靴の修理と人生

革靴を修理に出した。

半年ぐらい前に新調した革靴で、高いものではないがデザイン等が気に入っていた。履き始めた頃は足の至る所が靴擦れしまくり、あまりにも痛くて会社のデスクで一人さめざめと泣いたりもしたが、足に馴染んでからは憂鬱な日々の通勤を少しでも彩ってくれる、貴重な存在だった。

革靴は人生で2足目だ。1足目は19歳の頃、一浪してから大学に合格したときに、合格祝いに親戚が買ってくれた。当時はよくわかっていなかったが、おそらくその靴は随分といいもので、その後大学院を出て就職するまで10年近く履き続けてもほとんどなんの問題もなかった。手入れすらまともにしていなかったぐらいだ。箱などを見る限りおそらくドイツ製で、なんともドイツというのは質実剛健ですごい国だとか、そんな根拠のないことを思った。

で、二足目はちゃんと手入れをしようと思い、クリームやらなんやらを買い揃えて色々と塗りたくってみていた。が、どうだろう。最初のうちは革が艶っぽくなったり、黒に深みが増したような気がしたりして喜んでいたが、クリームがうまく合わなかったのか、きめ細やかで生まれたての赤ちゃんの肌みたいだった革は、いつの間にか冬のアラサーの乾燥肌みたいにザラザラになっていた。私は艶々の赤ちゃんがザラザラのアラサーになるまでを想像し、その人生を思ってまたもやさめざめと泣いた。

その後クリームを変えてみて革の状態は多少改善したが、靴の手入れというのはなんと難しいものかと実感した覚えがある。でもまぁとにかく、自分で初めて買った革靴ということもあり、気に入って大事にしていたのだ。

しかし1ヶ月ほど前から左足の靴底がつま先側から少しずつ剥がれ始め、中からは靴底のどこかに使われていたらしい、コルクなどが千切れて飛び出し始めた。革靴の中ってこんな風になっているのか、こんなところにコルクが使われているのかという新鮮な発見はあったが、そう喜んでいるわけにもいかなかった。なんせ、指先がスースーするのだ。指が外に出てしまっているわけではないが、おそらく靴の本体の薄皮一枚で靴下と外界が隔てられているような、ギリギリの状態だった。特に雨が降った時には、薄皮の防御力は極めて低かった。今冬の東京はやけに雨が多く、仕事から疲れて家に帰って靴を脱ぎ、先っぽだけぺたぺたになった靴下を見た時に、私は靴を修理に出すことを決意した(またこの靴下を脱ぐのが大変なのだ。先っぽが足に張り付いて全然脱げない)。

近所に靴の修理屋は2軒あった。どちらもクチコミは上々だ。とりあえず近い方に行ってみようと思い、はたと気がついた。

靴ってどうやって持っていけばいいんだ?

買った時の箱があればいいが、あっただろうか。捨ててしまった気がする。「他の靴の箱に入れる」というのはなんだか微妙だ。ナイキのスニーカーの箱から革靴を出してきたら「あ、こいつ箱捨てちゃったんだな。で、家を漁ったらスニーカーの箱があったから、とりあえず入れてきたんだな」という感じが丸出しだ。私はそういうのがめちゃくちゃ気になる。

靴以外の箱に入れるというのもダメだ。サイズが合うかわからないし、「とりあえず感」はさらに強くなる。また、靴屋に行って六花亭の箱を取り出したりしたら、差し入れかと思って靴屋さんをぬか喜びさせること間違いなしだ。しかしそこから出てくるのは、あの美味しいバターサンドではなく、靴底が剥がれたうえに革がザラザラの革靴である。それは大変申し訳ない。「ビニール袋に入れて持っていく」というのも考えたが、どうにも安っぽい。

とはいっても、履いていくのはおかしいだろう。脱いで渡したら靴下で帰ることになる。しかも、脱ぎたての靴を靴屋さんに渡すのは気が引ける。生温かかったらお互いに最悪だ。

