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高卒だらけの営業会社が、会員100万人のIT企業になった話

どんな会社でも変貌できる


「営業会社がスマホのサービスなんてできるはずがない」

「資金に余裕がないうちの会社では厳しい」

「高卒ばかりの経営陣で今からIT企業に転換するなんて」

 これは2014年の初頭、会社を設立してから5年の時が経っていた弊社で、駐車場シェアリングサービス『akippa(アキッパ)』を立ち上げようとしたことに対する社内の反応だ。

 それから5年が経った今、akippaの会員数は150万人を突破した。akippaは駐車場のシェアリングサービスであり、通常のコインパーキングと比べると価格が安く、駐車場をアプリで予約・決済できることが大きな特徴である。

 また、DeNA、GCP、住友商事といった企業などから総額35億円の出資を集め、急拡大をすることができている。

サッカープレイヤーだったある日のこと

 私は小学生の頃に『キャプテン翼』の主人公である、大空翼の優勝スピーチに魅了され「なんらかの分野で世界一になる」という目標を打ちたてた。中学2年生の実力テストでは5教科の合計点数が101点と勉強は得意ではなかったが、大好きなサッカーで世界一を目指した。高校生の頃の進路希望には「第1希望・セレッソ大阪、第2希望・ガンバ大阪、第3希望・名古屋グランパス」と書いた。

 高校3年生の夏休みにはサガン鳥栖の練習生になったり、複数のJリーグクラブのプロテストを受けたりと、契約に向けてチャレンジをしていたが、結果的には高校卒業と同時にプロになることはできなかった。

 高校を卒業してからは大学へ行かず、アルバイトをしながら地域リーグ(JFLのひとつ下のカテゴリー)でプレーをした。それと同時にJリーグクラブの練習にも参加するなど、継続してプロ契約を目指していた。

 その頃、あるキッカケから個人事業を始めることとなる。当時付き合っていた彼女と遊びに行ったある雨の日の帰り、財布に200円ちょっとしか残っていないことに気づく。アルバイトをしても仕事が出来なさすぎてシフトを入れてもらえず、生活に困窮してATMではわずか500円でもおろしていた頃だ。しかし、この日は銀行口座に500円すら残っていなかった。これでは家に帰るための電車賃が足りない。雨に濡れるのはいやだと思ったが、たまたま通りかかった100円均一にてビニール傘が販売されていた。

 100円の傘を2本買って長い距離を歩いて帰ろうとしたが、その直前に傘を持っていない人を見ていたので「雨に打たれている人には100円の傘が300円でも売れるのではないか?」と考えた。持っていたノートにマジックで『1本300円』と書き、路上で掲げていると、運良く2人組のサラリーマンの方が買ってくれた。しかも「助かった」と喜んでくれた。嬉しいのは私の方だった。この時「商売はなんて面白いのだ」と思った。

 その少しあとにサイバーエージェントの藤田晋さんや元ライブドアの堀江貴文さんの書籍を読んだことで、本格的な起業への熱が高まっていく。最初は「俺にはサッカーしかない」と自らに言い聞かせていたが、どんどん起業への欲が増して、とうとうサッカーを引退することを決意するまでになった。最後は「世界一は、サッカー選手ではなく経営者としてでも目指せるじゃないか」そう自分を説得し、22歳で引退を決めた。

 そして、24歳になったばかりの2009年に、akippa株式会社(当時:ギャラクシーエージェンシー)を立ち上げる。

起業するも、何度も資金が底をつきかける

 2009年2月、住んでいた大阪市平野区のワンルームでひとり会社を立ち上げた。資本金は5万円。本当は株式会社を立ち上げたかったのだが、定款の認証などで20万円以上はかかってしまうと知り、まずは6万円で設立できる合同会社の法人形態でスタートした。ヒト・モノ・カネが一切揃っていない状況だった。当時から「とりあえず行動」というスタンスは変わっていない。

 設立当初は『ザ・営業会社』で、平日はテレアポをして企業へ訪問し、携帯電話を法人契約してもらう。週末になるとイズミヤなどのショッピングモールでウォーターサーバーなどを販売する。当時はIT企業とはほど遠い会社だった。

 携帯電話を販売すると翌月には、1台あたり4万円ほどが入ってくる。起業の初月から頑張って営業活動をして、翌月には合コンで知り合った女性2名にテレアポのアルバイトとして入社してもらった(笑)求人誌に載せる余裕なんてなかったのだ。初年度の8月からは知り合いを中心に正社員も入社し、2010年には大阪市西区の雑居ビルへ移転した。しかしリーマンショックの半年後に起業したこともあり、いつもギリギリの資金で運営をしていた。私の給料は月に10万円もなかった。

