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イントロダクション

 我が家にはパソコンがない。ネット書店を利用することはない。よって妻は近くの書店で本を探している。しかしその書店には妻が欲しい本がある確率は極めて低い。

 5年ほど前のことだ。宮部みゆきの「ソロモンの偽証」が発売された時のことである。第1部と第2部を併せて買ってきた妻は「1部と2部の発売間隔を見ると第3部の発売は今週に違いない。」と言う。

 運転免許証を持たない妻は遠方の書店に行く時は僕の力を借りなくてはならない。(僕が通勤の途中に書店に寄って見てくればいい、ということだが、僕はそうしない。欲しいのは僕じゃなくて妻だ。意地悪? そうじゃない。最後まで読めば分かる)そして休日に書店へ行ってみた。

 しかし書店の店頭には並んでいなかった。まだ発売前なのだ。肩を落とした妻に「そんなに都合よく発売されるもんじゃない。書店に勤めていたのだから分かるだろう?」と言うと「そうだけど」と小さな声で言った。

 ワクワクしながら書店に行ったら、目的の本がない。意気消沈する。そんなことも本を買うことの楽しみであることが最近忘れられている。

 これで僕が意地悪ではないことが分かったと思う。本好きな人は、買うという行為も含めて読書なのである。その愉しみを僕が奪うわけにはいかないのだ。

 本を選ぶことの楽しさは、他の買い物同様、欲望を満たす重要な行為である。選んだあげくに買わないことは、満足を否定する禁欲の極致である。書店の店頭ではこの二つの行為が頻繁に行われている。

 我が家にはパソコンはないが、本も買えるし、食料品だって、衣料品だって買える。なぜなら少しだけ車を走らせれば書店もあるし、スーパーマーケットもショッピングモールある。書店にもスーパーマーケットにも満足している訳ではないが、そこにあるものから選べば、とりあえずのものは手に入る。それでは全く向上心がないではないか、現状で満足するなんて。もっといいものがあるはずだ、と言われるのは承知しているし、僕だってそう思う。しかし考えてみれば、何でも手に入るインターネットで探し当てた品物を手にした時、欲望は満たされたのだろうか?

 それは本当に欲しかったものだったのだろか?

 期待値が高いほど失望も大きい。そんなことの繰り返しをするための買い物などしたくないと僕は考えてしまう。だから品揃えのよい書店やスーパーマーケットに出会うとわくわくする。

 ああ欲しいな、買いたいなぁと思える小売店には静かに心地よい風が吹いているような気がいつもする。

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