しさは、1年目なら年に1本仕入れることができればいい方という難易度の高い営業だった。地頭の良さを買われた自分には、専門的で難易度の高いことをやらせようという会社の期待も込めてのことだった。

しかし、私が悩んでいたのはそこではない。直属の上司だった。なんとも期の難しい人で、何もわからない自分に対して放任主義(今振り返ると、自分から積極的にやれば良かったというのもある)。そのくせ、業務報告はマメに行えと言われ、報告が苦手(ユニクロ時代から苦手意識があった)な自分にとっては苦行だった。その中でも、上司の成功パターンを数回見ればわかるはずと思っていたが、これも前述のとおり若手でも年に1本仕入れればいい方な世界ですぐに成功パターンなど見せてくれることもなく、この部署に在籍していた4か月に仕入れられたのは1本。肩透かしと自分への不安がのしかかってきた。


中小企業ならではの憂き目、異動

1年目の8月、当時別グループにいた役員から突然の通達が言い渡される。

「1年目の男子社員は、全員松本行きで」

この年の暮れに完成予定の長野県松本市の新築マンションの売れ行きが芳しくなく、私は同期と一緒に松本市に飛ばされることになった。行う業務は「販売補助」。こう言うと聞こえはいいが、要は雑用だった。

松本の新築マンションは戸数が多かったが、当時宣伝活動に回せる人員がいなかった。さらに都内と異なり、人口も少ないため、広域での宣伝活動が必要となり、少人数ではとても全てをまかないきれる状況ではなかった。そこで白羽の矢が立ったのが私たちの代で、夏場の照りつくような暑さの中、チラシの投函やロードサイド営業が続いた。しかし、売れ行きは思うように改善されず、モチベーションも減衰し、職場内の雰囲気は最悪だった。

松本は今までの法人営業ではなく、現地での一般向けのエンド販売であるため、本社との関わりは希薄になる。裏返すと同じ現場内でのコミュニケーションや雰囲気は極めて重要になる。また面白いのが、売れ行きが好調な現場ほど現場の雰囲気がよく、逆に売れ行きが悪い現場ほど雰囲気は悪い。松本は過去の物件の中でも、ワーストに近い売れ行きの悪さだった(完成から1年半経った今でも半分以上が売れ残っている非常事態)ので、雰囲気は最悪だったが、これは同期内でも伝染した。喧嘩することもしばしばで、同期と顔を合わせたくない夜もあったし、おそらく全員が早く本社に戻りたいor会社を辞めたいと思っていただろう。


松本の異動から3か月後、本社へ戻ることが決まった。前の部署で同じ業務だったが、こちらは2か月で終了した。

年が明けた2017年の1月、新たな通達をもらう。事業部の異動だった。要は、同じ業務で上司が変わるというものだった。これは一つ大きなチャンスと捉えていた。というのも、前職に勤めてから1年弱が経ち、「この人と働いてみたい」と思っていたNo.1、No.2と一緒に働くことになったのだ。

直属の上司(No.1)はリノベーションの部署に在籍していたが、これまでの実績を買われ、新築のマンション開発の責任者のポストに就任した。もう一人(No.2)は、新築部門全体のボスで、松本にいたときからとっつきにくい自分のことも気にかけてくれていた。以前大手企業の地方支社長も務めていたことから、そのおおらかな性格とネットワークが会社にもたらした利益は計り知れない。この2人がいるのは、心強かった。

業務としては、2人の仕事と直接かかわりのあることではなく、個人での仕入れを引き続き行うことだった(このあたりから、入社する前のチームでの仕事という言葉に疑念を浮かべる)。しかし、行動スケジュールを自分で策定すること、行動の自由を認められていたのは大きかった。この時期は業者会などで仕事のネットワークを形成できたこと、また社外での人脈形成を行うことができ、周りに恵まれていたと思った。ここで結果が出れば尚よかったのだが、大きな成果は残せなかった。

1年目で仕入れ→松本→仕入れ(部署異動あり)と何かしらの異動を既に4回も行っている。中小企業の宿命で、いろいろな部署を経験できるのはいいことなのだろうが、同時に業務が安定しないことで、人脈形成がうまく進まないこと、成果を残すに時間が短いことなど「たらい回し」にされているとしか思えないと感じるようになった。