 2011年の4月には初めて新卒採用を実施。しかしその前月に東日本大震災が起き、世の中が自粛ムードに。営業活動どころではない事態に陥った。それでも予定通り社員が7名しかいない設立3年目の会社が、6名もの新卒社員を入社させた。設立時のまま合同会社で運営していたのだが、新卒社員の親御さんから「株式会社じゃないと、ちょっと不安です」とのご意見をいただき、この月に株式会社へ組織変更をした。この時入社した6名の内5名は、当時から8年経った今でも弊社もしくは分社化した会社に残っている。資本金がたった5万円しかなかった会社に入社してくれて、ここまでの活躍を見せてくれていることは本当に嬉しく思う。

 その後、営業会社としてどんどん拡大していく中でぶち当たった壁のひとつは『労働集約型』であることだ。ある日、DeNAなどのIT企業の決算説明資料を見ていたら、自社と比較した『1人あたりの売上』の差に驚愕した。

 そこから労働集約型からの脱却に取り組むことになるが、新事業は見事に失敗してしまう。そして、資金繰りに苦しむことになってしまい、役員の給与はストップし続けた。資金稼ぎのために未経験のまま『なんばハッチ』という大阪の1500人規模のライブハウスを借り切ってアイドルライブを開催するなどし、何とかつなぎきっていた。

ベンチャーキャピタルにテレアポ

 早くまとまった資金を集めないと会社が潰れてしまう。銀行を何件も回るが、融資は断られ続けた。そんな時に向かった本屋で『資金繰りに困ったら読む本』を手にした。精神的にかなり参っていたのだと思う。

 そこで偶然知ったのがベンチャーキャピタルの存在だ。今考えたらありえないと思ってしまうが、ヤフーで『ベンチャーキャピタル 日本』と検索し、上から順にテレアポをしていった。

 しかし当時は2012年。今振り返るとリーマンショックの影響が尾を引いて、ベンチャー投資がここ20年で最も少ない年である。

 そのため、20社近くにテレアポをしても「今は新規の投資をやっていない」という回答が多く、なかなかアポを取ることができなかった。それでもなんとか3社だけ、会う約束を取り付けることができた。

 最初の2社はお会いしてもなかなか反応が悪く、その場でお断りされた。でも3社目だけはどこか違った。

「金谷さん、何かすごいことをやりそうですね!」初対面でそう言っていただいたのだ。しかし、説明を聞いていくとどうやらかなり大手のベンチャーキャピタルらしい。「これは審査が厳しそうだ。やはりベンチャーキャピタルからの資金調達は簡単ではないか」と思った。

 担当のYさんは「金谷さん、事業計画出せますか?」と私に聞く。私が「事業計画ってなんですか?」と答えると少々驚いた表情をした後にニコッと笑い「一緒に作っていきましょう」と言った。

 詳細は後に詳しく記すが、結果だけを伝えると2012年の9月に、この大手ベンチャーキャピタルから6500万円の出資をしてもらうことになる。奇跡的に会社は存続した。

なんのために会社を経営しているのか?

 大手ベンチャーキャピタルから6500万円の資金調達をしたとはいえ、溜まった支払いもありキャッシュに大きな余裕があるわけではなかった。会社を立て直すために新事業をストップして、再び営業力を活かした労働集約型事業で毎月営業数字だけを追い続けた。

 月末の最終日にみんなで頑張って目標を達成しても、次の日には月が変わりまた数字はリセットされる。そのような数字至上主義となってしまった結果、クレームが増えてしまう。

 そんな2013年4月頃、創業初期から一緒にやってきた取締役の松井建吾から「最近クレームばっかりになってしまっています。この会社って元気さんはなんのために経営していくのですか?」そう問われた。

 確かにそれまでも「いつかは世界一になりたい」というぼんやりとした目標はあったが、目的なんて考えてこなかった。資金繰りに苦しんだことでいつしかその目標さえも見失い、自分たちがごはんを食べるためだけの経営をしてしまっていた。それからしばらくの間「何のために会社を運営していくのか?」を考え続けた。

 そんなある日、自宅の電気が使えない体験をした。電気がつかないとスマホを充電することもできないし、テレビを見ることもできない。そんな暗闇の中で強く思ったことがあった。それは「電気はすごい。必要不可欠だ。私たちも電気のような必要不可欠なサービスをつくりたい」というもの。

 翌日会社に着くなりすぐに屋上へ駆け上がり、そこで喫煙していた松井に「なんのために会社を経営していくかを考えてきたよ」と伝える。松井は「聞かせてください」と落ち着いて返した。

