見出し画像

小説「消滅」

職場へ行こうと自転車を漕いでいる数メートル先に、突然黒い雑巾の塊の様な物が空から落ちて来た。塊は、ファサベサ!と奇妙な音をたて地面に激突、咄嗟の事に驚いた私は絶叫とも雄たけびとも判別し難い声を上げ、ブレーキを力いっぱい握り自転車をなんとか急停車をさせた。

数m先にある、空から落下して来た、黒い塊。

何が起こったのか一瞬わからなかったが、目を凝らせば落ちて来たそれは、鳥であった。薄黒い色をした、鳩である。可哀そうに、衝撃で首があらぬ方向にぐにゃりと曲がってしまい、目も何処か遠くをずっと見続けているではないか。

この鳩はなんで落ちて来たのだろう。エアガンか何かで撃ち落とされたのか。それとも病気か何かだろうか……。歩道を歩く者も車の通りも無く死骸と対峙しているのは、私一人きりだった。

朝から変な事に遭遇しまったな……そう思っていた矢先、鳩がモゴモゴと動き出した。まさか、鳩が息を吹き返したのだろうか、こんなにも首が曲がってしまっているのに……。自転車に跨ったまま私はその様をじっと見続けた。すると驚いた事に、どうやら鳩はゆっくりと起き上がろうとしているらしい。時間をかけゆっくりゆっくり上半身を起こそうとしている。悲しいかな首の骨は完全に折れているようで、頭部はだらりと胸部に力なく垂れ下がったままであるが、それでも首をプラプラさせながら懸命に上半身を起き上がらせている姿に、私は魅入ってしまった。

頑張れっ。もう二度と元には戻らないだろうけど頑張れっ。

すると鳩は、両の羽根を首に沿え、これまたゆっくりと頭部を上に持ち上げ始めた。まさか、自力で治そうとでもいうのだろうか。器用に羽根を動かし首と頭部の収まり処を捜しているかのようである。その様はもう鳩には見えなかった、あまりにも、頭の置き所を探している姿が人間的なのだ。

しばらくしてペキャパ!っとプラスチックのような音が鳴ったかと思うと、鳩の首が突如真っ直ぐになった。頭と首が、真っ直ぐに起立している。多少首の皮が不自然な感じにたるんではいるが、奴は自己治療を成し遂げたのだ。私は心から感嘆した。こんな鳩の行動は見たことが無い。

鳩は私の存在に気づいたのか、何かを言いたげにこちらへ顔を向けた。鳩に今、見つめられている……身を強張らせていると、鳩はそっと腰を折り首を下ろした。鳩は私に何故だか理由はわからないが、会釈をしたのだ。

私は固まったままで、なにもできなかった。
会釈だけし硬直している私を気にする事なく、鳩は徒歩で何処かへと去って行った。私は、動く事が出来なかった。

どのくらいそのままじっとしていたであろうか。私は我に返ると、とにかく職場へと向かった。だが着いた後も、鳩の一件が脳裏から離れない。あれは一体なんだったのか。社内の同僚に、鳩が折れた首を自分で治して、私に軽く会釈して去って行った……なんて話すワケにもいかない。言ったところで、頭がどうかしたと思われるのが精々だろう。私はネクタイを緩め、勤めて深く呼吸する事をする。あれは見間違いだ、きっと見間違いに違いない。そう自分自身に言い聞かせ、何とか仕事に集中し気を紛らわせた。

数時間程仕事をこなし、昼は町の中華屋に入った。今日は珍しく客は私だけで、厨房では店主がせっせと中華鍋を振って私の注文したチャーハンを作っている。店の油分にまみれたテレビはずっと情報番組を流していた。「先月から80歳以上の老人達が家、もしくは病院から姿を消しているとの報告が多数寄せられており、警察は集団失踪事件として……」さして興味もない内容だ。老人だって何処かに行きたければ行くものだろう。

それよりなによりも何とかしてもらいのは、ずっとカウンターの上にいるゴキブリだった。私から少し離れた所にずっと頓挫している。早く何とかして欲しい、ここはご飯を食べる所だろう。それがゴキブリを放置しているなどどういう了見だ。三席ほど離れているからといって、アレを見たまま食事をしたくはない。

「はい、チャーハ……あっ!……こりゃすんません」

店主が料理を出す段になって、ようやくゴキブリの存在に気づいたようだった。やっと何とかしてくれるか。そう思った矢先「こいつめ!!」店主は、有無を言わさず勢いよく丸めた新聞紙でゴキブリを叩き潰した。私のすぐ傍で、ゴキブリが捻り潰れる。潰れて行く過程をじっと見つめながら、この店には二度と来ないと心に誓った。

「ごめんなさいね、今キレイにすっから」そういって店主はゴキブリをそのままに、店の奥へと引っ込んでいく。せめて何かでこの残骸を隠して行かないものか。これではもろだしではないか。出来立てのチャーハンと、出来立ての死骸。そのがどちらもが私の目の前にあった。

見ないようにしようと思っても、どうしたってゴキブリの残骸を見てしまう。脚が3本、叩かれた衝撃でもげていた。とてもじゃないがもうチャーハンを食べる気にはなれそうにない。帰るかと腰を上げかけた時、潰れたゴキブリがもぞもぞと動き始め、ゆっくりと上半身を起こした。私は、息を飲んだ。

