好きの方向性

最近は言いたいこともなくはないけど「本当に書いて大丈夫か?」と思う部分が多くなってきたので、noteを書いたり消したりを繰り返している日々です。文章を作る作業は向いていない、話した方が早いと感じているからかもしれません。ただ、文章は客観視できる時間が多いので『書いておかなければならない』とは思っています。

最近はSNSでの陸上競技関係者やアスリートの方の発信が多く『感じている&思っている事』『哲学』『提言』『批判』をよく目にする機会が増えました。

どの発言も本当に陸上競技に対して真摯に向き合っているからこそのものだとも感じる事ができます。月並みな言葉ですが「みんな陸上競技が好きだなー」と感じるぐらいの熱量で書いているのでうらやましいなーと。

なんでそんなことを思っているのかって?

最近、「本当に陸上競技というものが好きなのか?」と考える事が増えてきたからです。陸上競技という自分13歳からやっていたものが「本当に好きなのか?」と疑い始めたからです。それと同時に柏原竜二における「好きの定義ってなんだっけ?」とも考えるようになりました。

私は現在、陸上競技に指導者や競技者として関わっている訳ではありません。ゲストランナーや教室、講演で陸上競技に関わっています。あくまで〝スポット〟で関わる機会がほとんどです。

毎日のように陸上競技の事は考えているのですが。

最近は陸上競技に関して提言や批判をする事が減りました。(0じゃない。)我ながら大人になりました。現役の頃は「こうすればいいのに!」と常に思っていたのに。

自分の事で精一杯なのと、提言や批判をして民意や大衆は変えられても、企業や団体はそう簡単に変わらないと気が付いてしまったのかもしれません。もちろん、しかるべきところでしかるべき手続きを取ってから世間に広めた方が変わる確率は高くなります。前までの私はSNSで訴えかければ「変わる!変える事ができる!」と私は錯覚をしていたのかもしれません。

〝しかるべき〟とはなんなのか?例を挙げるとこんな感じ。

「〇〇の事に関して〇〇団体に提案書を提出したが、回答を得られなかったので私はこの場を借りて訴えかけます!」

とした方が、動くかもしれない。それと同時に「こいつやるなー」とも思われるかもしれない。今の世の中だからこそ、改めてブログやnoteのように書いたものや考えたものに対してクッションを置く必要性が常にあると思っています。私自身もSNSが身近になったおかげで色んな事に対しての距離感の感覚が鈍くなっていると実感する事が増えました。相互フォローしている人への距離感の詰め方とか。どこかのタイミングで初めて会ったとしても「初めて会った感じがしない。」と感じるケースが増えています。これは割と由々しき事態です。

陸上競技に対しての純粋な好きは減りつつありますが、こうして考えるきっかけや、陸上教室でうまく教えられなかったり、次回までにちゃんと相手に伝わる為にはどうしたらよいのか?と考えさせてくれる陸上競技は私はとても好きです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?