企画職との出会い

2年目に突入し後輩も入ってくるころ、また新たな通達が言い渡された。

「下総中山の物件の担当になってほしい」

千葉県の船橋市と市川市のちょうど真ん中に位置するJR下総中山駅を最寄りとする新築マンションのPJを当時の部長(先ほどのNo.2)が携わっていたのだが、同時期に人員整理を行い、エンド販売部隊の多くが前述の松本の物件への配属が決まった。その一方で、完成まであと半年を迎える下総中山の物件が担当不在となり、自分が勉強の意味も込めて担当になることが決まった。今まで仕入れの営業とエンドの販売補助しか行っていなかった自分にとって、1つ大きなPJを任されるのは、非常に誇らしく感じた。もちろん未経験の自分にすべてを任せるのは荷が重いということで、松本に行ったエンド販売の人間から、係長職の上司がバックアップに回り、進捗を図った。

最初の業務は「販売企画の作成」で、まさにこれが自分の行いたかった仕事に近いと感じていた。主には、客層ターゲットの選定、競合物件の状況を加味した価格設定、当該物件のセールスポイントの選定など、マーケティング・企画の色が強く反映された業務内容だった。

手袋の会社で独立した父親の影響と幼いころからブロック遊びに興じたことで培ったものづくりメンタリティ、さらには「ストレングスファインダー」の戦略性、着想が織りなす「企画」という自分の才能を思う存分活かせるフィールドが整ったと感じ、入社以来この上ないほどのモチベーションを保った(その後を見返しても前職でこれほどモチベーションが高い時期はなかった)。

調査には多大な時間を要し、上司・取引先・調査会社などを巻き込んで、1か月の製作期間を経て、ようやく企画書が完成した。

その後、幹部会で販売方針も含めて全体の前でプレゼンをする機会があり、私とバックアップに回ってくれた上司のプレゼンは好評を博した。上層部からも、「これからももっと力をつけて会社を支えてほしい」と称賛の言葉をもらった。自信はあった。これほど細かく、MECEを完璧にし、出てくる質問の疑念をすべて解消した。販売の世界は、企画した通りにすべて物事が進むわけではないが、松本などで低迷が続いていた新築販売チームに一筋の光を照らす機会になった。このとき、支えてくれた上司、情報を提供してくださった取引先の顔を思い浮かべると、前職で初めてチームで働くことの意味を実感した。


エンド販売での苦しみ

下総中山の販売企画をうまく切り抜けたことで、そのままエンド販売チームに在籍させようという機運が高まった。もちろん、会社の「いろんなことを経験させよう」という方針もあったが、何よりここまで物件のことを細かく調べていて、今更別の物件にとはさせなかった。

しかし、個人的にはエンド販売には行きたくはなかった。理由は2つ。1つは休日が今まで土日だったのに対し、平日しかも水曜のみになり、休日にフットサルなど趣味に興じることができなくなるリスクが高くなるからだった。また祝日も営業していたので、実質の休みはかなり少なかった。ただ、この時期に水曜のフットサルに参加し、フットサルネットワークが大いに広がったことには感謝している。もう1つは入社前に思っていた高単価商品の販売をしたいというモチベーションが低下していることだった。エンド販売の実態は同期や先輩からも聞かされており理解していた。結論として、企画を経験した自分としては、エンド販売の営業は確かにスキルや経験を得ることができるが、その先の企画職にどうつながるのか不透明だった。もし、不動産の企画を本気で行うのであれば、販売企画という短期的な業務ではなく、商品企画という、設計やレイアウトに近づいた企画の方がより実践的だ。これには、建築士やインテリアコーディネーターなどの資格やそもそものセンスがなければ難しいとされている世界で、こういった箔のない自分にすぐに任せてもらえるものではないと実感していた。また、そこまで突き詰めて自社の商品企画に就任したいという気構えは持てなかった。

この現場は松本と同様、現場に配属となり本社との関わりも希薄になるが、このときはいささか物件の進捗は良かったので、終始良い雰囲気で進行していた。しかし、私個人の成績が伴わず、エンド販売初経験ということを除いても、4か月で1戸しか売れなかったのは心残りだった。


運命の歯車が動き出す2018年

年が明け2018年、契約も無事にとれ安堵の時もつかの間、新たな通達を言い渡された。それは、本社での仕入れ復帰だった。

私が下総中山の現場にいたころ、本社では他物件も売却が進行しており、逆に購入物件が不足していた。不動産開発は土地・建物の購入から完成までが2年弱かかる大規模なプロジェクトだ。とめどなく流れる血液のように、入ってくるもの(土地・建物)がなければ、会社の経営は傾く。もちろん私一人の力でどうにかなる問題でもないが、当時は一人でも多くの人手が必要だった。

