見出し画像

「くらしのアナキズム」を読んで

島唄のようなアナーキー?

岡山大学文学部准教授の松村圭一郎著「くらしのアナキズム」を読みました。アナーキーといえばセックス・ピストルズを思い浮かべてしまうパンク出身の僕には、全く目からウロコの内容でした。力任せに要約すれば、アナーキズムとは、顔の見える相手同士がお互いの事情を斟酌しあって、現場レベルで貸し借りや取引をしている「市場(いちば)」の状態。これを、資本でもって大量仕入れでリスクをかぶり、不特定多数に売りさばいて利ざやを抜く胴元ができると「市場(しじょう)」ができる。市場の一番でかい胴元が国家だ、という考え方。
胴元にリスクを預ければ、庶民としては安く、安全に、いつでもモノが手に入って便利になります。得てして文明とは、この元締め制度がうんと発達して資本主義となっていくことであり、アナーキズムとは元締め・胴元がいない状態ということになります。そして、それは最近しょっちゅう身の回りに起きている。災害復興で国の支援が届くまでの状態とは、まさにこの本のタイトルどおり、くらしのアナーキズムだ、というのです。
そして、くらしのアナーキズムは、セックス・ピストルズが爆音でアナーキーと叫ぶのとは程遠いくらい、穏やかで思いやりに溢れた互助状態になるそうです。「島唄のアナーキー」みたいな感じ?

宛先のある経済とは?

ただ、胴元がいなければ、リスクは個々人が負わなければなりません。取引もやりとりも自分で判断しなければならない、高値でバッタモンをつかまされるかもしれない、次いつ手に入るかわからない。お互いがそんな状態だから、相手との信頼関係がとても重要になりますし、市場(いちば)の取引相手のニーズをよく理解して、相手にあったものを適切な値段で売らないと取引が成立しません。
逆に、もし相手の事情やニーズがよくわかり、適切なものを適切な量、適切な価格で取引できるなら、必ずしも胴元は必要ありません。物々交換も成り立つでしょう。こういう、相手の顔の見える最適取引状態を、筆者は「宛先のある経済」と呼びます。
宛先がみえない経済とは、不特定多数に大量に売る経済となります。フードロスも空き家問題もデフレも、集めた資本で有り余るほどたくさんのものを作って売り切るという経済の副産物です。もともと必要とも思っていなかった人に広告で煽って、買わなければまずいような気分にさせて買わせなければ、リスクをとって生産をした資本家の側は自分の首がしまってしまいます。僕がいた広告代理店は、この胴元のリスク最小化に不可欠な装置でした。宛先のない生活者に売るためには、生活者の知らない情報を知らしめ、買いたい気持ち、買わないとまずい恐怖を煽る技術が必要だったのです。

マス・パーソナル・マーケティング時代のアナーキズム

今、デジタルの世界に楽市楽座が生まれています。メルカリをはじめとする個人売買取引は、胴元のメルカリに手数料を落とす点では未だ完全なアナーキズムとは言えませんが、一人ひとりの信頼でモノや情報のやりとりをすることが可能になりつつあります。
近内 悠太 (著)「世界は贈与でできている」では、取引のサイクルが短く完結する(支払う→受け取る)レベルは社会組織として脆弱であり、貸し借りの構造が複雑で見えにくくなるほど相互の関係は長くなっていく(贈与の関係になっていく)というようなことを述べています。そういう意味では、メルカリはまだ貸し借りがないプリミティブな取引完結市場(いちば)ですが、そのうち、登録者間に貸し借りや贈与が生まれてくると、そこにはデジタルなアナーキズムが立ち上がってくるのではないかとも思います。

アメリカ不動産に見る楽市楽座

不動産物件はまさにこの、マス・パーソナルなアナーキズムが成り立つ世界ではないかと思います。情報が透明になるほどリスクは下がり、胴元=国家の与信担保は本来不要になるはずのもの(今は不動産は一番取引リスクが高いように思われていますが)です。実際、アメリカの不動産物件情報MLSは、日本のREINSとは真逆といっていいくらい透明で、そこに情報の非対称性が入り込む余地は非常に小さい。MLSを介した不動産取引は、まさにこの楽市楽座のアナーキズムに近いでしょう。

パンクだからというわけではないですが、ネオ・アナーキズムは資本主義の次に来る新しい経済の姿ではないかと薄々思っています。マス・パーソナル・マーケティングを実践しながら自問していこうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?