靴を片方ずつ、それぞれ人差し指と中指に吊るすように引っ掛けて、ぶらぶらと持って歩くのはもっとおかしいだろう。練習を終えたサッカー選手が、スパイクからトレーニングシューズに履き替え、脱いだスパイクを持って歩くんじゃないんだから。これはひどくわかりにくい例えだ。

他にも、「スニーカーを履いてその上から革靴を履く」「それぞれの靴紐を結びあわせて両足を一つにつなげ、首から下げるサッカー選手スタイル②」「両手に挿してバルタン星人みたいにする」「耳にかけてヘッドホンのフリをする」「店まで思いっきり投げる」など色々と考えたが、どれもしっくりこない。

結論を言うと、靴箱を開けたら買った時の箱が残っていたのでそれに入れた。捨てていなかったのだ。色々悩んだが、解決策というのは身近に潜んでいるものだ。さらに言うと、買った時の紙袋も残っていたので、それに入れて持っていくことにした。完璧だ。

一軒目の修理屋さんは休みだった。土曜日に持っていったのに休みで、なぜそのスケジュールなのかやや腑に落ちなかったが、閉められたシャッターを見ると「定休日:火・木・土曜日」だという。これはどうやら、のんびりやっている系の個人経営の店なのだろう。諦めて次に行った。

二軒目は自宅から少し離れていたが、ここは営業中だった。押しボタン式の自動ドアを開けると、ドアからやけに近いところに受付カウンターがあって、その奥には広々とした修理場が広がっている。たくさんの靴が無造作に置かれており、ブラシやクリーム、靴底のサンプルなどが散乱している。車の修理工場のような感じだ。

私が店に入ると、それに気づいた店員さんが近づいてきた。若い男性で、いかにも職人といった感じのややぶっきらぼうそうな人だ。そもそも店員さんが苦手なのに、こういう人にはさらに気後れする私だったが、ここで止まっていてもしょうがない。なんせ、自動ドアとカウンターが近すぎて、私がカウンターの前に立っていると自動ドアが反応し続けて閉まらず、冬の冷たい風が私と店にビュービューと吹き付けているのだ。もじもじしていてもひたすら寒いだけだと思い、私は切り出した。

「あの、靴を修理してもらいたいんですけど」

よく考えるとこれは間抜けな発言だ。靴の修理屋なんだから。案の定、店員の男性は何も答えなかった。私の心は折れかけだ。しかもこういう時テンパってしまうのが私の悪い癖で、カウンターに袋を置くのと、袋から靴箱を取り出すのと、説明をするのと、全部を同時進行してしまい、全く要領を得ない時間が続いた。

どうにか箱から靴を取り出し、靴底が剥がれてしまった旨を伝えると、靴をよく眺めた店員さんは、靴底の総取り替えが必要だと告げた。まぁそうだろうと思っていたのでここは意外ではない。

靴底の種類をどうするかなどについて話し合った後、店員さんは私に不意にこう聞いた。
「どのぐらい履かれたんですか?」

少し返答に窮した。正直に答えれば半年弱なのだが、半年は靴底が剥がれるにはおそらく短いだろう。しかもこの靴はガサガサ乾燥肌状態で、若々しい潤いなど全く感じない。店員さんは、おそらく数年という答えを予想しているに違いない。その予想を裏切り、半年ということを正直に告げたらどうなるだろう。

寡黙だが職人気質の彼のことだ(知らんけど)、おそらく靴に関してはビシッと言ってくるだろう。「え、半年しか履いてないのにこんなに剥がれたんですか?」とか言われたら、なんだか私の履き方が悪いような感じがして、どうも居心地が悪い。しかも、「え、半年しか履いてないのにこんなにガサガサなんですか?」とか言われたらもう最悪だ。「靴のお手入れはそんなんじゃダメですよ、ちゃんと合ったクリーム使ってますか」とか、「靴はおしゃれの基本ですよ」とか、「そんなことだからあなたはいまいちうだつが上がらないんですよ」とか、「最近仕事に向き合う姿勢だって緩んできてるじゃないですか、忙しいことを言い訳にしてクオリティの向上に十分に努めていないし、その癖プライドは高いし、毎日なんとなく険しい顔をして俺は忙しいんだオーラを出してるだけじゃないですか」とか言われたらもうその場でくずおれてオイオイと泣き出してしまいそうだ。お前は俺の何を知っているんだ。