しかしこのとき私には別の感情が抱いていた。そう、それが「転職」だった。

下総中山でのエンド販売を経験したことで、不動産開発のスキームはすべて経験できたが、同時に自分の中で、何を本職にすべきなのかが見えなくなっていた。候補は販売企画に従事することだが、前職の規模ではとても販売企画だけでは食べてはいけない。もしくは物件の責任者となれば、販売企画はできるが、販売企画以外の業務に興味はなく、結果的に希望するポジションはなかった。

そもそも会社のあり方に疑問を抱いていた。昔の栄光にすがり胡坐をかく上層部。その上層部を味方につけなければ受け入れられない縦社会。不動産という金融システムに縛られ、自ら変革できない大規模な業界システム。チームと言いながらもほとんどの業務内容が個人趣向という嘘の求人。所々で起こる人間トラブル、トップのリーダーシップなど挙げればきりがないが、もともと不動産業界に骨を埋める覚悟はない自分にとって、不動産業界で認められる一人前は10年後と、今の時代では遅すぎると感じていた。近年の情報革新の進歩から逆算すると、10年という月日はあまりにも長い。そこまで待っていると情報はアップデートされ、社会から取り残されるのではという恐怖心を抱いた。不動産業界から足を洗いたい、日々その思いは強まっていた。


最大級の衝撃、カンボジアへの部署異動

秘密裏に転職活動を開始していた。主に企画職への転職を狙い、そのための営業はいささか仕方ないとは感じていた。また企画という要素を考慮すれば、エンジニア系の仕事もありではないかと転職エージェントの方からは紹介されていた。

しかし、衝撃はいきなり訪れる。

仕入れの部署に戻って2週間後出た新たな通達は「カンボジアチームへのジョイン」だった。理由は、子会社で動いていたカンボジアチームのリーダーが契約満了となること、契約やカントリーリスクなどで事務が多忙な中更に人員が欠けるのは絶望的状況、他の社員はそれぞれの現場で手が離せられないということもあり、ここも自分に白羽の矢が立った。

実は今まで海外に行ったことがない自分にとっては、大きなチャレンジだった。さらに今回の物件は実需向けではなく、投資用のマンションということもあり、これまでにないほど富裕層がターゲットになる。これも初の経験だった。

とにかくほとんどの事象が初体験、またカンボジアの情報など検索しても出てこないし、誰か知っている人もいない。それでもやるべきことは多大。この時は、下総中山に行く前の同じ部署にいた当時の直属が異動になって責任者になっており、彼の人間性・趣向性を多少なり理解できていたので、多少の不安は拭えた。しかし、現実はそう甘くはなかった。

まず苦労したのは人間関係だ。先ほどの責任者も去年の10月に異動になったばかりで、2年も前から続いているカンボジアのプロジェクトにおいては、全権掌握ではない。このため、その上司に便宜を図るだけでは足りなかった。さらにこの時直属になった、私の年次1つ上の上司(2年近くカンボジアのプロジェクトに携わっており、主任待遇で同期の中でも抜きんでている)と私の営業活動を直轄で見ることになった現地販売メインの中途社員(元S不動産出身)が個人的には難しかった。二人とも、上司に対するウケが良く、下へのアプローチは強め。行動の自由とアイデアを重んじる自分にとっては、非常に合わせづらいと感じた。自分の怠慢もあったが、正直一緒にいるだけでも辛かった。日々、何を苦言を言われるかわからないし、ひとたび自分が問われたことに答えても、持論を展開されて聞く耳を持たない。言わば、「部下を制御下に置かないと気が済まない」人種なのかと思った。もう一つ言うと、異動してきた先のトップは私が会社の中で一番苦手としている人だった。これも過度なストレスだった。

カンボジアチームの最大の問題は、システムの構築だった。オペレーション対応ではなく、その都度対応する形をとっていたが、問題なのは海外の事業なので判断・実行に時間がかかることだ。契約書の郵送1つにとっても、日本からカンボジアに郵送するのに3日はかかる。また、国の文化の違いで日本の当たり前が通用しない。例えば、省庁のルール改正はホームページではなく、facebookでお知らせ程度で発信していたり、はたまたそのルール改正を処理する役人が知らなかったり、など当たり前が全く通用しないのも問題だった。小さな積み重ねがやがて大きな差異となり、ミス・スピード感の欠如につながっていたのは事実だ。