「『なくてはならぬをつくる』それが俺たちの理念だ。電気・ガス・水道のように、人々がないと困るサービスを作ろう!」そう声を張った。

 松井は「元気さんらしくていいですね!」と言ってくれた。私たちの経営理念が決まった。

壁に200個の困りごとを書く

 私たちはそこから『なくてはならぬサービス=困りごとを解決するサービス』だと定義付けた。困りごとを起点にサービスを生み出すのだ。

 当時いた社員・アルバイトの約30名全員で200個の困りごとを壁に書いていった。自分だけでなく、家族や友人の困りごとも書き込んでいく。

「朝起きられない」

「電車を乗り過ごしてしまう」

「犬の散歩にいくのが面倒」

 何でも書いていいルールなので、それぞれ自由に様々なことを記入した。そして、その中にあったひとつの困りごとが目に留まる。今も活躍する藤野佳那子が書いた『コインパーキングは現地に行ってから満車だとわかるから困る』というものだ。この困りごとを解決するためにakippaを生み出すことになった。

 しかし、当時は社内にエンジニアとデザイナーは1人もいなかった。コワーキングスペースに行って、フリーランスのエンジニアの方とデザイナーの方にそれぞれお願いし、業務委託で作ってもらうことになった。

 プロデューサーは私、ディレクターは松井、プランナーは藤野。社内の全員が営業しか知らないITの素人集団だ。「本当にできるのか?」周囲は疑問の目で私たちを見ていた。

ゼロから立ち上げた広報チーム

 2014年4月25日、素人集団と業務委託の方々のタッグにより、akippaをなんとか無事にリリースすることができた。会社を作ってから既に5年が経過していた。元々営業が得意な会社だったため、会員が使える駐車場は土地オーナーへ直接営業することによって、ある程度は集まった。

 過去の新規事業の失敗もあり社内からは不安の声しかなかったが、私は不思議とこのサービスに対する絶対の自信があった。なぜなら社会のためにもなるし、寝ても覚めても良いサービスだと感じていたからだ。大抵のアイデアは一晩寝ると「大したアイデアではなかった」と思うものだが、akippaに関してはそれとは違った。

 ただ資金に余裕はないので、初年度の広告予算は1円もかけられない。私はゼロから広報チームを立ち上げ、新卒2年目の森村優香と一緒に『お金をかけずにテレビに出る方法』というようなニュアンスの書籍を読み込み、毎週10種類ものプレスリリースを書いた。

 4月であれば「お花見の時に便利!駐車場予約サービススタート」、「引越しの時に便利!近所の家の駐車場を使えます」など、考えつくことをどんどん書いて郵送していく。

 送り先はテレビ局ではなく、新聞社や出版社の編集部。「テレビ局はプレスリリースを直接見て調べる時間はあまりなく、新聞や雑誌などでネタを探していることが多い」という情報を掴んだからだ。プレスリリースの質はともかく、圧倒的な行動量で勝負した。

 するとある日、森村から「社長、日経新聞から連絡ありました」と焦った様子だが嬉しそうに伝えられた。私は「ここで確実に掲載してもらえないとスタートダッシュに遅れる。俺に直接対応させてくれへんか?」そう伝えた。そして、それまで憧れた新聞に載ることができた。

 すると、新聞や雑誌に出てテレビ出演を引き寄せる狙いは的中する。連鎖するように沢山の全国ネットのテレビ番組から続々と連絡がきたのだ。テレビで放送された日には、ヤフーの『急上昇ワード』で1位、ツイッターの『日本のトレンド』でも1位になった。間違いなくいつも見ていたウェブサイトの1位に『あきっぱ』の名前がある。「これはとんでもなく売上があがるのではないか」と期待を込めた。

衝撃の初月売上と社内の不安

 これだけ多くのテレビで取り上げられ、大きな期待を持って臨んだ初月だったが、売上は1カ月でたったの2万円しかなかった。この事実は社内の不安を仰いだ。

「社長、資金は大丈夫ですか?」
「また全員で営業をやったほうがよくないですか?」

 そういった発言が増えていく。みんなの脳裏には資金が底をつきかけた『あの頃』がよぎったのだ。仕方のないことだと思う。

 だが、メディアに出たことは売上とは別の部分で効力を発揮した。「これはこれから流行るサービスだ」と評価を受け、ベンチャー投資を目論む会社から続々とアポイントの依頼があった。

 結果的にDeNAとエニグモの須田社長ら個人投資家から合計5000万円の出資を得ることになり「会社がつぶれるのでは」という心配をみんなの脳裏から取り除くことができた。