ゴキブリは細い足を器用に使いもげた1本の脚を拾い上げると、脚が元あった場所に当てがった。ゴキブリは苦手なのだが、私はこの虫が何をするのか大変気になり、顔を近づけて注視する。

もげた脚を胴体に当てがったが、それだけではもげた脚はくっ付かない。そりゃそうだろう、取れちゃったんだから。するとゴキブリは何を思ったかもげた脚の断面を自分の口元に持って行くと、断面を口でペロリと舐めた。1舐めしてから、再び胴体に当てがったのだ。まるで、唾で接着しようとしているかのように。

「君……さすがにそれは……無理だろう?」

私は一人呟く。だが今度は見事にくっ付いた。更に驚いた事に脚は再びクイックイッと動くではないか。くっ付き、動かす事まで可能とは……誠恐ろしき唾だ。ゴキブリはまた1本、また1本ともげた脚をくっ付け、見事身体の修復に成功したのである。

完治した所で、奴はすっと二本脚で立った。直立し、そして私を見つめている。中華料理屋のカウンターで雄々しく達姿は2㎝程しかないとは言え、なんとも優美である。私とゴキブリは見つめ合い、やがて奴はそっと頭を下げた。会釈をしたのだ、私に。私も、彼に少しだけ会釈を返した。

それでゴキブリは満足したのか、くるりと私に背を向けると悠々と何処かへと二本の脚で歩き去って行く。その後ろ姿はまるで、黒光りする小さな紳士の様であった。

奴が去り、私は店主の戻りを待たず代金だけおいて店から飛び出た。ゴキブリがもげた脚をくっ付けた事も、二本脚で立った事も、軽く会釈をした事もその全てが頭を混乱させた。いやそもそも、鳩の一件も謎のままだ。何故奴らは突如息を吹き返し、私に会釈をするのだ。

今日はおかしい。絶対におかしい。

動物園の前を通りかかると、門から象が現れた。二本脚でのっそりのっそり歩きながら、私の前に現れた。ただでさえ大きな象が二本足で立つと、更に大きく感じられる。私は二本足で歩く象を仰ぎ見た。象の目は落ち窪み肌は張りが無く、肉食獣に食い破られたのか腹の肉がごっそり無くなっていた。

象は唖然とし立ち竦む私を見ると巨躯を傾け、会釈をした。また、会釈をされた。象はゆっくりと道路を歩き、何処かへ向かって歩き始める。腹の肉も臓物も無くした象の行く先に、一体何があるというのか。

鳩も、ゴキブリも、象も……みな死ぬと、何処を目指し歩き続けるのだろう。

職場に戻る事なく、私は自宅のあるマンションに戻った。それに具合もあまり良くない、さっきからずっと息苦しかった。恐らくあんな可笑しなものを立て続けに見たからだろう。今日は家で大人しくしていよう……そうしないと、気が触れかねない。
自宅のドアに手をかけた瞬間、隣の家のドアがスーッと開き、鼻を突く独特な臭いと共にパジャマ姿の老人が出て来た。

「……常盤、さん?」

常盤さんがドアから半身を出し、外を見つめている。この老人は、確かもう何年も立ち上がる事も出来ず寝たきりだったはずだ。それが背筋を伸ばし、しっかりと立って歩いている。常盤さんは私に気づいたのか、白く濁った眼をこちらに向けた。そして他の者達と同じように、老人は皺だらけの頭をゆっくりと下ろし、私に会釈をした。常盤さんも亡くなられたのだな。そう私は直感する。

「お出かけですか?」

相手が人間という事もあってか、なるべく自然な口ぶりで声をかけてみた。答えは帰って来なかったが、心なしか、微笑んだような気がしないでもない。

「どちらへ?」

私は、皆が何処へ向かっているのか知りたかった。行った先には、何があるのか知りたかった。私の問いに答える事なく、老人は裸足のままゆっくりと去って行く。その姿は凛々しく、極めて紳士的だ。マンションの下の道には、常盤さんと同じようなパジャマ姿の老人達が、大勢何処かへ向かって行進しているのが目に入った。死んだ者は一体何処へ消えて行くのだろうか。

家のドアを開けると、ピシャピシャと音を立て、中からウチの熱帯魚が4匹、尾ひれを器用に使って直立で歩きながら玄関にやって来た。どうやら魚達も死んだらしい。水槽の掃除を怠ったのが良くなかったか……。私に軽く会釈をし、グッピー達も消えて行った。

魚を見送り、戸の鍵を閉めた。魚が歩いたおかげで廊下が生臭い。後で雑巾がけをしなければならないな……そう思いながらネクタイを外し、スーツを脱ぐ。とにかく息苦しくて敵わない……。

もしいつの日か私が死んだら、彼らと同じ場所へ行くのだろうか。そして、彼らの様に、私も誰かに向かって紳士的な会釈をするのだろうか。死んでいるのにそんな器用な事が、私に果たして出来るのかな……。

そんな事を思いながら私はよろよろと寝室まで歩き、ベットに倒れ込む。

老若男女問わず笑顔で楽しむ事が出来る惨劇をモットーに、短編小説を書いています。