各々の業務量は拡大し、通常の休日では間に合わないのは確実だった。振られる業務数が少ない私も休日出勤はざらにあった。また業務伝達はmessengerを使っていたため、24時間連絡が来る状態で、休日も気持ちが休まらないことも多かった。

気持ちを休ませることもできず、人間関係的には苦痛、さらにやりたいことと全く違うベクトルの内容(最終的には販売補助と国内投資家向けの営業がメインになった)であり、異動になってから2か月経ったころには、時限式の風船爆発のようにメンタルは崩壊しかけていた。


退職宣言の前夜

実はこんなに自分が批判している前職にも、信頼を寄せられる人も少なからずいた。特に自分の心の支えとなったのは、この2月まで経理として働いていた中途の女性の先輩だった。彼女は繊細な心を持っており、会社の異変も客観的意見として述べてくれた。もちろん気兼ねなくランチにも誘ってもらっていたし、自分のありのままを話せた。彼女自身も部署で不都合なことがあり、退職を決意していた。頭がきれ、残業や休日出勤も惜しまない尊敬できる先輩だった。だからこそ、当時の前職場のあり方や方向性について、不可解な部分もあったし、今の自分の趣向性と合わないことも理解してもらっていた。

ある日、気持ちがパンクしそうだった。伏線はたくさんある。

ストレングスファインダー、note、そして自分の好きなブロガーさんたちを見ていると、今の自分が本当に進むべき道を歩んでいるのかと。

このまま前職の社員として、言いなりになって働くのかと。

仮に前職でうまくやれて物件の責任者になって、何か得るものはあるのかと。


「会社に安定を求めるのではなく、自分のやりたいことで生きていくことこそ、真の安定ではないか」とやはり気付かされた。多分、どのやり方を選んでも、誰かしらからは非難され、「お前には無理だ」と蔑まれる。確かにそうかもしれない。

だが、それを決めるのは他人ではない。自分である。

失敗と思った瞬間こそ失敗であり、成功するまでの道のりは、すべて上手くいかないことだらけだ。途中で評価されても不本意だし、そんなこと言われるぐらいなら、見返すぐらい努力してやる。


確かに原稿を書いている今もそうなのだが、次への宛ては決まっていない。だが、それでも自分の方針は固まっている。もっとwebのことを勉強して、世間にありふれているまだ見ぬ他人の感情を揺さぶることを発信したい。発信するための技術とネットワークが欲しい。だからこそ、今日もnoteに書いている。あまりにもこの業界に無知すぎる自分が戦えるように、修行してくる。そのために前職で無駄なストレスや人間関係に巻き込まれるのはもう御免だ。

私は次の転職先がまだ見つかっていないまま辞める恐怖と僅かな自信を持って、元経理の先輩に相談した。

「まだ次の転職先決まっていないんですけど、辞めても大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃない」


退職宣言から今に至るまで

前述の次の日、日本にはカンボジアの責任者と私だけだった。他のみんなはカンボジアか終日外出だった。2年と2か月働いてきて、これほどに胃が痛む日はなかった。心理学上、「上司にお願いごとをするのは17時以降が承認が下りやすい」というデータがある。そのデータを頼りに私は気長に待ち続けた。

当日は忙しく、私も上司もタイミングを計れない。やっとの思いで言い出せる雰囲気になったころには、時計の針は20時を指していた。私は上司を来客用の打ち合わせ室に呼んで話を切り出した。

最初は業務の代休の件で話し合った。もちろん上司は私が辞めるなど露にも思っていないので、これから私が組織内でどう立ち回るべきかを基準に話し合った。

そして代休の話がひと段落して、本題に切り出した。

「○○さん、実は今の会社を辞めたいと思っています」

「おっと、まじか、、、」

もともとポーカーフェイスな上司の顔は、特にひきつっているわけではなく、言葉とは裏腹に、冷静に私の話を聞き定めようという意思を感じ取れた。

「入社からいろんな部署を経験して、多くのことを学べました。もちろん、カンボジアもです。ただ、私はカンボジアがこんなに魅力的だったのに誰も理解できていないように、本来もっと届けるべき情報を届けることができる人間になりたいんです。そして、その手始めとしてwebの業界でスキルを学んで、社会に発信する手段を身に着けたいんです。」

思いの真意を伝えても、なお上司の顔色が崩れることはなかった。ただ、自分も緊張と恐怖が混ざり合い正常な判断ができていなかった。そのあと、上司から伝えられた言葉はこうだった。