 そして資金をしっかり持ち、マネタイズを優先させずに拡大のチャレンジをしていくことができた。

 私はそこから事業活動をやればやるほど、手ごたえを掴んだため、なんとかakippaを会社のメインにしたいと考えた。

 ただ、新規事業であるakippa事業の担当は、当時6名のみで、既存事業の営業に20数名がいる状態だ。既存事業には遠く及ばない売上のおかげで、多くの社員は『不人気のakippa事業部』に行きたいとは思わなかった。「どうすればこの新しいサービスに自信を持ち、自分もその事業部に行きたいと思うか?」を考えていたら、あるひとつの答えを見つけた。

IVSでの優勝

 2014年にakippaをリリースした当時、社内ではインターネットサービスに興味を持つメンバー自体は増えてきていた。特にみんなが熱心にネット中継で見ていたのが、半年に1度開催され、ベンチャーの登竜門と言われるピッチイベント『Infinity Ventures Summit Launch Pad(IVS)』だ。審査員はヤフーやLINEなど大手ITベンチャーの社長や役員。2014年5月のこのイベントの中継を見ていた時、「自分たちとは違う、すごいサービスばかりだ」とみんなが口を揃えていた。

 私はそれを見て「IVSで優勝すれば、みんながakippa事業部に来てくれるのでは?」と考えた。その次の回である2014年12月のIVSに向け、誰よりも早くスタートをきった。

 かなりの熱量で書類選考から予選まで参加して本戦に進むことができ、結果的に本戦で優勝した。みんなは「初めてこの会社が世間から認められた気がする」と涙して喜んでくれた。

 このことでようやくakippaに自信を持ってくれて、既存事業からakippa事業へ多くのメンバーに異動してもらうことができた。ピッチイベントで優勝すること自体に価値がないと考える人もいるかもしれないが、私たちにとっては想像以上に大きな意味があったのだ。

 そして2ヶ月後の2015年2月には、社名も現在のakippa株式会社へ変えることとなる。資金も追加で調達することができたため、広告などのマーケティングにもコストをかけることができる。

 しかし、社内にマーケティングを知る者は一人としていなかった。

Googleの人がウチに応募してくるはずがない

 株主であるDeNAの方々にアドバイスをいただき、IVSの前から『ウォンテッドリー』にマーケターの募集を載せていた。だが2ヶ月ほど経ってもほとんど応募は来なかった。

 しかし、IVS後に異変が起きる。IVSの優勝によってakippaのIT業界における知名度が劇的に上がり、多くの人が応募してきてくれたのだ。応募数はそれまでの30倍以上に膨らんだ。

 ある日、松井から「グーグルの人から応募がきましたよ!」と興奮気味に伝えられた。私は現実感のなさから、冷静に「ほんまかな?グーグルの人がうちに応募するか?」と返したように記憶している。しかし、会ってみるともちろん本当にグーグルの人だった(笑)

 応募してきたのは現在取締役になっている広田康博だ。「今は六本木で働いていますが、大阪出身なので、大阪から世界を目指せる会社をずっと探していました」と熱く語る広田に、私は「広田さん、世界を目指すのではなく、一緒に世界一を目指しましょう」と返した。

 しかしそんな大口を叩いたものの、この時のakippa事業における売上はまだ数百万円レベルだった。広田は2015年の入社後に数字を見て、あまりの規模の小ささに少し驚いていたが「自分がなんとかするしかない」と切り替えていた。

自分たちより優秀だと思う人を採用する

 広田の活躍もあり売上はどんどん上がっていく。しかし利用が増えれば増えるほど、社内は多忙になった。特にカスタマーサポートに関しては最初から24時間365日の体制を敷き、当初は役員メンバーと、社員の井上裕介で曜日ごとに深夜の着信を受けていた。そのため、昼間に他の業務をしている役員メンバーは体力的にも限界がきていた。

「各分野に仕組み化ができる人を採用しなければならない」と、全部署で仕組み化ができる人を募集した。私と松井の打ち立てたテーマは『自分たちよりスキル的に優秀だと感じ、かつマインドがマッチする人』だ。

 松井は多くの担当を持ちながらも、採用もどんどん進めていった。その結果、ウェブ開発・カスタマーサポート・営業・運用・事業企画・バックオフィスといった全ての部署に、仕組み化ができリーダーシップも持ったメンバーが加入した。その多くは大手企業や大手ITベンチャーからの転職だった。

 現在取締役COOの杉村大輔もその一人だ。杉村は元々監査法人で活躍する会計士だった。その後、事業会社のCFOとして東証マザーズへの上場を果たし、続けて当時の最短記録で東証1部への指定替えを成功させていた。