だが、そこで平然と嘘をつけるほど器用な私でもない。大体、何年ぐらいと答えるのがちょうどいいのかがわからない。「2年です」といって「え、2年でこんなに?」と言われたら元の木阿弥だ。というか、嘘のぶん、その2年間のエピソードを無理矢理に作り上げなければならなくなる可能性もあって、より面倒臭い。

この3段落分のことを約0.1秒で考えた私の脳は、高速回転ののちにこの答えを弾き出した。

「いやー、そんなに長くはないんですけど……」

死ぬほど煮え切らない。普通に会話としてイマイチだ。当然だが店員さんの返答も「そうですか」ぐらいだった。ただ、それはそれでなんとなくホッとしている自分もいた。

懸念していたのは修理期間だ。当然だが、靴を修理している間も出社しなければならない。ただ、一度も靴を修理したことがない私は、靴底の張り替えぐらいなら1日で済むものだと思っていた。なんなら数十分で終わると言われたら、その間どういうふうに時間を潰そうか考えていたぐらいだ。感覚としては自転車のパンク修理である。自転車屋さんならあたりに並べられた自転車を冷やかして、無意味にベルを鳴らしたり変速ギアをぐるぐる回したりできるが(しないほうがいい)、靴の修理屋ではそうはいかない。靴べらを冷やかせばいいんだろうか。靴べら2本を背中合わせにくっつけて口に咥え、プリングルスとかやればいいんだろうか。

しかし靴屋さんの返答は私の予想を大きく超えていた。
「1ヶ月かかります」と言われたのだ。

これには驚いた。数十分が1ヶ月だ。数十分を仮に30分とすれば、1ヶ月=30日は1440倍だ。30分なら、YouTubeで日向坂46のMVでもいくつかみていればすぐ過ぎるが、1ヶ月ではそれどころではない。おそらく振り入れまで完成するだろう。それを私はどこで披露すればいいのだ。YouTubeか。YouTubeに始まり、YouTubeに帰ってくるのか。

違う、そんなことを考えていたのではない。その1ヶ月、私はどうやって通勤すればいいんだ。スニーカーはまずいだろう。お気に入りのAirJordan1を履いて出勤した日には、私が密かにスニーカーヘッズと睨んでいるIさんとの会話は弾むかもしれないが、多分上司に呼び出しをくらう。

そういえばそもそも、なぜこんなご時世にいつまでも出社しなければならないのか。出社にも出社のメリットはあるが、出社しなくてもできる仕事もある。そこをもっとフレキシブルにやっていくことが、これからの時代の会社のありようなのではないか。毎朝混んだ電車に乗ることもできれば避けたい。その辺りをどう考えているのだろうか。私はこの会社にいていいのだろうか。そもそも何がやりたいんだろうか。

靴屋さんに修理を頼んだ帰り道、私は革靴について考えながら、人生に思いを馳せていた。

考えながら家の靴箱を開けると、10年間寄り添ってきた1足めの革靴が、丁寧に箱にしまわれていた。あ、これを履けばいいのか。捨ててなかったんだ。よかったよかった。

そういえば、靴をどう持っていくか悩んでいた時もそうだ。こういう時、私はなんだかんだで割と幸運だ。ちょっとした解決策が偶然舞い降りてきて、それでどうにかうまくいくことが多い。そもそもそういうピンチに陥らないような周到な準備ができればより良いんだろうが、私はそこまで頭が回らない。でも、それをなんとなく助けてもらいながら、私は生きていくんだろう。そういう人生なのだ。

私は革靴について考えながら、人生に思いを馳せていた。

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