「ごめん、俺はwebの世界のことは分からない。けど、もったいないなと思っている。」

その後、自分の進みたい道について、webの業界やなぜ自分がこのような思考に至ったのかをこと細やかに聞かれた。

「ちょっと質問の流れを変えるけど、今うちのカンボジアの部署に足りないことや改善したらいいことってなんだと思う?」

私もこの質問の脈絡は分からなかった。この上司はデータ分析が細かく、感覚でものを言うようなことはしない。たぶんチームの改善点も分かっているはずだ。細かく言うとややこしくなるので、私は契約スキームの見直し、当時の自分の業務内容のスキームの見直しなど提案した。

上司もそれには気づいていたらしい。ただ、上司も言い出しきれないところがあったようだ。現況に対応するのでいっぱいで、新たに提案して実行できる時間もなかったようだ。だからこそと上司は最後に言い放った。

「このたくさん出たアイデアをうちの部署で出してもらいたかったなあ。でも、決めた道があるなら仕方ないよね」


翌日人事にこの内容を報告した。うちの人事は回りくどい説明が有名で、個人的には嫌いではなかったが、嫌っている人も社内には多かった。結果は上司と同じで、やりたいことがあるなら仕方がないといったスタンスだった。

さらに翌日、会社の幹部会があり、役員以上が全員出席。その場で私の退職は承認された。やはり退職に反対する人は数名いたらしいが、同様に「やりたいことがある」というスタンスに対しては異議を唱えるのは至難の業だったらしい。こうして晴れ退職に踏み切ることができた。


退職をしたいが踏ん切りのつかないあなたに送るポイント

最終出勤日の翌日、私は東京を離れ実家でこの記事を書いている。改めて考えてみると、思ったよりスパっと辞めることができたと感じているのが実情だ。私の在籍していたカンボジアの部署は今でも繁忙期で、絶えず忙しく、あまりの人手の回らなさに、派遣社員やインターンを緊急で雇わないと追い付かない状態らしい。しかし、そんなこと私の知ったことではない。もちろん少しばかりの後ろめたさはあるが、あまり同情ばかりしていると後ろ指をさされる。だからこそ、自分の選んだ道に後悔はないし、これからも前進していくだけだ。

ただ、私も今回は非常に勇気のいる選択だった。もし、あなたが今退職をしたいが今一つ踏ん切りがつかないのであれば、最後に下記の言葉を見てほしい。


①次の就職先が決まってなくてもいい

今回、私はwebの道に進むことは決めていたが、その後の就職先は決めているわけではなかった。履歴書の添削や記事では、無職の期間を無くすために、前職と次の職の間は無くすことは大事だと書かれていることは多い。

しかしながら、働きながら転職活動をするのは時間が限られているし、仮に退勤後や休日に面接を行ったとしても、裏返すなら転職先はそのような時間帯にも働くことが常態化している可能性がある。

さらに人間関係を理由に退職したい人もいるかと思う。一刻もその状況から脱したいのであれば、先に辞めてしまうことは決して恥ずべきではない。むしろあなたを蝕むストレスに囲まれているときの方が、今後のあなたをダメにする。


②周りや会社のことは気にしない

カンボジアの販売ペース的には、あと2か月が我慢していればPJは終わっていたかもしれない。ただでさえ出張の多い部署なので、日本で居続けることも極めて重要な仕事だったかもしれないが、私としてはどうでもよかった。

先ほどと同じで、会社にいることのストレスを考えれば、今行動する方が断然マシだ。後任が居ないだの、人員不足になるだの、それは完全に会社の都合。そのような状況しかつくれなかった組織マネジメントが悪い。もし、あなたがマネジメントの立場であるならば、投げ出すわけにはいかないが、少なくともメンバーの1人という立場であるのならば、行動の自由を主張するのは悪いことではない。


最後に

前職を辞めることができて一番良かったことは何かと最近考えていた。私の出した答えは、

「バラバラになっていたやりたいことのベクトルが1つに定まったこと」

だったと思う。

人材業界から、人事・経営参画、海外事業とできたりできなかったこともあったが、最終的に自分が実現したいのはものづくりの領域であり、そのための手段としてwebの道に骨を埋める覚悟を持つことができた。ひとえに半年前だとここまで細かく自分の進む道を決めることはできなかったし、歩んできたすべての道に無駄はないと確信している。

これからも道を間違えるかもしれない。途方に暮れたり、取り返しのつかない失敗や後悔をするかもしれない。それでも人生は続く。それらすべてを受け入れ自分が形成され、また一回り成長する。道半ばで折れてはいけない。私の戦いはこれから始まる。

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