 彼もまた、世界一を目指している人物だ。採用面接で志望動機を聞くと「私が目指すところは東証1部ではなく、世界一にある。akippaが世界一を目指していると知ったから働きたいと思いました」と語った。

自ら執行役員からプレイヤーになった2人

 そして、営業会社時代からいたメンバーたちも必死に泥臭く成長していく。決してリーダーシップがあるメンバーは多くないが、彼らには並外れたフォロワーシップと突進力がある。

 その急先鋒が佐川雄紀と佐藤宗司だ。彼ら2人は営業会社時代から大阪本社と東京支社で執行役員を務めていた。彼らもまた、後から入ったメンバーから刺激を受けて成長を見せていたが、私の中には少しばかりの葛藤があった。

 たしかにプレイヤーとして佐川と佐藤は秀でている。しかし当時は仕組み化やマネジメントにおいては、新しく入社してきたメンバーに劣る部分があった。

 2016年のある日、佐川と佐藤から私に「話がある」と伝えてきた。私は「なにかよくないことかな?」と、不安に思いながらも冷静を装い「どうしたの?」と答えた。

「僕たち、役員を辞任します」

「えっ!」心臓が止まるかと思った。

 続けて佐川が「akippaの成功を考えると、僕たちは一度新しいメンバーにマネージャーを任せ、プレイヤーとして集中したほうが良いと思います。僕たちは自分たちの地位よりもakippaの成功のほうが大事です」と話してくれた。

 私は心から感動した。いつかトヨタ自動車の『リーダーズ』のように弊社の物語がドラマ化されたなら、私はこのシーンで最も多くの涙を流すだろう。

 彼らの行動は古参者と新参者がリスペクトし合うという、akippaの強固な文化をつくった。彼ら2人は現在もakippaで活躍しており、これまで得意ではなかった部分でも成長を遂げて、人材の配置において嬉しい悲鳴をあげさせてくれている。

 このメンバー間の融合により、akippaは飛躍的に伸びていくこととなる。

サービス開始4年半で会員数が100万人を突破

 私はかつて憧れた映画のワンシーンがある。それはフェイスブックを描いた『ソーシャル・ネットワーク』において会員数が100万人に到達した瞬間、ショーン・パーカーを中心に社内全体が盛り上がるというもの。

 この映画を見た2011年は、まだ営業以外のことを何も知らず、100万人の会員がいるサービスを作ることなんて夢物語でしかなかった。

 だが2018年11月、急成長によってakippaの会員数は100万人を突破する。サービスを開始して4年半での達成だった。

 松井に対し「ソーシャル・ネットワークみたいにやりたいね」と要望を出して、社内でピザやシャンパンを用意してもらったのだが、私は100万人に到達した瞬間は会食により立ち会えなかった。

 そのことをインスタグラムに投稿すると、そのコメント欄に弊社の第1号メンバー(合コンで知り合ったあの人)から「別にいいやん。akippaは100万人じゃなく、1億人やろ!」と、視座の低さに檄を飛ばされてしまった(笑)

勇気ある挑戦はムーブメントを起こす

 最近は初めてお会いした人に「最先端のことをやっているスタートアップですね」と言っていただくが、正直に話す。実はこのサービスを立ち上げた頃は、社員全員が『シェアリングエコノミー』はもちろん、AirbnbやUberさえも知らなかった。

 だが、営業しか知らない会社だった私たちが運営するサービスは、2018年の国内における訪問ユニークユーザー数でAirbnbを超えるまでに成長したのだ。

私たちはまだ大成功しているわけではないが、少なくとも、ただただ苦しい日々をなんとかみんなで乗り越えてきた。原点をしっかり書き示すことで、誰かの勇気になれば良いと思う。

 私たちが困難の中でも崩壊せずにやってこられたのは、組織として、人としての在り方には常に気をつけてきたからだ。

私たちは

・営業しか知らなかった会社

・役員が高卒だらけだった会社

・東京本社ではない会社

・資金がほとんどなかった会社

・IT業界に知り合いがほとんどいなかった会社

そんな弊社でも、運営するシェアリングサービスの会員数が150万人を超えるまでに成長できた。まだまだ成功しているとはいえないが、確実に目標である「世界一」へ前進し続けている。

この記事を読むことで、  
「こんな奴らにできるなら、私たちにも何かできそう」
「学歴がなくてもできるかもしれない」
「資金がなくても諦めなければどうにかなるかもしれない」

など、誰かの背中を押したり、励ましたりできればそんなに嬉しいことはないと思っている。(とはいえ起業は大変ですし、無理は禁物です)

金谷元気 ツイッター

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